第八章その2 殻
昼食を終えた部員たちは、早速合奏に取り掛かる。
「フルート、いいですよ」
ノリノリでタクトを振りながら、手島先生はにこりと微笑んだ。
中盤、激しい曲調がゆったりと歌うような展開に変わる。そこから始まる藤田部長のソロは、このバンドにおいて一際輝いていた。
さすが練習の鬼、マル1日練習してもまるで疲れを感じさせない。他の木管楽器に支えられながら奏でられるフルートの優しくも芯のある音色には、大久保さんはじめ百戦錬磨の手島親衛隊も感心しているようだ。
このソロが終わった後はよく似た旋律を別の楽器ごとに繰り返しながら盛り上げていき、最後は大人数でのハーモニーを完成させるのがこの『アセンティウム』だ。
しかしその途中、先生は「うーん」と小さく唸りながら、タクトを振る手を止めたのだった。
「すみません、ここホルンだけでもう1回」
先生の指示に従い、ホルンの3人が楽器を構える。そして「ワンツー」の掛け声に合わせ、パートだけで奏で始めたのだった。
なんだか……ずれてる。いや、リズムは合っているのだが、音がもわもわとして締まりが無い感じだ。
先生は眉間にしわを寄せ、指導員のトランペット奏者の男性にちらりと目配せする。午前中トランペットとホルンの面倒を見ていた彼は、苦々しい表情を浮かべたままこくんと頷き返した。
演奏を止めさせる手島先生。そしていつもより強い語調で、「すみません」と切り出したのだった。
「ここは次のトランペットに向かって盛り上げていく大切なところです。もうちょっとホルン3人で音をそろえてください」
「はい」
やっぱり、といった顔でぽっちゃり先輩が唇を噛む。だが次の瞬間には隣に並ぶ1年生ふたりに向き直り、優しく励ますのだった。
「ふたりとも、前より上手くなってるから頑張ろ。ほらほら、えぐっちゃんもそんな顔してたら鳴らせる音も鳴らせないよ」
「……はい」
名を呼ばれ眼鏡をかけたひょろっと背の高い痩せぎすのような女子生徒、えぐっちゃんこと1年生の江口さんは弱々しく返事をした。
新入部員が楽器を初めて触ってから早4月、1年生の中では誰が一番うまいかというのは人によって判断が割れるところだ。しかし誰が一番下手かに関しては、可哀そうだが満場一致でホルンの江口さんが選出されるだろう。
「もし俺が先生なら、江口さんはあの部分は吹かないでって言うだろうな」
夕方、校舎を出て駐輪場に向かう途中、俺はため息まじりに漏らした。
「私もたぶんそう。もしくは指だけ動かして音は鳴らさないでって。残り日数も少ないのに、今できないことが本番できるかって聞かれるとね」
並んで歩いていた宮本さんも同じだった。音量は弱くなるが、あの中低音が目立つ場面でハーモニーを犠牲にするよりはずっとマシだろう。地区予選はなんとか乗り越えたものの、上澄みだけが参加する県大会であの演奏では悪目立ちしてしまう。
だがそれはコンクールで上位を目指す場合だ。今年のカサキタに関して、曲を吹ける楽しみを第一に考える手島先生のスタンスとは相容れない。そもそも松子が話すところでは、あのホルンの気になる部分でさえも去年までとは格段に上手いらしい。
「江口さんには諦めないで吹けるようになってもらいたいね。ホルンってほら、殻破るの大変そうだから」
「だよね、私も詳しいことまではわからないけど、ホルンって初心者と経験者の差が聞いただけでもわかるもんね」
主旋律、裏打ち、対旋律、ありとあらゆる場面でオールマイティに活躍できる楽器がホルンだ。歴史が古いためにクラシックでも幅広く取り入れられ、カタツムリのような独特な造形から管楽器の中では知名度も高い。
そんなホルンはオーボエと並び、扱うのが難しい楽器と言われている。
トランペット以上に小さなマウスピースは息を吹き込むのが大変で、管全体の長さに対して径が細いので音程の調節が難しい。加えてベルが真横を向いているという他の楽器には見られない構造のおかげで、まっすぐ音を飛ばせないのが音をこもらせてしまう主な要因のようだ。
初心者のホルンは音が詰まっているように聞こえて、どうも息苦しいように聞こえてしまう。これを解放感あるように吹けるかどうかが、ひとつ殻を破れた証だ。
「そうそう。おまけに上手くなる時って、突然レベルが10くらい上がったみたいにぬっと上手くなるよな。最初ずっともたついて先輩や先生に怒鳴られてた人が、ある日を境にパートで一番きれいに演奏してたりとかさ」
宮本さんはくすくすと笑い、「だよねえ」と返した。
「わかるわかる、楽器ってうまくなるスピード、人によって全然違うんだよね。まるで自転車だよ、最初は補助輪や親の支えが無いとコケてばかりだったのに、ある時気が付いたらひとりで乗れてたみたいな」
「あるある。あれ、何なんだろうな?」
俺と宮本さんはそう話しながら自転車に鍵を差し込んだ。がちゃんという音とともに錠が外れ、後輪のロックが解除される。




