第九章その3 最高の思い出
「中学校小編成の部、審査結果を発表いたします」
ついに来たか、この時が。客席に腰かけた俺はプログラムを開き、右手でボールペンを強く握りしめる。
午後からの演奏に配慮してだろう、ステージの上には椅子やピアノが置かれたままだ。その舞台の下手側には役員のおじさんがマイクの前に立ち、結果の書かれた紙を広げていた。
「余呉町立余呉中学校、奨励賞」
1校目の結果が告げられ、客席からぱちぱちという拍手が起こる。同時に名を呼ばれた学校の部員たちががっかりと肩を落として落胆した。
一方の俺は、プログラムの学校名の横にささっと『し』と書き込んだ。
「彦根市立廿日山中学校、優秀賞」
「いやったぁああああああ!」
あの廿日山のメンバーが歓声をあげて飛び上がる。当然の結果だ、もしここが優秀賞でなかったら、他の学校はすべて奨励賞だろうと俺自身胸を張って言える。
だがそれでも2年連続の優秀賞はやはり嬉しいものなのだろう、仲間同士ハイタッチを交わしたり感涙で席から立ち上がれなかったりと、喜びの表現は十人十色だ。
俺は何度か手を叩いた後、廿日山の名前の横に『ゆ』とペンを入れた。
その後も一校ずつ結果が発表される度に大歓声か虚しい拍手のどちらかが起こり、いよいよカサキタの番が訪れる。
瞑想するようにしんと目を閉じる宮本さん。その向こうではたくちゃんと筒井先輩の兄弟がそろってステージ上のおじさんを睨み付けていた。
「草津市立笠縫北中学校」
ああ神様、どうか!
部員たち全員、ぎゅっと手を合わせながら前屈みになって強く目を瞑る。
「優秀賞」
や……。
やった!
「やったぞ!」
そう声に出して立ち上がるよりも先に、いや、最初の「ゆ」が聞こえた時点で、他の部員は「きゃー!」と歓声をあげて席から跳び上がっていた。
「いやったぁあああ!」
「どんなもんよ、私らでもできるんだよ!」
松子と徳森さんが互いに軽く抱擁を交わしながら小さなジャンプを繰り返す。
「兄ちゃん、音楽って……いいね!」
「おめっとさん、あんた本当によく頑張ったわよ」
筒井先輩がその大きな掌で、隣で目をこする弟の坊主頭をわしわしと撫でまわす。そのもう片方の手は、喜びをじっくりと噛みしめるように強く握られていた。
もちろん俺も「いよっしゃああああ!」と叫びながら両腕を振り上げる。支部大会まで進出した去年と比べればレベルは落ちるものの、わずかな期間で弱小生ゴミ集団がここまでのし上がれたことは素直に嬉しい。
「砂岡くん……」
この大歓声の中でも、ひとり静かに座っていた宮本さんがぼそっと声をあげる。見ると彼女は今にも叫び出したくてうずついているのを、強がって我慢しているようだった。
「私、コンクールの結果でここまで嬉しくなれたの、初めて」
「そりゃ良かった。吹奏楽、戻ってきて良かっただろ?」
そう言って俺は得意げに笑いかける。直後、宮本さんはこれまで見せたこと無いくらいににっと口角を上げると、「うん!」と力強く頷き返したのだった。
県大会初出場にして優秀賞。俺たちはカサキタ吹奏楽部30年の歴史に、記念碑的な記録を打ち立てたのだ。その喜びに浸りすぎて、部員たちは周りの目のことなど気にすることも無く浮かれていた。
しかもそれだけではない。ステージのおじさんは改めて手にした紙を見直すと、再び息を整えて口を開いたのだ。
「きらめき賞、フルート」
「え!?」
突如言い渡される大ホール。途端、俺の後ろの席でホルンのぽっちゃり先輩と手を握り合っていた藤田部長は、ぱちくりと瞬きをして固まってしまった。
会場の拍手もより一層盛大さを増す。現状を理解できていないのか、藤田部長は三つ編みお下げを振りながら「え、え?」と周囲を見回していた。
「ちょっと藤田、あんたきらめき賞よ、きらめき賞!」
興奮気味の筒井先輩に小突かれ、ようやく思考の追いついた部長は自分を指さしながら「え、わ、私が!?」と叫んだのだった。その声に含まれる感情は喜び10パーセント、驚き90パーセントといった割合だろう。
きらめき賞とはいわば個人に贈られる審査員特別賞だ。各地区の吹奏楽連盟によって導入している大会とそうでない大会があるものの、団体の結果に依らず優れた演奏を聴かせた個人を表彰する。
「部長、おめでとうございます」
「藤田先輩のフルート、今日一番カッコ良かったですもん!」
ひとしきり喜んで多少クールダウンした部員たちは、今度は次々と部長に賞賛の声をかける。ここで部長もついに感極まったのだろう、驚嘆に染まったその顔はやがて崩れ、間もなくぼろぼろと大粒の涙がこぼれ始めたのだった。
「藤田先輩が部長だったから頑張れました! ありがとうございます!」
「うん、うん!」
返事したくとも無限に湧き出る感情のせいで、ろくに言葉が出てこないようだ。部長は顔を赤くして、眼鏡を外した顔を両手で押さえて何度も何度も頷いていた。
その後も次の学校、次の学校と発表は進められ、とうとう全ての小編成の部出場17校の結果が出揃う。そしてついに、関西大会に進む代表校の発表となった。
「ではこれより、全日本吹奏楽コンクール関西支部大会も滋賀県代表として出場する団体を発表します」
おじさんが別の紙を開き、軽く喉の調子を整える。その小さな咳払いに合わせて、会場に集まった何百人という奏者全員がごくりと息を呑む。
出場枠は3校のみ。優秀賞に選ばれた8校の、さらに半数未満という狭き門だ。
「私立極星中学校」
ついに1校目が発表される。同時に「いえええええい!」という大歓声がホールにとどろいた。
ここは演奏順が俺たちよりもだいぶ前だ。まだ大丈夫、可能性は十分にある。
「彦根市立廿日山中学校」
「いやったあああああああ!」
先ほどよりも何倍も大きな、むせび泣くような大歓声がホールにこだまする。
なんと2校目はあの廿日山だった。あのピッコロの金子君も「いえあああああ!」と野太い雄叫びを響かせている。
ワルの集まる学校と烙印を押されながらもつかんだ関西大会への切符。5年前、新任の手島先生が顧問に就いたことから始まった吹奏楽部の改革が実を結び、ついに彼ら自身で県の壁を打ち破ることができたのだった。
廿日山の躍進には、手島先生もきっと喜んでいるだろう。この3月まで赴任していた学校だ、2年生以上の部員は先生にとって直接指導していた可愛い教え子だ。
ついに、枠はあと1校のみを残すこととなった。俺たちの心臓は本番直前の何倍も大きく跳ね上がり、気が気でなく喉もカラカラに渇く。
そしてまるで勿体ぶるかのように、おじさんは開いた紙を見つめ、高らかに声に出したのだった。
「草津市立」
来た!?
俺、松子、筒井先輩……カサキタ一同がぐっと身を前に乗り出す。
「矢橋中学校」
直後、ホールの後ろの方から「やったああああ!」という歓声が聞こえた。笠縫北の名は呼ばれないまま、3校の枠は埋まったのだった。
落ちた……俺たちの2003年の夏は、今終わった。
前のめりの姿勢になっていた俺は、よっこいしょと座席に座りなおす。だがどういうわけか足にも背骨にも力はほとんど入らず、クッション張りの座席に沈み込むように深くもたれかかったてしまった。
「関西は……行けなかったかぁ」
「そりゃあまあ、いきなり行けたら話出来すぎだよね」
部員たちも互いに、苦笑いを浮かべた顔を見せ合っていた。最高の演奏めざして全力投球したものの、さすがに関西大会までは視野に入れていなかったようだ。
俺自身も今のカサキタの演奏では、県大会突破は難しいだろうと思っていた。だが一方で、もしかしたらと淡い期待を寄せていたのも事実。だからこそ発表の瞬間はバクバクに心拍を高めたんだし、落選したとわかった瞬間ここまで腑抜けになってしまったのだ。
「砂岡くん、私はこれで満足だよ」
その時、隣の宮本さんがそっと優しく俺の顔を覗き込む。彼女は今日の結果を妥当なものとして受け入れているような目をしていた。
「こんなに楽しいコンクール、私知らないもん」
そしてまたも、ふふっと落ち着いた笑みをこぼす。感情に苛まれてばかりの他の部員とはまるで違う大人びた振る舞い、これを冷静といえば聞こえが良いだろう。しかし同時にどこか突き放しているような奇妙な距離感と冷たさを、彼女は醸し出しているように思えた。
まあ宮本さんがこう言ってくれるなら、それでいいか。でも、やっぱり……。
「悔しいよね、行けるのなら行きたかったよね」
突如聞こえてきた声に、俺はびくっと跳ね上がる。
呟いたのは後ろの席の藤田部長だった。さっき何十年分も一気に涙を流したおかげか、眼鏡の下の目は真っ赤に染まっていた。
思わず振り返ってしまった俺と、部長の視線がばったりと交差する。その直後、部長はにこっと頬を緩め、とてもカサキタ吹奏楽部を引っ張ってきた人間とは思えない、幼く屈託の無い満面の笑みを見せたのだった。
「でも私、最高に幸せ。最後の夏にこんな最高の思い出作れたんだから!」




