第六章その1 ビーチがあるのに泳げないなんて!
テスト返却やら三者面談やらをこなしながら、吹奏楽部員は残りわずかとなった1学期も部活に打ち込んでいた。そしてついに夏休み初日、学校に集まった俺たちはバスに乗り込み、合宿へと出発したのだった。
「琵琶湖って、こんなにきれいだったんだ」
ぱんぱんに膨らんだスポーツバッグを肩にかけ、松子がぽかーんとした顔を浮かべる。
目の前に広がるのは、静かな波が寄せては引く砂浜。だが不思議なことに、波打ち際からほんの数メートルで地面には短い芝生が生い茂り、松の木や柳といった木々が風に音を鳴らしている。
ここは琵琶湖の畔、和邇という地区だ。この辺りは水質も良く、夏になると多くの人々が海水浴ならぬ湖水浴に訪れる。リゾート客向けにホテルや旅館が多く建ち並んでいるが、その中には部活の合宿に特化した宿泊施設も少なくない。
手島先生の知人が経営しているというこの宿の裏は琵琶湖に面した砂浜になっており、なんと食堂と直結したウッドデッキからビーチに繰り出して、そのままドボンとダイブすることまでできるのだ。
「水着、持ってくればよかったぁ」
さざ波立つ湖面を前に、落胆する松子。
「無理だよ、泳ぎに来たわけじゃないんだから」
宮本さんがすぐさまツッコミを入れるが、彼女も残念そうに眉をハの字に歪めている。
「このロケーションで水に入れないなんて、おあずけ喰らうわんこの気分だよ」
聞いて松子はぼそりと呟く。沖の方ではヨットまで浮かんでいるというのに俺たちは眺めることしかできないなんて、新手の拷問かと疑いたくなる仕打ちだ。
「さあ、荷物置いた人から打楽器運び込むの手伝って。終わったらすぐ練習始めますよ!」
だが生徒たちの気持ちなど軽くあしらうように、先生はぱんぱんと手を叩いて俺たちを正面玄関まで連れ戻したのだった。
この宿には1階に50畳ばかりの広さのホールがあり、食堂と同じく琵琶湖に面した側は全面掃き出し窓になっている。また壁には一面ずらりと鏡が取り付けられており、バレエやダンス、演劇の練習にも対応できるようになっていた。
そんなせっかくの全面鏡を俺たちはカーテンで隠し、さらに床には毛布を敷き詰める。これで室内で音を出しても、音の反響を減らすことができる。
これらの大がかりな作業も、部員25名が動けばすぐに完了してしまった。かくして準備を整えた俺たちは楽器を手に持ち、いよいよ練習に取り掛かる。
まずはウォームアップを兼ねたパート練習だ。日光や温度変化に弱いクラリネットやコントラバス、移動の大変な打楽器は室内で音を出すものの、金管は多くが屋外へと追いやられていた。
「はい、じゃあ」
屋根つきのウッドデッキで円陣を組みながら、ユーフォとトロンボーン、ホルンの中低音金管組で音を合わせる。ここ2ヶ月で練習の密度が急激に増したおかげだろう、部員全員5月の吹奏楽祭の時よりも大幅に技術を向上させているのが、出だしのハーモニーだけでわかった。
この後しばらくしたら合奏だ。この夏合宿では全員での合奏が主目的のため、各パートでの演奏などできて当たり前という前提の下に行われている。
「うーん、いい感じね。じゃあ合奏まで各自休憩にしましょっか」
トロンボーンから口を離した筒井先輩が、ハンカチで汗を拭いながら言う。湖畔で涼しい風が吹いているとはいえ、夏の暑さはそう簡単には和らがない。
「ねえ、あのさ……さっきから音、聞こえない?」
ホルンのぽっちゃり先輩が小さく手を挙げながら口をはさむ。
たしかに、少し離れた位置から俺たちとは別にユーフォやトロンボーンが鳴っているようだ。
「他の学校も近くで合宿してるのでしょうか?」
この辺りは宿泊施設が立ち並ぶエリアなので、同じように吹奏楽合宿に来ている人々がいてもおかしくない。実は練習中からずっと聞こえており、今は気にしている場合ではないとスルーしていたのだが、こうも自分たちの演奏が途切れるとついつい気になってしまうのが人情というものだ。
「だいぶ近いね」
「砂岡、偵察にまいりまーす!」
どんな団体が近くに来ているのだろう。俺はユーフォを抱いたままウッドデッキを降りた。この宿の裏は広いビーチが続いており、他の建物の敷地に回り込むことができる。
「あんまし遠くまで行かないでよー」
声をかける筒井先輩に振り向きもせず、俺は「ラジャー」とだけ言い残して浜辺を小走りで移動した。
進めば進むほど、音量は大きくなる。そして10軒ほど離れた建物に差し掛かった時、俺はぴたりと足を止めた。
「ここか」
音の聞こえる建物をぐっと見上げる。昔ながらの民宿だろう、コンクリートの壁面に瓦屋根とやや不釣り合いな外見の建屋からは、金管木管様々な音が聞こえていた。
宿の規模はうちよりも小さいくらいなので、そこまで人数はいないようだ。だがその音ひとつひとつは非常にクリアでブレがなく、これまで相当の時間を練習に割いてきたであろう努力の片鱗を感じ差出ていた。
「ちょっと!」
突然すぐ近くから聞こえた空気を切り裂くような声に、俺はびくっと跳ね上がって振り返る。いつの間にか、背後にぎろりと眼光鋭い女の子が腕を組んで立っていたのだ。
「あんた、どこの誰?」
年齢は俺と同じくらいだろうが、黒地のTシャツに「熱風魂」と何の意味があるのかわからない漢字が走り書きでプリントされ、得も言われぬ威圧感を放っている。なんとなく、この子カタギじゃない気がする。
「どうしたー、覗きかー?」
続いて宿の2階の窓からひょいっと首を出したのは、ド派手な金髪にピアスという、いかにもな風貌の大柄な少年。街中ですれ違えば絶対に声をかけられませんように、と念じて目を逸らしてしまうタイプだ。
「金子、あんたこいつ知ってる?」
「いんや初めて見た顔だ。ひょっとしてスパイじゃね?」
そんな一見するとヤバい雰囲気の少年少女に完全にマークされ、俺はたちまちパニック寸前に追いやられてしまった。やべえ、このままだとボコボコにされて琵琶湖に沈められてしまう!
「す、すいません、スパイとかじゃないです。僕たち草津の笠縫北中学ですよ」
がくがくと足を震わせたまま、俺はなんとか説明する。
「笠縫……北!?」
だがその直後、イカした外見のふたりははっと顔を合わせた。そして少女は「ねえ、ちょっと!」と俺の肩をつかんできたのだった。
「もしかして顧問って手島先生!?」
目を輝かせ、興奮したように尋ねる少女。なぜうちの顧問を知っているのかと疑問に感じつつも、俺は「え、ええ、そ、そうですけど……」とビビりながら答えた。
「やっぱり! みんな、手島先生いるって!」
少女が宿に向かって大声で呼びかける。途端、俺と同年代の少年少女たちが一斉に窓から顔を出し、「え、マジ!?」「やったぁ!」と歓声をあげたのだった。
状況についていけず、俺はぽかんとしたまま固まってしまう。そんな俺の情けない姿を見て、少女は「ああそうそう」と笑いかけてくれたのだった。
「私ら廿日山中学だよ。手島先生が、去年までいた学校」
「まさか皆さんもここで合宿していたのですね」
宿の裏庭できょとんと眼を丸める手島先生に、「先生、元気そうで良かったー!」と生徒たちが無邪気に駆け寄る。
廿日山中は手島先生の前任校だ。県下で最も荒れた学校として悪評が立っているものの、この吹奏楽部員たちの反応を見る限り手島先生がどれだけ慕われていたかは一目瞭然だろう。
「先生、久しぶり!」
「本当に、本物の先生だ!」
まさかの再会を喜ぶ廿日山中学の吹奏楽部員たち。そんな微笑ましい彼らと先生のやり取りを、俺たちはお茶を飲んだり楽器の水を抜き取りながら耳をそばだてていた。
「私らがここまで強くなれたのも先生のおかげです。コンクール、聞きに来てくださいね。今年、私ら本気で関西大会目指してますから!」
「それは楽しみですね。曲は何を選んだのですか?」
「はい、小編成の部でホルストの『吹奏楽のための第一組曲』です」
「え!?」
ちょうどペットボトルのお茶を喉に流し込んでいた俺は、思わず中身を吹き出しそうになってしまった。
廿日山の今年のコンクール曲『吹奏楽のための第一組曲』。この曲のタイトルをまたしても、よりによってこんな場所で聞くことになるなんて……耳にするだけでも妙な戦慄が走ってしまう。
何せその曲、俺も去年の中国大会で吹いているのだから。
参考音源
『吹奏楽のための第一組曲』ホルスト
https://www.youtube.com/watch?v=584eFNY0P-0




