第七章その1 本番
「またここに帰ってきたのか……」
2003年7月25日。朝早くからバスを降りた俺は、守山市民ホールの駐車場に降り立っていた。正面玄関には『滋賀県吹奏楽コンクール南部地区予選会場』と立看板が置かれている。
とうとう今日はコンクール本番。ここ数か月間積み重ねてきたすべてを発揮する一発勝負だ。
カサキタの演奏順は午前の3番目とかなり早い。プログラムによると小編成の部で出場するのは8校で、午前中にすべての団体が演奏する。
結果発表は昼の12時過ぎだ。優秀賞として県大会に進めるのは、4校といったところだろう。
午後からは中学Aの部が行われる。課題曲と自由曲を1曲ずつ演奏するこちらには17団体が出場し、小休止をはさみながらも夕方遅くまで続けられる。すべてのプログラムが終了して結果が発表される頃には、陽が沈んでしまっているかもしれない。
ちなみに関西大会常連の守山中央中学はかなり後の方だ。彼らはAの部での出場なので俺たちと競合することは無いものの、どれほどの演奏を聴かせてくれるのか今から楽しみではある。
本番前最後のチューニングを終えた俺たちは、各自楽器を持ったまま移動する。すでに全員スイッチは切り替わっているようで、無意識の内に足取りも普段のだらだらとしたものではなく、スッスと機敏に動いていた。
「ひゃー緊張する」
1年生のトランペット奏者がぶるると身を震わせる。途端、その前でぴんと背筋を伸ばしながら歩いていた徳森さんがくるりと振り向くと、後輩に小さく声をかけたのだった。
「うん、だから目の前のコンクールのことじゃなくて楽しいこと考えな、夏休み思いっきり遊ぶぞーとかさ。私もこのコンクール終わったら『踊る大捜査線』の映画見に行くんだって考えてるからさ」
にへへと笑いながら死亡フラグじみたことを言う徳森さん。口調は強気だが、楽器を抱くその手はそわそわと落ち着かない様子だ。
係員であるボランティアの高校生に誘導され、ちょうどひとつ前の学校の演奏が始まったところの舞台袖で待機する。
「この曲、聞いたことある」
「『センチュリア』よ。2年前のカサキタもコンクールで吹いたわ」
スネアドラムをスタンドごと持ち上げていたたくちゃんがぼそりとこぼすと、兄の筒井先輩がトロンボーンをきりりとかまえながら答えた。
底抜けに明るい高音の旋律。コンクールで定番の人気曲であり、聞くと元気が出てくる不思議なメロディーだが、今の俺たちにとってはむしろ緊張をより一層高めてきているようにしか思えなかった。
実際の音響はさほど良くないはずなのに、この場所からだとどういうわけか前の演奏がめちゃくちゃうまく聞こえるんだよなぁ。
やがて演奏が終了し、ぱちぱちと拍手の音が聞こえてきた。舞台から退出する他校の中学生たちの背中を見つめながら、俺は愛器ピエールをぐっと我が身に押し付け、緊張を和らげる。
「続きましては、笠縫北中学校、『アセンティウム』」
そしてついに、俺たちの名前がホールにアナウンスされた。
ここではスポーツの試合のように円陣を組んで大声で気合を入れることはできない。だから俺たち25人は全員で視線を交わし、最後に部長が「さあ、行こう!」とささやくように号令をかけて歩き出したのだった。
舞台の上へと進み出て、所定の位置まで移動する。明るすぎて熱ささえも感じる舞台照明に、誰かいるのはわかっても表情までは読み取れない観客席。ホールに立つ者にしか味わうことのできない異様な雰囲気とプレッシャー、そして止まるところを知らぬ高揚感。
5月の吹奏楽祭でも演奏した同じホールだけに、この雰囲気自体は分かっている。だがやはりコンクール本番という特別な時間のプレッシャーは、他とは比べ物にならない。
椅子に腰を下ろし、譜面台への楽譜のセットも完了した。生徒たちは準備万端だ。
最後に舞台袖から出てきた手島先生が観客に向いてお辞儀をすると、あちこちから拍手が沸き起こる。その拍手が小さくなったところで先生は指揮台に上がり、一呼吸置くとすっとタクトを振り上げたのだった。その動きに合わせて、部員たちも楽器を唇に触れさせる。
そして手島先生がワンツーと大きな口パクとともに白いタクトでリズムを刻み始めると同時に、俺はすうっと大きく息を吸い込んだのだった。
俺たちの『アセンティウム』が始まった。
力強い出だしの後、中低音による刻みながらの裏メロ。そこに合わせて乗っかるのは、クラリネットやフルートの勇ましい主旋律。今日は部長も絶好調なのだろう、俺の位置からでもフルートがよく響いているのが耳に届いている。
さらにそこにトランペットの響きも加わり、音楽はより重厚なものへと変貌を遂げる。この曲は序盤からクライマックス、力強くも耳に残りやすい旋律で聞く者をぐっと引き寄せる。
途中からは曲調もゆっくりと落ち着いた雰囲気になり、しばらくの間バスクラで支えられながらのフルートソロが続く。誰よりも長く、そしてまっすぐにフルートに向き合ってきた藤田部長の本領発揮だ。不思議な色気のある音色がホールに響き、観客だけでなく一緒に演奏している俺たちでさえもつい聞き入ってしまうところだった。
やがてフルートが作り出したしっとりとした雰囲気をホルンやユーフォの中低音が引き継ぎ、トランペットが同じメロディを吹いて最高潮まで盛り上がりを高める。この一段ずつ曲が出来上がっていく感じ、まるで最初はばらばらでまとまりも無かったのが、今こうしてひとつのバンドとして舞台に立っている俺たちカサキタ吹奏楽部のようだ。
いよいよ後半、出だしと同じ勇壮なメロディを繰り返しつつも、広がりある中間部の前と後とでは印象も大きく異なる。こういった大音量で鳴らす場面の方が他の楽器に埋もれやすい中低音にとっては吹きやすい。俺はすっかりリラックスした心持ちで演奏を続けていた。
そしてついにフィニッシュ。パワフルなメロディラインをチャイムで彩りながら、全員がフォルテッシモで楽器を鳴らしながらホールに全力の音色を響かせる。最後はその余韻を残しながらもすっと音を切り、ティンパニーの3連打で演奏を終了したのだった。
直後、観客席から割れんばかりの拍手が巻き起こる。拍手は先生がお辞儀をした後も、楽器を抱え上げた俺たちが退出してもなおも続いていた。
俺自身としてはミスの無い演奏のつもりだったが、聴く側がこの曲をどう受け取ったかまでは分からない。しかしそれでも、この反応から察するに悪いようには思われなかったようだ。
舞台袖の通路まで引っ込んで拍手の音もほとんど聞こえなくなった。ここでようやく緊張から解放された俺たちは、互いに楽器を持ったまま歓声をあげてハイタッチを交わしたのだった。もしもこれが野球部だったら、野球帽を高く放り投げていたところだろう。
「終わったー!」
「みんなお疲れ様、最高だったよ!」
「私、自分の演奏よく覚えてないよ」
ひとつの山を乗り越え、感情の高まりを分かち合う部員たち。
「リードミス……もう一度やり直したい」
そんな中クラリネット奏者がずるずると鼻を鳴らしながら涙ぐむので、他の部員から「大丈夫だよ」と慰められる。
「去年は誰も泣かなかったのに……」
その姿を見てコントラバスを抱えていた松子はぼそりと呟くものの、彼女自身もやり切ったという達成感と今一だったかなという消化不良感の入り混じった複雑な顔を浮かべている。
コンクールではたとえどこまで完璧に近いパフォーマンスを発揮したとしても、まだいけたのにと煮え切らない思いが残るものだ。俺も演奏直後はそこまで思わなかったものの、今さらになってもうちょっと後半のハーモニーを合わせておけば良かったかな、と後悔の念が湧き上がっているのを感じていた。
「みんな、今日はありがとう!」
通路を抜けてロビーに出たところで、先頭を歩いていた藤田部長が部員全員を振り返る。
「みんながしっかり支えてくれたから、私も気持ち良く吹けたよ! 私、吹奏楽部で部長やって、本当に良かった。大変なことも……たくさんあったけど……今日一日だけで全部チャラにできる」
話す部長の声が徐々に詰まりはじめる。そしてとうとう涙の粒をぼろぼろと目から落とし、部員24人の前で泣き出してしまったのだった。
「みんな……本当に今まで……ありがとね!」
おいおいと言葉にならない感謝を述べる先輩に、俺たちもつい涙腺を刺激される。泣きはしなかったものの、じーんと感じてしまったぞ。
「あんた気が早すぎよ、結果発表もまだなんだから。ほらほら、楽器片付けて早くホール戻るわよ」
見ていられないと思ったのか、長身の筒井先輩は部長の元に歩み寄ると、その小さな背中にそっと手を回してポンポンと優しく叩いた。急かされた部長は「うん、あ、ありがと」と目を擦りながらゆっくりと歩き出し、他の部員たちもあとに続いた。
とりあえずやれるだけのことはやったのだ。結果発表まであと2時間少々、それまでは他校の演奏を聴きながら来たるべき時が来るのを待つしかない。
参考音源
『センチュリア』
https://www.youtube.com/watch?v=ZOlyyepQwi4




