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第八章その4 初心者はある日突然うまくなる

「え?」


 壁にもたれかかって座り込んだまま、江口さんは顔をこちらに向けて固まった。


「てかぶっちゃけ今でも細かいリズムとか大の苦手。16分音符連発してるところとか大嫌いだし、32分音符なんて見た日には作曲家に殺意を覚える。だからホルンとかクラで細かい刻みやってる人は、めっちゃ尊敬してる」


「砂岡先輩が、ですが?」


「そーだよ。しかもウチのユーフォの先輩、マジで恐ろしいの。音程合ってなかったら個人練の最中でも容赦なくダメ出ししてくるし。練習中疲れてうーんって欠伸してたら、欠伸する暇あるなら音出せって怒鳴られたこともあったよ。しかも言うこと基本的に正論だから言い返すこともできないし。正直に言うと吹奏楽部入ったの、いつも後悔してた」


 自分で話しといてあれだけど、思い出すのも辛い日々だよ。周りはどんどんうまくなっているのに、どれだけ練習しても自分は全然進歩している気がしない。そんなフラストレーションに苛まれ続けた日々だ。


「でもある日の練習中、突然するっと音が出るようになって、指も全然迷うこと無くなったんだ。閾値を超えたという感覚かな、とにかくいきなり成長曲線の傾きがぐっと大きくなって、これまでできなかった難しい譜面もあれよあれよとクリアできちゃったのね。似たようなこと、宮本さんも話してたよ」


「宮本先輩が……」


 信じられないといった表情で、江口さんはぽかんと口を開けていた。加入は後からだが、うちの部で一番経験の長い彼女の影響力は絶大なものだ。


 突然吹けるようになるあの感覚は、一体何なのだろう。ひらがなを覚えるのに四苦八苦していた幼稚園児が意識せずとも50音をすらすらと書けるようになるように、脳の思考回路と感覚とが直結すると表現するべきか。


 ちなみに英語の先生が言うには、英語の長文読解でもある日突然そうなることがあるらしい。それまで修飾語がどこにつながっているのかひとつひとつ時間をかけて考えていたのが、さらっと読むだけで見破れるようになるのだそうな。


「だから江口さんも肩肘張らず、安心して練習したらいいんだよ。人によって遅い早いはあるだろうけど、いつか必ずなぜか突然吹ける瞬間がやって来る。楽器ってだいたいそーいうもん」


「じゃあ先輩、私はどうすれば?」


 もじもじと尋ねる江口さん。そんな彼女に、俺はぐっと拳を突き返した。


「そりゃもう吹けるまでとことん吹くしかない。というわけで練習あるのみ、1分1秒も無駄にはできない。だからちゃんと休んでめっちゃ頑張れ!」


「それ、どっちなんですか?」


 ブレッブレの回答が思ったより受けたのか、江口さんがぷっと吹き出す。この子の笑った顔、久しぶりに見た気がする。




 翌日は朝から手島先生が指揮台に立ち、全体での合奏練習に取り掛かっていた。


 結局、昨日も江口さんは練習に打ち込み続けたものの、楽器を我が物とするまでには至らなかったようだ。午後の合奏でもホルンの音色は例の部分は散々たる出来で、他がこれといった穴が無く聞こえるだけにその部分の残念さがどうしても際立っていた。


 県大会本番まで残り1週間を切っている。個人の力量を伸ばす時期はとうに過ぎ去っており、あとは曲その物の完成度をさらに磨いていかねばならない。


 このままきれいにまとまらないようでは、さすがの手島先生でもその部分についてはホルンの人数を減らすよう指示を出すかもしれない。なんとなく、タイムアップは今日までじゃないかというイヤな雰囲気がもんもんと漂っている。


 だがこの日の江口さんはいつもとは違った。いつもの伏し目がちな顔は朝見た時からまっすぐに前を向き、背筋もいつもよりぴんと伸びているように思える。まるで一皮剥けたような、そんな印象だった。


 というのも昨日、なんと彼女は自ら居残って練習を続けたいと先生に申し出て、特別に許可をもらっていたのだ。聞けば夕方俺たちが帰った後もひとりでホルンを吹き続け、夜8時近くになって警備員のおじさんからさすがにもう帰りなさいと言われるまで練習に打ち込んでいたらしい。


 もし昨日の練習で何かをつかめたのなら、まだなんとかなるかもしれない。そんな穏やかでない心中が俺の音に現れているのか、基礎練であるロングトーンの最中も電子チューナーの針は左右に揺れまくりだった。


「それではまず一回、通しで演奏してみましょうか」


 チューニングを終え、先生は早速タクトを振り始める。この曲の第一印象を決める、勇ましい出だし。ここはノリが良く合わせやすいので、朝一発目でもこれといった問題無くすっと音が出せる。


 やがて曲調が一転し、ゆったりとした木管楽器の音色が部室を包む。やはり藤田部長奏でるフルートの安定感は他を凌駕していた。誰よりも長く楽器に息を吹き続けてきたその結果が、このブレの無い音に現れているのだろう。


 そしてつながるのは、音程に不安を抱えるホルン隊。フルートが曲を盛り上げてくれたのに合わせて各自が楽器をかまえ、タイミングをうかがう。


 本当に大丈夫だろうかと心配しながらも、俺もまた伴奏に加わるべくマウスピースを口に当てる。そしてついに木管が奏でてきた音楽を引き継ぎ、金管中低音が演奏に再び加わったのだった。


 あれ?


 愛器ピエールを奏でつつも、これまでとは違う感触に俺は戸惑いを覚える。これまでの今一乗り切れていない印象とはまるで異なり、ユーフォやチューバの伴奏に主旋律がきれいにのっかって、ひとつの重厚なハーモニーが形成されているのだ。


 つまりホルンのメロディーラインが、まるで1本の楽器のようにきれいにそろっている。この音色はホルン3人がタイミングと音程をきっちり合わせなくては、生み出すことができない。


 その原因は明らか、江口さんの音がまるで昨日とは別人のようになっていたためだ。あの詰まったような聞いている方が息苦しくなってきそうな音が、まるで透き通るようなサウンドに一変している。


 宮本さんも松子も、俺の言いたいことを察知してくれているのだろう。こちらがちらりと顔を向けると、楽器を奏でながらも応答するように視線を合わせてきたのだった。


 その後も合奏はつつがなく進み、曲の終わりまで誰もミスらしいミスをせずこの日最初の演奏を終える。


「……今のです」


 先生はタクトを止めてしばらくの間固まっていたが、やがてにやっと口角を上げる。


「今の演奏ができれば県大会でも優秀賞は取れます!」


 そして興奮を抑え込むようにしてまくしたてたのだった。額からはたらりと一筋の汗が流れている。ここまで熱の入った先生の様子、今まで見たことが無い。


 そこからも合奏練習は繰り返されたものの、ホルンに目立ったミスは見られなかった。それどころか3人による息の合った演奏を披露し、このバンドにおいて最も成熟したパートではないかとさえ言えるほどしっかりと和音をいかんなく響かせ続けたのだった。


 やがて午前の合奏が終了し、昼休憩が訪れる。


「ちょっと! ちょっとちょっと!」


 ランチに向かうため部員たちが椅子や机に楽器を置く中、俺と宮本さんと松子の低音3人組はちょうど楽器を布で拭いていた江口さんに駆け寄った。


「江口ちゃん、すっごく上手くなってたね! 1年生とは思えないくらいにきれいだった!」


「うん、ウチも聞き惚れて、思わず押す弦間違えるところだったよ」


 口々に演奏を褒める宮本さんと松子。低音は高音の主旋律を支えるため、他のパートの演奏をよく聞いている。だからこそわずか1日で見られたホルンの変化にも、気付かないはずが無かった。


 他のパートといえど、先輩からの誉め言葉は後輩にとって嬉しいものだ。江口さんは照れ臭そうに顔を赤らめながら、もごもごとした声で答えたのだった。


「はい、昨日の夜、なんだか突然するっと音が通るようになって。何で今までこんなことができなかったんだろうってくらい、不思議な感じでした」


 良かった。彼女はひとつ、壁を突破したみたいだ。他の部員より時間はかかってしまったけれども、それだけにここからの伸びが期待できる。


 何よりも県大会直前というこの時期、ひとつの不安が解消されたどころかカサキタの見せ場になったのは大きい。


「あの、砂岡先輩」


 名を呼ばれ、俺はふと江口さんの顔を見た。相変わらず眼鏡と前髪に隠れてはいるものの、彼女はその瞳をまっすぐこちらに向けていた。


「ありがとうございます。先輩の話してくれたこと、ようやくわかった気がします」


 そう言って彼女はにこりと微笑んだ。昨日俺に見せてくれたものとも違う、心底晴れ晴れとした顔だった。


「え、砂岡、何話したの? ねえ、ねえ?」


 だが直後、松子はおもしろいおもちゃを見つけたとでも言いたげに目を細めると、にたにたと俺に詰め寄る。その顔があまりにも鬱陶しいので、俺は「うっさい」と軽くチョップを脳天に入れて返したのだった。

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