第一章その4 はじめての合奏
「はい、ユーフォの楽譜コピーしといたよ」
藤田部長が持ってきてくれた楽譜を、俺は「ありがとうございます」と受け取る。
明後日の部活紹介で演奏する曲は、TOKIOの『花唄』だ。去年リリースされたポップスで、紅白歌合戦でも使われていた覚えがある。
吹奏楽で演奏されるのは何もお堅いクラシックや行進曲だけではない。最新のポップミュージックが吹奏楽向けに編曲されるのも至って普通のことだ。
こういった曲はそこまで難しいものはほとんどなく、初心者にも吹きやすい。また観客に吹奏楽に親しみを感じてもらうという意味でも非常に有用で、特に学校の文化祭や公民館のイベントなどで頻繫に使われている。
この『花唄』は去年の文化祭でも演奏されたようで、みんな一通りは弾けるそうだ。そんな安心感のせいか、本番2日前とは思えないほど部室にはのほほんとした空気が漂っていた。
「この曲ねぇ、徳森ちゃんがすっごい好きなんだよ」
譜面台に楽譜をのせて音符を小さく口ずさんでいると、俺の後ろでちょうどコントラバスのロングトーンを終えた松井さんがそっと耳打ちする。聞きなれない名前の登場に、俺は「徳森ちゃん?」と尋ね返した。
「ほら、あのルーズソックスの子」
ああ、ギャル子のことか。彼女、そんな名前だったんだな。そういえばあの子、パートはどこなんだろう?
ふと疑問に思ったちょうどその時だった。部屋の外からトランペットの高音が聞こえ、思わず俺はそちらに耳を傾けてしまったのだ。
同じ高さの音を一定時間出し続けるロングトーン、決まったリズムで音を刻むタンギング、息の吹き方だけで音の高さを跳躍させるリップスラー。いわゆる基礎練習に取り組んでいるだけなのだが、いずれもまっすぐで、ボリュームのある良い音を響かせている。ダメダメな部かとばかり思っていたが、ここのトランペットはちょっと違うぞ。
一方、藤田部長は部室の隅でひたすらフルートを吹き込んでいた。
すでに基礎練を終えて通しで曲を吹き始めた部長の演奏は、周りの部員と比べてはるかに上手い。細かいリズムもしっかりと刻めているし、フルート一本とは思えぬ音量と力強さがある。強豪校にいてもおかしくないレベルだった。
金管に慣れ親しんだ俺にとって、やや下向けに息を吹き込むフルートの鳴らし方は正直わけがわからない。だからこそここまで大きくはっきりと音を鳴らせるのは、素直にすごいと感じてしまう。
その後、基礎練習を一通り終えたところで俺は尿意を覚え、楽器を置いて席を立った。
「えっと、トイレどっちだったかな?」
部室を出たところで、きょろきょろと首を振る。
そして同時に、俺は目にしたのだった。開け放たれた窓の外に向かって、廊下からトランペットを響かせるひとりの女子生徒。
ギャル子……いや、徳森さんだ。さっきまでのテキトーな振る舞いからはまるで想像もつかない芯のある太い音、それでいて余韻を残す繊細な優雅な響きが、彼女のトランペットから紡がれる。肺活量と腹筋が優れているのだろう。
「……うまいね」
気が付けば、俺は思わず声をかけてしまっていた。人が良い音に惹かれるのは、花の蜜に集まる虫のごとし。
「あ、ありがとー」
こちらも演奏に夢中になっていたのか、少し驚きながらも徳森さんは得意げに笑う。見た目によらず案外素直な性格のようだ。
「えっと砂岡だっけ? あんた正直さ、ここ来て幻滅したでしょ?」
「いやそんなことは……多少あるかも」
「この正直者め!」
そう言って徳森さんはルーズソックスを履いた足を上げ、俺の脛をつんつんと小突く。上履きも踵が踏みつぶされており、キラキラのシールでデコレーションされている。
「まあここに来ちゃったものは仕方ないからさ、気楽に楽しみなよ。明後日だってそんなに気張らなくていいんだよ、やたらうまく演奏しちゃって大勢来ちゃうのも嫌じゃん。せっかくこんなにまったりした部活なのに」
徳森さんはそう話すが、その点は大丈夫、たぶんそんなことは無いと思うよ。
その後、職員会議から手島先生が帰ってきたところで、部員全員が部室に戻った。
これからついに合奏が行われる。部室の椅子を全員で演奏のできる形に並べ替えるものの、その準備は本当あっという間に終わってしまった。
バンドは俺を含めて14人。常に50人以上で演奏していた身としては、だいぶ寂しく感じる。ちなみに男子部員はトロンボーンにやたら背の高い先輩がひとりいるだけで、残りは全員女子だ。
全員が所定の位置に着く。この吹奏楽部の編成は、以下のようなものだった。
フルート 1名
E♭クラリネット 1名
B♭クラリネット 1名
バスクラリネット 1名
アルトサックス 1名
テナーサックス 1名
バリトンサックス 1名
トランペット 1名
ホルン 1名
トロンボーン 1名
ユーフォニアム 1名
コントラバス 1名
パーカッション 2名
マジでギリギリだよ……一部の生徒が要所要所で楽器持ち替えて補っているらしいけど、1年生が入ってこないとバンドとしてやっていけないな、これは。いや、チューバがいない時点ですでに成り立ってないと言えるかもしれない。
準備が整ったところで、14人の前に立った先生が白いタクトを手に取る。そしてひとりずつB♭、つまりシのフラットの音を出させ、全体で音の高さをそろえていった。ここで音が高ければ金管楽器の場合は抜き差しできる管を少し抜き、逆に低ければ差し込んで完全体の長さを変える。合奏前のチューニングは音と音の重なり合い、すなわちハーモニーを作るうえで欠かせない。
そして全員の音がそろったところで先生が「ではいきましょう。ワン、ツー!」とタクトを振り上げ、久々の合奏を迎えたのだった。
出だしはクラリネット主導の3連符。吹きにくいリズムとはいえ……うわ、思った以上にひどいな、これは。
一応正しいリズムと音程で鳴らせてはいるのだが、本当にそれだけだ。さっきのチューニングの意味は何だったのかと思うほど、ハーモニーもクソもない。たぶん低音だけとかメロディーラインだけとかのパート練習もろくにしてないんだろうな……いや、各楽器最低限の人数で、2人いるのもクラリネットとパーカッションだけだから、そもそもパート練習という概念自体が無いのかもしれない。
そして一部の生徒はともかく、総じて個人の技術が低すぎる。だから本来技術の優れているフルートやトランペットが浮きすぎて、全体的にちぐはぐになってしまっているのだ。
周りの音量も小さいので、バランスを考えてのことだろうが先生から「ユーフォ、もうちょっと音を小さく」と時折注意される。今までならむしろ「もっと音出せ!」と叱り飛ばされていたほどなのに。
仮に俺が新入生だったら、これ聞いて吹奏楽やろうなんて絶対に思わないよ……。
だが曲の終盤、徳森さんのトランペットのソロはなかなかに聴き応えがあった。わずか4小節だが、この曲が本当に好きなんだなと誰でも思ってしまうほどの強い想いが込められている。この子、もっと真面目に部活やってたら、絶対に俺よりも上手くなってただろうな。
ちなみに演奏中、俺は先生の振るタクトよりも、その下で揺れるお胸の方に目を釘付けにさせられていたことは絶対にナイショだ。
参考音源
『花唄』https://www.music8.com/products/detail2084.php