第一章その3 楽器に名前を付けるタイプは案外多い
「えっと、たしかユーフォはここに……」
入部の決意を固めてからしばらく後、俺は松井さん、そして部長会議から帰ってきたばかりの部長の3人で楽器庫をあさっていた。
3年生の藤田部長は、眼鏡と三つ編みおさげが可愛らしい小柄な女子生徒だった。少し幼い印象も受けるが、同時に生真面目で頼りがいのある風格も漂わせている。
さすがは楽器庫、壁面はすべて棚になっており、楽器の収められたハードケースが所狭しと詰め込まれている。
「あ、これだこれだ!」
そんな中から、部長はひとつのケースを両手で引っこ抜いた。高さ40cm、横幅80cmほどの長方形だが、片側だけベルと呼ばれる大きな口の形が象られている。
早速、部長は床の上にケースを置いて留め具を外す。
「うちにユーフォが来るの、何年ぶりですかね?」
背中から覗き込んでいた松井さんが不意に尋ねた。
「私も見たこと無いなぁ。でも大丈夫、新入生にも吹いてもらえるようにってオイル入れたばっかりだから、たぶん使えると思うよ」
そう言ってがちゃりと開いたケースから現れたのは、銀メッキ仕上げの曲線美。ついにご対面、お待ちかねのユーフォニアムだ。
冷たい金属製のピストンを押すと、しっかり素早く戻ってくる。中に仕込まれたバネにも問題は無いようだ。
トランペットやクラリネットなら10万円以内で購入することも可能だが、ユーフォのように大きな楽器は最低でもン十万円かかったりする。我々のような公立中学の生徒にとって、学校にちゃんと楽器があるかどうかはまさに死活問題なのだ。
「吹いてみていいですか?」
「はい、どうぞ」
「じゃあ」
俺はケースからマウスピースを取り出し、ハンカチで埃を落とす。ユーフォニアムやトランペットのような金管楽器は、このマウスピースと呼ばれる円状の金属を口に触れさせ、唇を震わせることで音を鳴らす仕組みだ。この部分は取り外しできるため、練習の前後で水で洗ってよく拭き取るのが管楽器吹きの日課だ。
マウスピースを口に押し当てると、金属の冷たさが肌に伝わる。そして少しばかりバズイング(マウスピースだけで音を鳴らすこと)を繰り返すと、はやる気持ちを抑えて楽器を持ち上げた。
久しぶりの楽器の重みと、このフィット感。前の学校で最後に吹いたのから2週間ほどしか経っていないはずなのに、まるで20年来の友人に再会したように懐かしい。まだ13年と10か月しか生きていないけど。
そしてろくにロングトーンもチューニングも行わないまま、息を吹き込んで指を動かしたのだった。
楽器を吹けるこの喜びを、一発目の出だしにすべてぶつける力強いブレス。曲は『星条旗よ永遠なれ』、誰でも一度は聞き覚えがあろう行進曲の定番だ。
簡単ではないが伴奏や裏打ちの多いユーフォでも珍しく、大半が主旋律だから吹き応えがある。元々アメリカ海兵隊の曲だけに力強い旋律はもちろんだが、途中からはまるで別の楽曲のような美しくも優雅な曲調が現れる。この部分はユーフォ吹きの腕の見せ所だ。
体育祭のマーチングで吹いてからというもの、俺にとってはこの曲が一番のお気に入りだ。それ以降俺は練習一発目にこの曲を吹いて、その日の調子を確かめたりもしていた。
それにしてもなかなかに良い楽器だ。あまり人の手に触れていないのか、錆びもほとんど無いし一見すると新品のようだ。安いものではピストンは右手で押す3本だけだが、これには左手にももう1本付いているので演奏の幅がぐっと広がる。
……よし、こいつの名前はピエールで決定だな!
ある程度鳴らしたところで、俺は満足の笑みをこぼす。そしてようやく我に返ると、楽器庫の中で部長と松井さんのふたりが呆然と立ち尽くしていたのを見て、夢中になって吹きすぎてしまったと気恥ずかしく思えてきたのだった。
しかしそんな俺のことなどまるで気にもしないように、ふたりはそろって「すごい!」と手を鳴らしたのだった。
「すごいよ砂岡くん! こんなに上手い演奏間近で聞いたの、初めて!」
藤田部長が眼鏡のレンズ越しに目を輝かせる。松井さんに至っては「ウチが見つけてきました、ウチが」とすっかり鼻高々のスカウトマン気分だ。
「ありがとうございます」
「こういう中低音の響きってきれいだよね」
やはり吹奏楽と聞いて皆が思い浮かべるのは、華やかなトランペットや優雅なフルートといった高音の楽器だ。これらはステージの上では楽団の目立つ位置に座り、さらに主旋律を任されることも多いのでビジュアルでも楽曲でもとにかく目立つ。
だがチューバやユーフォのような低音楽器がいるのといないのとでは、音の厚みがまったく違う。バンドに低音がいないというのは、左手を使わずにピアノを弾くようなものだと思えばよい。
「どれくらいユーフォやってたの?」
「中学入ってからです。前の学校が結構熱心で、いつも遅くまで部活してました。おかげで広島県代表として中国大会に出て、銀賞とれました」
「中国大会!? そりゃうまいわけだ!」
松井さんがげげっと目を剥くと、部長も「私らにとったら雲の上の話だね」と自嘲気味にのっかった。
「うちの部に入ってくれてありがとう。砂岡君がいれば部活紹介でも心強いよ」
「部活紹介?」
「うん、入学式の次の日なんだけど、新入生に向けてすべての部が体育館のステージの上で、部活の内容を紹介するの。で、うちはいつも短めのを一曲演奏してるんだよ」
「へえ、曲は決まってるんですか?」
「うん、去年の文化祭で演奏した曲だから、練習しなくても大体みんなできる」
おいおい、そういう決め方かよ。
ピエールを部室に運びこんだ時には、すでに部員たちが部室や音楽室、廊下に散らばって各自で練習を始めていた。
遊んでいたギャル子たちも人生ゲームを片付けており、ホルンの子がまっすぐ一定の音を出し続けるロングトーンの練習に取り組んだり、パーカッション担当の子がメトロノームに合わせてスティックで机を鳴らしていた。
しかし……どうも気になる。さっきからというもの、本来あるべき楽器の音がまったく聞こえてこないのだ。
「ねえ松井さん」
渡された譜面台を立てながら、俺は近くで楽器を運ぶ松井さんに声をかけた。
彼女のパートはコントラバスだ。床に着けて立ち上がって演奏するほどの、でっかいバイオリン。吹奏楽では珍しい弦楽器で、吹奏楽界隈では弦バスと呼ばれている。
「今日はチューバお休みなの?」
俺のユーフォをもうひと回りでっかくしたチューバ担当の姿が、まったく見えないのだ。金管楽器では最も低い音域を担当してバンド全体を下支えしている、いわば縁の下の力持ち。
同じ低音仲間として仲良くやっていこうと思ってさっきから探していたのだが、見つからなくては話が進まないとつい松井さんを頼る。
だが返ってきたのは、想像を超えた衝撃の発言だった。
「ううん、うちにチューバなんていないよ」
しれっと言ってのけられるとんでもない事実に、俺は絶句してしまった。
「弦バスはいるのに!?」
吹奏楽にチューバがいないなんて、ダシの効いてない豚骨ラーメンくらいに締まりが無いじゃないか!
「だってそりゃあチューバなんて重いしつまんなそーだしカッコ悪いし。練習してたら絶対友達から『ぞうさん』吹いてって言われるよ」
ああー、だからさっきのギャルっぽい子、チューバって聞いてもピンと来てなかったんだな。そして松井さん、今の一瞬で全世界のチューバ吹きを敵に回しちまったな。
やっぱりこの吹奏楽部、やばい。今さらになって後悔してきた。
出演:うちのユーフォ君(命名:ジョナサン・ジョンソン)
撮影場所:自宅
参考音源
『星条旗よ永遠なれ』
https://www.youtube.com/watch?v=pHbgtUahL4s