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第六章その2 響いてないぞ、ユーフォニアム!

「うーん……」


 毛布を敷き詰めたホールでの合奏の最中、先生はタクトを振る手を止める。そして眉をしかめながら、何時間も演奏しっぱなしの部員たちをぐるりと見回したのだった。


「一音一音に力がありませんね。特にユーフォ、もっと強く響かせてください」


 先生の口調もいつもより厳しめだ。


 どうもさっきから調子が出ない。今一つ、音に力がこもっていないのを自分自身でも感じる。


 その原因は明白だ。実は先ほどの休憩時間、廿日山中学の演奏が気になった俺は興味本位で彼らの演奏する『吹奏楽のための第一組曲』を聞きに行ってしまったのだ。


 俺も去年、この曲には相当苦労させられていた。初めてのコンクールということもあったが、4分の3拍子で5小節ずっとタイのところとか息が続かなくて死ぬかと思ったぞ。そんな苦労の日々を懐かしむような軽い気持ちでふらふらと足を運んだだけなのに、彼らの合奏をじっと聞いて俺はそのレベルの高さに愕然とさせられてしまった。


 部員28名の小編成とは思えないほど、重厚なハーモニー。一朝一夕では成し遂げられない、透き通るようで安定した音。


 カサキタどころか、もしかしたら俺が前にいた学校よりもうまいかもしれない。これでほんの数年前までろくに部として機能していなかったというのだから、彼らの成長速度には恐ろしささえ感じてしまう。


 そして調子を落としてしまったのは俺だけではなかった。いっしょについてきていた数名の部員も自分たちとは次元の違う演奏を間近で聞いて、少なからず衝撃を受けているようだ。


 本当にこれは中学生の演奏なのか? それもあんなチャラチャラした連中の?


 自分たちもここ数か月間かつてないほどまで頑張ってきたと思っていたのに、それをはるかに上回る廿日山の演奏。わずかな時間で圧倒的な力の差を見せつけられて、今までの自分たちがまだまだ努力不足であったことを嫌というほど思い知らされたのだった。


 気が付けば陽はすっかり沈んでいた。掃き出しの外も真っ暗闇に染まり、琵琶湖を隔てたはるか対岸の灯りがわずかばかりにゆらめいている。


「では本日最後の通しの合奏です。皆さん、今日言われたことをよく思い出して、落ち着いて演奏してください」


 そろそろ部員の体力も限界だ。一日の集大成といえる一曲まるまる通しの合奏で、この日の練習を終える。


「ではいきますよ、ワンツー」


 曲の始まりと同時に、楽器ひとつひとつがチャイムの音色にあわせて音を重ねる。そして鳴り渡るトランペットの勇壮な響き。俺が転校してきた当時とは比べ物にならないほど、彼らの技量は高まっていた。


 だがそれでも、まだまだ廿日山には及ばない。そんな雑念が混じってしまっているためか、俺たちの演奏は今一つ精彩を欠いているように思えた。




 合宿初日の練習を終えた俺たちは、宿の経営者夫婦手作りの夕飯をご馳走になっていた。


 メニューは鶏のから揚げだ。これでもかというほどの大量のから揚げが大皿に山盛りにされ、部員たち全員が目を点にする。


 白ごはんを2杯おかわりして食器を返した俺は、食堂の壁に掛けられた色褪せた写真にふと目を向けた。以前から様々な団体の合宿に使われているのだろう、『昭和55年 京都桜崎女子大学交響楽団』やら『昭和60年 草津常盤高校演劇部』など多くの学生たちが今と変わらぬ宿の建物の前で並んで写っている。


 滋賀県内だけでなく、京都や大阪からも合宿に来ているようだ。珍しいものでも写っていないかな、と他の写真も眺めようとした時のことだった。


「みんなー、夕食終わったら学年ごとにお風呂入ってねー」


 さっさと夕飯を終えた部長が手をメガホンにして、談笑しながらゆっくりと箸を動かす部員たちに声をかける。この宿の浴室はそこまで大きくない。人数の多い女子は時間をきっちり分けて利用しなくては大混乱に陥るだろう。


 だが3人しかいない男子については、その点を気にする必要は全くなかった。


「砂岡、私たちもさっさと入りましょ」


 筒井兄弟に誘われた俺は「はーい」と写真の前を離れ、部屋に戻って洗面用具と着替えを持つと一目散に浴室に向かったのだった。


「わお、ひろーい」


 服を脱いで裸一貫になった野郎3人組は、自宅のものより何倍も大きな浴槽に感激する。天然温泉のような豪華なものではないけど、やっぱり大きな浴室っていいよね!


「一番乗りー!」


「ちょっとー、先に身体洗ってから湯船に浸かるのがマナーよ」


 タイルの床をだっと駆け出す弟を筒井先輩が叱り飛ばす。俺たちは各自カランで身体を洗い、しっかりと汚れを落としてからもくもくと湯気を立てる湯船に身体を沈めた。


「ふぅー生き返る」


 俺は頭の上にタオルを乗せ、肩までお湯に浸かって体の芯まで温まる。


「せんぱーい」


 そんな風にくつろいでいると、たくちゃんが声をかけてきたので俺は「ん?」と顔を向けた。


「お湯でっぽー!」


 直後、俺の額にビュビュっとお湯が直撃する。この野郎、やりやがったな!?


「何てことしやがる、これでもくらえ!」


 俺も手を組んでお湯に浸けると、びゅっと飛ばし返す。だがたくちゃんほどはうまく飛ばず、風呂場には後輩のイヤミな笑い声があははははと響くのだった。


「ねえ、ちょっと静かに!」


 だがその時、筒井先輩がしっと指を立てたので俺たちはふざけ合いの手をぴたりと止めた。そして先輩は180cm超の長身でお湯をじゃばっと散らして立ち上がると、浴室のかなり高い位置にあるガラス窓をそっと開けたのだった。


 浴室の湯気がわっと抜ける窓格子の向こうからは、管楽器の音が聞こえている。どうやら廿日山中学はこんな時間になってもまだ練習を続けているようだ。


「驚いた、まだ練習してるわよ」


「俺たちも練習しないとって思っちゃいますね」


 窓際に寄ってそっと耳を立てる俺たちの声も、無意識の内に小さくなってしまった。あまり根詰めすぎるのも良くないとわかってはいるのだが、他校がどれだけ練習を積んでいるのかはどうしても気になってしまうものだ。


「そうよねぇ、ウチなんか今年が最後だから、今もこうしてゆっくりお風呂に入ってていいのかしらって焦っちゃうわ。でも今日はもうやめときましょう、ここで張り切りすぎて体壊しちゃったら元も子もないから」


 そう言って先輩はそっと窓を閉め、俺たち3人は再びお風呂にざばりと身体を沈める。だがまだ練習を続けている廿日山のことを考えると、こうしてお風呂でリラックスしていても良いものかと不安に駆られてしまう。


 そしてすっかり身体も温まった風呂上がり。渇いた身体を潤すために、宿の前の自販機でジュースを買おうと外に出た時のことだった。


「あ、お疲れ様です」


 自販機の前でジュースを選んでいた先客に声をかける。その声に反応して振り返ったのは、ジャージ姿の藤田部長だった。


「あら砂岡くん、お疲れ様!」


 部長は俺と同じく風呂上りのようで、トレードマークの三つ編みをほどいて艶やかな黒髪をさらさらと夜風になびかせていた。


「男子風呂、広かった?」


「ええ、全員大の字になってもスペース余ってましたよ。広い風呂場って快適ですね」


 ちょうど自販機の前をどいてくれた部長と入れ替わりで、俺は硬貨を投入する。そしてボタンを押すと、おなじみのスポーツドリンクの500ミリリットルペットボトルがガコンと取り出し口に落ちてきたのだった。


「ねえ、砂岡君」


 取り出し口に手を伸ばし、冷たいペットボトルが手に触れたのとほぼ同時だった。これまでの穏やかな調子とはまるで違った声色で、部長が不意に尋ねてきたのだ。


「さっき他の子から聞いたよ、廿日山の演奏聞いて落ち込んでたって。砂岡君、去年同じ曲演奏したんでしょ?」


 尋ねてきた部長に俺は顔を向けることができず、そっと無言のままドリンクを取り出す。そしてプシュッとキャップを外すと、口につける前にぼそっと小さく答えたのだった。


「俺、ここに来てからずっとおごり高ぶってたのかもしれません。自分よりもっとうまい人なんていくらでもいるのに」

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