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第六章その4 アセンティウムの果てに

「うん、すごく良いです!」


 合奏のフィニッシュがきれいにそろったところで、手島先生も額を汗で濡らしながらにっこりと微笑みを見せる。初日の演奏がまるで嘘のようだと、くりんとした目が語っていた。


 合宿3日目、朝から晩まで連日みっちり練習を重ねていた俺たちカサキタ吹奏楽部は、25名による合奏の完成度を驚くほどまで高めていた。全員がしっかりと曲の流れを把握し、今誰を目立たせるべきか、自分のすべき演奏はどんなものかと頭で考えるまでもなく身体が動いてしまうほどの一体感を獲得している。


 気が付けばコンクール本番まで残すところあと3日、合宿も明日の午前で終了する。


 この数日間は前の学校と同等……いや、それを上回る吹奏楽漬けの毎日だった。やれるだけの追い込みは果たしたのだ、あとはなるようになれとしか言えない。


「この合宿を乗り越えて、皆さん本当に上達しています。個々人の技術だけでなく、25人がひとつのバンドとしてまとまりをもっているのが音からわかります」


 かわいい顔して指導はシビアな先生がここまで褒めてくれるなんてなかなか無いことだ。部員たちも楽器を手に持ちながら、互いにやったぜと微笑みを見せ合う。


「さて、3日間よく頑張りました。せっかく皆さんで過ごす最後の夜ですし、しんどいばかりというのも退屈かと思いますので、今晩は思う存分楽しんでください」


 先生がちらりと窓の外に目を移す。同時に俺たちは「おおっ」と歓声をあげた。


 掃き出し窓から見える宿の裏庭で、経営者夫婦がちょうど炭火コンロを運んできてくれているのが見えたのだ。


 さあさあ、お待ちかねのバーベキューだ。みんなこの時を楽しみにしていたからこそ3日間の猛特訓を耐え切れたのだろう、楽器を片付けるや否や我先にと裏庭まで回り込む。


 土が剥き出しになった地面に机を並べ、その上には肉やら野菜やらが今にも溢れそうないくつものボウルがのっかっている。まだ炭火にもくべていないのに、生の素材を見ているだけでぐるるるるとお腹が鳴ってくるぞ。


「焼くぞ焼くぞ、肉を持て!」


「ちょっと、先に野菜から焼くのよ!」


 ぱちぱちと火花を飛ばす炭火を前にした俺が串に刺した肉や野菜をせっせと並べていると、筒井先輩が鍋奉行ならぬバーベキュー奉行っぷりを発揮する。


 やがて火に炙られた肉からぽとぽとと肉汁が落ちてじゅっと音が上がる。同時につーんと食欲をそそる香りが周囲に立ちこめ、部員たちはコンロを取り囲んで今か今かと焼き上がるのを待ち続けていた。


「さあ、できたわ!」


 ついに完成だ! コンロ前に陣取っていた筒井先輩の号令とともに、部員たちがわっと手を伸ばす。


「美味しそー、もーらい!」


「あ、それウチが狙ってたのに!」


「早い者勝ち早い者勝ちぃ!」


 徳森さんと松子が激しい肉の争奪戦を繰り広げる。


「はい砂岡君、どうぞ」


 そんなふたりの醜い争いなどアウトオブ眼中といったようすで、藤田部長は俺の皿に肉も野菜もとにかく焼けたものから乗っけてくれていた。自分の肉よりも俺の皿を優先してくれるのは嬉しいのですが……部長、いくら成長期でもこんなけいっぺんには食べられませんぜ。


 そこからしばらく、部員たちは湖畔の気持ち良い風に吹かれながらのバーベキューを満喫していた。食事を交えての友達との談笑はもちろん、中には最近出たばかりのカメラ付き携帯電話のレンズを向けて、みんなで肩を寄せ合って写真を撮る部員もいたほどだ。


「ユーフォ&弦バス。ショートコント『大阪のおばちゃん』しまーす」


 バーベキューも大詰めを迎えて食べるよりもおしゃべりが中心となってきた頃、俺と松子がウッドデッキに立って高らかに宣言する。


「あらあんた、そのシャツえぇやん」


「せやろせやろ、いくらした思う?」


「えー、800?」


「ちゃうちゃう、もっとええで」


「ほな700?」


「ちゃうちゃう、500や500!」


 中学2年とは思わぬ松子迫真の演技に、部員だけでなく先生も腹を抱えて爆笑する。そういえば前の学校でもそうだったけど、低音部ってなぜかウケ狙いの一発芸持ってる人がクラリネットとかトランペットよりも圧倒的に多いんだよな。


「はい、ありがとうございましたー」


 寸劇を終えてデッキを降りる俺たちに、みんなから盛大な拍手が贈られる。この喝采をコンクール当日にももらえれば最高なのだが、残念ながら本番で俺たちが競うのはコントの出来ではなく演奏の腕だ。


 もう何本か肉を食べておこうかな、と俺はコンロに向かう。だが覗いてみると肉はすでに売り切れており、あとは切れ端のような野菜類が少々網の上でしなしなになって放置されているだけだった。


「あーあ、もうすっかり無くなっちゃったなぁ」


「まだいけるのに、ちょっと少ないよね。せっかくこの日のために昨日からご飯の量減らしてきたのに」


 俺のひとりごとに反応して、コンロの脇を最後まで離れずにいたホルンのぽっちゃり先輩が寂しそうに話す。いやいや先輩、今日あなた朝も昼も白ご飯3杯食べてたでしょ。あれで減らしてたって、普段どれだけ食ってんのさ!?


「砂岡ー、あんたちょっとそこで魚でもとってきなさいよー」


 聞いて近くでコーラを飲んでいた徳森さんがけらけらと笑いながら、波の打ち寄せる琵琶湖を指さした。まぁ仲良いもの同士の冗談にすぎないやりとりだ。


 だが肉の残り香とさっきの大喝采とですっかり変なテンションになっていた俺は、「イエス、マム」と答えてその場でシャツを脱ぎ出す。


 それを見ていた徳森さんはぽかんと言葉を失い、松子は「え?」と目を細め、部長は「まぁ」と目を輝かせる。あ、これはやめた方がいいかなとも思ったものの、もうシャツを脱いでしまっている以上ここまできて止めることはできない。


「砂岡、いっきまーす!」


 俺はシャツを放り投げて走り出す。そしてじゃばじゃばと波をかき分け、腰の高さまで来たところで頭からドボンと水に飛び込んだのだった。


 海水とは違って淡水なので全然しょっぱくないぞ。泳ぐイコール海の俺にとっては新鮮な感覚だな。


「あっはっはっはっは、馬鹿でしょあんた!」


 徳森さんが大口を開けて盛大に笑う。それを皮切りに、他の部員たちも「アホねー」「砂岡、なんか捕まえてくるまで陸に上がるの禁止ね」と次々とツッコミを入れてくれた。徳森さん、グッジョブ!


「先輩、僕も!」


 俺を見かねてかそれとも単なるノリか、1年男子のたくちゃんも俺と同じ上半身裸になって水に飛び込む。


「ちめてー!」


「だろだろ? ショックで心臓止めるなよ、本番出られなくなるからな!」


 そう言いながら俺とたくちゃんは水に潜り、泳ぐ魚を探した。だが夜の水中はろくに視界が効かず、目を開いてもどこもかしこも黒一色に染まっているだけだ。


「もう、男子ってどこまでもバカなんだから」


 そんな俺たちのバカ騒ぎを見て、陸の上の筒井先輩は呆れたようにため息を吐いた。そういえばこの人も生物学上ではオスに分類されているはずなのに、あまり男子として扱われている気がしないな。


「ふたりとも、風邪ひかないうちに上がってきなよー!」


 部長が心配そうに呼びかける。さすがにこれ以上のおふざけは良くないと、俺もたくちゃんも「はーい」と素直に従った。


 かようにして合宿最後の夜のお楽しみは幕を閉じたのだった。あとはコンクール本番、この数か月の成果をどれだけ発揮できるか、だ。

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