第九章その4 お風呂回(嘘は吐いていない)
「そろそろいいかな?」
自宅マンションの浴槽いっぱいにお湯が満たされる。Tシャツ短パンという完全オフスタイルの俺は、そこに手を突っ込んだ。
うん、人肌よりもちょっとだけぬるい。ちょうど良い湯加減だ。
「よしいくぜ、相棒」
そう言って俺は脱衣所を振り返る。その床には、シルバーのユーフォニアムが鎮座していた。愛器ピエール、学校で使っているあの楽器だ。
県大会から一夜明けたこの日、俺は朝から風呂を掃除してお湯を張っていた。
コンクール後はお盆が明けるまで部活はお休みだ。その間も腕を鈍らせないよう、部員のほとんどは自主練のために自宅まで楽器を持ち帰っている。当然、俺も親を呼び、ハードケースごと車に載せてユーフォを運んでもらっていた。
だが今日のピエールはいつもとは違い、管やピストンをすべて外されている。このままマウスピースを挿しても、空気の通り道となる管があちこち寸断されているので音は鳴るはずもない。
そんなやや間の抜けた姿になったユーフォを持ち上げると、俺は足元に気を付けながら浴室内まで運び込んだ。
「はい、投入ー」
そして赤ちゃんを産湯に浸けるがごとく、楽器をゆっくりと浴槽に沈めたのだった。管の中にたまった空気が抜け、ぼこっと大きな泡が浮き上がる。
何も知らない人から見たら、正気の沙汰とは思えないだろう。だが金管楽器特有のグネグネに曲がった管の内側の汚れは、こうやって水に浸けて洗わないと落とせないのだ。人間の手と指では限界がある。
放っておいたら緑色のサビができるし、グリスのカスみたいなものも溜まってしまう。きっと世の金管吹きの大半は、楽器と一緒にお風呂に入った経験があると睨んでいる。
やがて浴槽から楽器を引っ張り上げると、管から水がどぼどぼと落ちる。何ともシュールな光景だが、こうしないと中の汚れまでは落とせないのだから仕方ない。
ガレージで愛車のフェラーリを洗っている気分だろうか。フェラーリどころか原付の運転免許も持ってない中学生だけど。
そういえば……いつだったかチューバを洗っていたら、中からハエの死骸が出てきた先輩がいたな。ピエールの中には今のところ何も入り込んでいないようでほっと安心だ。
ついでに抜いた管も流水で徹底洗浄して、専用の細長いブラシで内部の青サビをこそぎ落とす。最後に全体の水気を拭き取ると、窓際に引いたバスタオルの上に本体やパーツを並べた。やっぱり楽器を水洗いするなら夏が一番だ、あとはお日様が乾かしてくれるのを待って、ポリッシュで磨いてやれば完成だ。
「これでよし、と」
一仕事終えた俺は冷蔵庫からキンキンに冷えた麦茶を取り出してガラスコップに注ぐ。そしてぐびぐびっと飲み干すと、リビングのテレビにゲーム機のコードをつないだのだった。
「あんた、コンクール終わったからってダラダラしてんじゃないよ!」
昼ごはんの準備を進めていた母さんが、キッチンからぎゃんぎゃんと怒鳴り散らす。俺は「へいへーい」とだけ返事すると、リビングの床に寝転がってゲームを続行した。
あー、それにしてもオネットステージの裏曲は何度聞いても最高だな。
楽器は一旦カラッカラに乾燥させるため、少なくとも今日1日は音を鳴らすことができない。そのため今の俺にはゲームか宿題か、高校野球を見るくらいしかやることが無かった。
「せめてあんたも友達と遊びに行けばいいのに」
「みんなせっかくの休みなんだから、各自やりたいように過ごしてるんだよー」
ちょうど俺の放った一撃必殺のスマッシュが決まり、密集していた敵さんが一斉に画面外まで吹っ飛ぶ。
たしか聞いた話では、徳森さんは弟といっしょに遊園地に、松子は妹のピアノの発表会に、宮本さんも昔の友人に会いに大阪を訪ねているとか。みんなどこかに出払っているし、何よりもつい昨日までは家族以上に長い時間ともに過ごしてきた顔ぶれだ。休日にまでわざわざ会おうとは……宮本さんを除けば思わないな。
「あとあんた、宿題早めに全部終わらせときなさいよ。もうすぐ広島のお爺ちゃん家行くんだからね」
母さんがそう言うとほぼ同時に、リビングにピピーと電子音が鳴り渡った。炊飯器のご飯が炊き上がったようだ。
俺の父方の祖父母は、広島市の街中に住んでいる。去年までは頻繁に会っていたのだが、こっちに越してきてからはまだ一度も顔を合わせていない。
「そういや……」
ふと思い出した俺はキリが良いところでゲーム機の電源を落として立ち上がると、まっすぐ父の部屋へと向かった。そして机の上に置かれたパソコンのスイッチを入れ、ネットにつないだのだった。
「ええと、広島県、吹奏楽っと」
検索エンジンにカタカタと文字を打ち込んで、エンターキーを押す。マウスのカーソルが砂時計に変わり、数秒ほど待っていると検索候補のページが表示される。
「あった!」
お目当てのサイトを見つけ、俺はすぐさまダブルクリックでページを開く。
つい先日行われた、広島県大会の結果一覧だ。懐かしの学校名がずらずらと並ぶ中、俺はゆっくりとマウスを滑らせながら画面をスクロールさせた。
「お!」
東広島市立西賀茂中学校……金賞、代表!
俺はパソコンの前で「よっしゃ!」とガッツポーズを取った。3月まで俺のいた学校は、2年連続で中国大会出場を果たしたのだ。
中国大会の時期はは8月下旬。県大会が終わったからと休んでいる暇は無い、去年と同じようにお盆休みも返上で部活に打ち込んでいることだろう。
つまり俺が広島を訪ねる時期は、ちょうど追い込みシーズンだ。
「母さん!」
俺は部屋を飛び出すなり、ちょうど卵焼きを丸めていた母に声をかける。
「爺ちゃんトコ帰るならさ、中学覗きに行っていい?」




