第六章その3 夜の湖畔とカマドウマ
「ここならいいかな?」
そう言って藤田部長が腰を下ろしたのは、合宿所からほど近い砂浜に降りるための石段だった。夜空に染まって真っ黒な湖面が、わずかな光を反射して時折白く波打つのが見える。
「ほら、ここ座ってよ。夜の風が気持ちいいよ」
誘われるままに俺は部長の隣に腰かける。そして水の迫る砂の上に足をぶらぶらとさせながら、はぁと深くため息を吐いたのだった。
「俺、経験者ってことでカサキタでは部活の中心に立ってると思ってました。けど廿日山の演奏聞いて、自分はまだまだだってことを突き付けられたんですよ。滑稽なことに、周りから頼られてただ天狗になってただけなんだって」
部長は何も答えず、砂浜に波が押しては引いていくのに目を落としながらふんふんと頷いていた。
「笑っちゃいますよね……たかが1年の経験で得意になって。あの時だって自分よりうまい先輩なんていくらでもいて、俺の力で中国大会に進めたわけじゃないのに。バカな勘違いしていたもんです」
改めて口にすると、なんとも恥ずかしくもおかしい話だ。思い出せば思い出すほど、羞恥やら苛立ちやら色々な感情が内から次々と湧き起こる。それらの不快感を押し殺すため、俺はわざとおおげさに笑って泣きたくなるのを耐えるしかなかった。
「砂岡君」
だがそんな不安定な感情に苛まれる俺に、部長はまるですべて包み込んで受け入れてくれるかのような柔らかな声を投げかける。そして波から湖面から目を離し、俺の顔にじっと目を向けつつも、優しく話しかけてきたのだった。
「私はそうは思わない。来てくれたのが砂岡君じゃなかったら、この部はここまで強くならなかったと思うよ」
まっすぐこちらを見つめる部長の瞳に、さざ波で反射された光が映り込む。
「もし砂岡君の代わりにプロみたいに上手い人が入ってきたとしても、ここまでみんなコンクールに向けてやる気出してたかどうかはわからないよ。誰とでも仲良く、根気強く付き合ってくれた砂岡君だからこそみんな真剣に練習に取り組んでくれるようになったんだから」
「そう……でしょうか?」
「そうだよ、私だって砂岡君がいてくれて救われた身だからね。じゃなかったら今頃、吹奏楽部は空中分解していたと思う。だから砂岡君は私たちにとって大切でかけがえのない、たったひとりの存在。そっちの方が演奏が上手いとか下手とかよりも、もっと大事」
穏やかに、しかしはっきりと話す部長の強い視線。その心強い言葉に、俺は目の奥がじーんと熱くなるのを感じた。
「部長……ありがとうございます」
泣き出したい気分だった。だがさっきとはまるで別の、とても居心地の良い感情に俺は包まれていた。
「みんなにとっても、私にとっても砂岡君はとても大切な存在なんだよ、だから安心して――」
部長がフフッと微笑みながら話しかけてくれていた、まさにその最中のことだった。
「ぎゃああああああああ!」
突如、女の叫び声が夜の湖畔にこだまする。その鼓膜を引き裂きそうな破壊音に、俺も部長も思わず耳を塞いで会話を中断してしまった。
「何でしょう?」
カサキタの宿の方からだ。俺と部長は立ち上がり、ダッシュで戻る。
そして玄関を潜り抜けたロビーで真っ先に目に飛び込んできたのは、危うく下着が見えてしまうかというくらいに中途半端にずり下したTシャツと短パンを着て右往左往する松子だった。
「で、でたのでたのでたの!」
俺を目にするなり、蒼白の顔面を近づけて迫る松子。
「落ち着け、何が出たんだよ!?」
「虫! でっかい虫!」
「虫? ゴキブリでも出たのか?」
「違う違う! ちょっと来て!」
松子は俺の手をつかみ、女子とは思えない力で強引に引っ張る。
連れていかれたのは女子風呂の脱衣所だ。その中ではおそらく入浴前だろう、ジャージ姿の2年生女子陣が顔を真っ青にして、全員一か所に固まってぷるぷると震えていたのだった。
「ほら、あそこあそこ!」
思いきり唾をまき散らしながら、浴室に続く中折れ戸の前の床を何度も指さす松子。その指が指し示す方向へ、俺は「どれどれ?」と視線を凝らす。
防水性に優れた、塩ビ製の白いクッションフロア。その上にちょこんとたたずむのは、細長い脚をくにっと折った、一匹のまだら模様のカマドウマだ。
俗に便所コオロギとも呼ばれるこいつらは古い住居の土間などでよく見られるそうだが、マンションの上階に住む俺はこれまでの人生で一度も遭遇したことが無い。詰まることろ、図鑑の中でしか知らない昆虫だった。
「砂岡、取って!」
いつもは居丈高な徳森さんも、この時ばかりは取り乱して目を白黒させている。彼女もやはりこういう輩は苦手なようだ。
だが男子だからといって、俺だって決して平気な方ではない。顔を歪めて「え!?」と否定の意を示す。
「取ってって言われても、俺だってこいつ触って安全なのかわからないよ。むしろこういうのはたくちゃんの方が適任だろ?」
見た目からしてバッタの仲間だとは思うんだけど、あいつら種類によっては噛み付いてきて人間の皮膚も食い破ってくしまうからな。そもそも俺だってこんなキモイ野郎、触りたくはない。
「砂岡君」
ふわっと耳を撫でるような儚げな声に、俺ははっと目を開いて振り返させられてしまった。
「お願い」
目を向けると、チューバの宮本さんが部屋の隅からじっとこちらを見つめていた。ハーフパンツ姿で手を組んだ小柄な少女の、ウルウルと今にも泣きだしそうな瞳。このままだと2年生の入浴時間が無くなってしまう、だから今すぐ助けて。そんな彼女の心の声がひしひしと聞こえてくる。
「……わかった、やるよ!」
俺は覚悟を決めた。彼女のためなら、おじさん頑張っちゃう!
……しかし素手で触れるのにはやはり抵抗があるので、とりあえず着替えのカゴを覆いかぶせて捕獲しよう。俺は手近なカゴを持ち上げ、そろりそろりと足音を殺しながら一歩一歩ターゲットへと近付く。
……よし、間合いに入った!
「そー……れ!」
そして掛け声とともに踏み込むと、床の上のカマドウマめがけ素早くカゴをかぶせる!
だがカマドウマの反射神経、そして跳躍力は人間の想像をはるかに上回っていた。ヤツは繰り出されたカゴをかわしてぴょーんと跳び上がると、なんと俺の頭の上にぽすんと着地してしまったのだ。
「うわ!」
驚いた俺は頭に手を伸ばしながら立ち上がる。ほぼ同時に、ヤツはまたしても高く飛び跳ねていた。
折りたたんだ脚をまっすぐ伸ばし、脱衣所の天井スレスレをまるで滑空するように移動するカマドウマ。大口を開けたギャラリーの視線が注がれる中、人知を超えた回避芸を見せたカマドウマは、やがて後方で見守っていた松子のTシャツにぺたりとへばりついてしまった。
全員がしんと静まり返る。そして3秒ほどして松子の顔からさっと血の気が引いた瞬間、俺は反射的に自分の両耳を押さえた。
「ぎゃあああああああ!」
次の瞬間、建物を粉々に粉砕してしまうかと思うほどの大絶叫が巻き起こる。それはうちの部員25人の合奏よりもずっと大きく、何億倍も汚い音だった。




