第八勝その3 昼飯用に加えて早弁用の弁当を持ってくるヤツもいる
「やあ、1日ぶり!」
翌日の朝も、大久保さんは部室にひょっこりと姿を現した。昨日来た他の3人はさすがにいないようだ。
「おはようございます。大久保さん、今日はお仕事なんじゃ?」
「ああ、うちはフレキシブルな職場だし、最悪自宅のパソコンでもできないことは無いからね。サウンドのイメージは概ねできてるし、締め切りまでに間に合わせたらいいんだよあんなもん」
不安げに尋ねる俺に、彼は自分のこめかみを指差しながら笑って返した。
音楽はもう頭の中にありますって、『アマデウス』って映画のワンシーンみたいだな。なんとなくこの人、テストは一夜漬けで乗り越えてきたタイプな気がする。
午前中は金管パートだけで集まっての練習だ。大久保さんを指導者に迎え、音楽室に移動した俺たち金管楽器の10人は緩やかな弧を描くように並ぶ。
「じゃあ頭からいくぞ、ワン、ツー」
昨日手島先生の指揮を見ていたせいか、お決まりの掛け声とともに手を動かす大久保さんにマウスピースに息を吹き込む。
この曲の序盤のように、勢いと音量の要される場面は案外音を合わせやすい。特徴的なメロディーなのでタイミングを覚えやすいからだろうか。仮に多少ミスしたとしても、他の楽器の音にかき消されるという安心感もある。
難しいのはむしろ楽器の本数が少ない、それでいて音の重ね合わせを要求される場面だ。
「うん、ここらへんはOKだね。じゃあ次、中盤からいこう。ちょうど木管の主旋律を引き継ぐところかな?」
始まったのはホルンを主旋律に置き、ユーフォやチューバが裏メロで支える場面。だが先ほどの勢いはどこへやら、ホルンの中音が目立つようになった途端、なんとも詰まったような耳を押さえたくなるような響きが際立ってしまう。
その演奏している方も気の抜けてしまいそうな音に耐えかねて、大久保さんは指揮の手を止めた。
「ホルン、大きく音が出てるね。けどどうも、指と息が合ってないなぁ。パートで互いに音を聞いて合わせなくちゃ」
褒めて伸ばすタイプの大久保さんがこういう言い方をするのは珍しい。昨日の演奏も聴いていただけに、やはりこの部分は気になるようだ。
「はい、頑張ります……」
自分が原因であることを痛いほど自覚しているのだろう、ホルンを手にした1年生の江口さんがしゅんと項垂れる。
その姿を見て大久保さんは「いやいや」と首を振った。
「みんなもうこれ以上できないくらい頑張ってる。休める時は休んで、練習するときは練習するってメリハリつけた方がいい。一番必要なのは経験と感覚、全部時間が解決してくれるものばっかりさ」
その後も金管パートはこの部分を中心に、時間をかけてそれぞれの音を合わせ続ける。だが結局、これといった大きな進展は感じられなかった。
「あーあ、お腹減ったー」
ランチタイムに入ってぽっちゃり先輩がカバンから取り出したのは、まるで重箱のような巨大な弁当箱だった。運動部の男子でもこんなサイズ使わんぞ。
「いつにも増してでかいですね」
俺は自分の手にした弁当箱と先輩の弁当箱の間で、何度も視線をちらちらと往復させる。俺のも結構大きい方だと思っていたが、先輩の前では10トントラックと軽自動車くらいのサイズ差があった。
「これくらい食べないとこの身体は維持できないんですわ。少食の女を演じるより、大食いと思われてもいいから好きなだけ存分に食べたい」
新手のポエムかな?
他の面々も弁当を広げ、友達同士で楽しく話し合いながらご飯を口に運ぶ。きつい練習だからこそい、こういった時間だけは絶対に確保しないとマジでノイローゼになるよ。
そんな中、江口さんは流し込むようにしておにぎりを2つだけ平らげると、さっさとホルンを持って音楽室から出て行ってしまった。
やがて廊下からホルンの音が聞こえてくる。午後からも練習は続くというのに、この休み時間も練習に費やすつもりのようだ。
「えぐっちゃん、頑張ってるね」
どさくさに紛れて俺の卵焼きを横から奪おうとしていた松子がぼそっと言う。俺は伸ばしてきたその手首をつかまえ、「油断も隙も無い」と押し返した。
「でもあの子の気持ち、わかるなぁ」
乗っかってきたのは大久保さんだった。今日はカレーパンのようだが、もう片方の手には昨日と同じくバナナが握られている。
「自分だけうまく吹けないのってキツいんだよ、取り残されている感じがして。それにつられて自分は音楽のセンスが無いんじゃとか、周りより劣ってるダメな人間なんだって思って余計にドツボにはまってしまうんだよ」
俺は何も言わず、ただ箸を口に運んだ。
江口さんの練習量が少ないわけではない。むしろ見た目に違わず真面目な性格で、藤田部長にも劣らぬほど真摯に打ち込んでいる。だが生来の性質で要領があまり良くないのか、上達は他の1年生と比べても遅かった。
弁当を食べ終わった俺は音楽室を出てトイレへと向かった。
出すもの出してすっきりとトイレを出た俺は、つい足を止めてホルンの音に耳を傾ける。やっぱり今ひとつ歯切れの悪い、詰まったような演奏だ。それにしても江口さん、休憩もろくに取らないで大丈夫かな?
俺は音楽室とは反対方向に歩き出す。やがて音を頼りに廊下を進んで目にしたのは、開け放たれた窓の外を向いてホルンを演奏する江口さんの立ち姿だった。
彼女の身長は168cmだ。これは中学1年生において周りの女子とはほぼ頭ひとつ分抜き出た長身であり、吹奏楽部全体で見ても筒井先輩の次に背が高い。
ちょうど一区切りついたのか、床に置いた水筒を持ち上げようとして、江口さんは両手で楽器を抱え込んだまま屈み込む。だが楽器をかばっているおかげで変に力を入れてしまったのだろう、伸ばした手が水筒にぶつかり、カラカラと床の上を転がしてしまったのだった。
「ほら」
自分の方へと転がってきた水筒を拾い上げ、俺はぐいっと彼女に差し出す。
「す、すいません」
眼鏡と長い前髪で隠れた顔を赤らめながら、江口さんは俺の手から水筒を受け取った。彼女のこういうシーンは珍しくない。ややどんくさい性分なのだろう。
「無理しすぎは良くないよ。部長だって一度それで立ち眩み起こしてるんだから」
「そうなんですか?」
レンズ越しに目をきょとんと丸める江口さん。ぼそぼそとした不明瞭な声だ。
「そうだよ。というわけでなーんの権限も無いけど俺からの命令、お昼休みはしっかり休む! ほらほら、楽器は置いた置いた」
そう急かして俺は江口さんに楽器を手放させた。なんだか大久保さんのノリが移っちゃったな。
壁にもたれかかりながら腰を下ろす江口さん。俺はそこから少し離れたところで、テレビを見るお父さんよろしく肘枕を突いてリノリウムの床に寝転がっていた。
「砂岡先輩、羨ましいです」
「どこが?」
「全部です、楽器も勉強も。私、眼鏡かけてるから勉強できるだろうとか背も高いからスポーツも上手いんだろうとか思われていましたけど、全然そんなことないんですね。必死こいて頑張っても、ようやく人並みレベルが限界でした」
そう話しながら、彼女は自分の膝に顔を埋めた。
「昔から物覚え悪くて、何やってもうまくいきませんでした。だから未経験の子がほとんどのことなら自分もできるかもしれないって吹奏楽部に入ったのですが……結果はこんなもんです」
自嘲気味に笑う江口さん。前髪の隙間から見える目には、諦めの色さえも浮かんでいる。
「私、できない自分がしんどいです。せっかく友達も先輩もみんな良い人ばっかりなのに……」
「江口さん、俺を高く買ってくれてるみたいだけど、そんな必要性まったく無いよ? そもそもここに入部した動機も手島先生が美人だからってホイホイついてきてしまったからだぞ。もし顧問がハゲ散らかしたおっさんだったら、俺迷わずパソコン部入ってたわ」
「そ、そうなんですか?」
若干引いたような目を見せる江口さん。俺みたいに割と欲求に忠実な男子とは、あまり交流が無かったのかもしれない。
「そういうもんだよ。それに俺も似たようなもんだったから」
そう言って俺は寝転がったまま、にやっと歯を見せて笑いかけた。
「実は俺、1年生のときは夏休み前までろくに楽譜通り吹けなかったダメ部員だったから」




