第五章その4 大惨事テスト大戦
期末テスト最終日、制限時間50分のところを20分で解答用紙を埋め尽くしてしまった俺は、机に突っ伏したまま試験時間が終了するのを待っていた。
期末テストは中間テストとは違い、美術や技術家庭科などの副教科もテストが行われる。その中でも音楽のテストは吹奏楽を真面目にやっている者にとってはささっと高得点を稼ぐチャンスだ。
そもそも音楽記号の名前を答えるとか五線譜を正しく書き写すとか、野球で言うところの3アウトでチェンジというレベルでの常識だからな。吹奏楽部員でこれ間違えてるヤツがいたら、お前は楽器吹きながら何してたんだとツッコんでやりたい。
やがてテストがすべて終了し、長い長い苦行から解放された生徒たちは久々の部活へと向かう。
リュックに加えてユーフォのソフトケースを担いだ俺も早足で4階に上がる。そして部室の扉をガララと開くと、ちょうど三つ編みお下げの後姿が目に飛び込んだ。
「おは……よ?」
振り返った部長のにこやかな笑顔が、こちらに向けられると同時に「え?」とひきつる。そりゃそうだろう、俺と一緒に部屋に入ってきた松子が、涙で顔をぐずぐずに濡らしていたのだから。
「ま、松井ちゃんどうしたの?」
「音楽の問題全部解けたのに、テスト終了1分前に解答欄がずれていたのに気付いたそうです」
俺がさらっと解説した途端、決壊した松子は「うぇーん!」と人目もはばからずに泣きじゃくる。そして俺にしがみつき、おいおいと嘆願するのだった。
「助けてすなえもーん! いっしょに手島先生に土下座して、テスト用紙書き直してもらってー! ウチをお嫁にもらってくれてもいいからー!」
「俺はお前のお助けロボになった記憶はないぞ。てか最後のはこっちから願い下げじゃい!」
なんでわしの残りの人生をこいつの介護に捧げんとあかんのじゃ。
「ちょっと砂岡ぁ!?」
泣きつく松子を押し退ける俺に、ピシャリと鋭い声がかけられる。声の主はオネエの筒井先輩だ。
「あんた、ツバ雑巾出しっぱなしにしていったでしょ。見なさいよ、あれ!」
「あれって……うわ!」
しまった、と俺は絶句して顔を歪める。
合奏の時に俺が使う椅子、その足元には楽器内部にたまった結露を捨てるための雑巾が敷かれている。普段なら一日の終わりに洗っておくのだが、ユーフォを持って帰ることに頭がいっぱいだった俺は雑巾のことをすっかり忘れ、床に敷いたまま放置してしまったようだ。
合奏からマル一週間以上経過した現在、その布地の表面では小さな黒い粒がいくつも動いていた。ざっと見ただけでも5~6匹、1センチにも満たない小さな甲虫が雑巾に集っていたのだった。
「うっわぁ気色悪ぅ! 先輩、これどうしましょう!?」
「知らないわよ、あんたが責任もってなんとかしなさいよ!」
ユーフォの俺と1stトロンボーンの筒井先輩は合奏でも隣同士だ。虫の苦手な筒井先輩にとって、こんな菌床が近くにあること自体耐えられないのだろう。
「兄ちゃん、これヒメカツオブシムシだよ。広い目で見ればカブトムシのなかまなんだ」
筒井先輩の弟、パーカッションのたくちゃんが興味津々といった具合に雑巾を覗き込む。
そうか、たくちゃん昆虫好きだったのか。俺も広島にいた頃住んでたマンションで部屋の中にウバタマムシやトビナナフシが入ってきた時はテンション上がってたから、なんとなく気持ちわかるぞ。
「そんなこと知りたくもないから!」
だがそんな男のロマンにまったく理解を示さず、筒井先輩はきゃんきゃんと騒ぎたて続けた。言葉遣いは置いといていつもは冷静な先輩がここまで取り乱すなんて見たこと無いな。
俺は虫さんの這いずり回る雑巾の端っこをそーっとつまみあげると、そのまま部室の外に向かう。すれ違う女子がことごとく「きゃー!」と距離を取ってしまうのには、なんとも言えぬ悲しさを感じてしまうな。
とりあえず流水ならどうにかなるだろうと、廊下の水道で雑巾をじゃぶじゃぶと洗っていた時のことだった。
「砂岡くん、おはよ!」
廊下の向こうから宮本さんがチューバの巨大なハードケースを持ち上げて、えっさほいさと運んできたのだ。部活開始にあわせて親御さんに持ってきてもらったのだろう。
「おはよ、手伝おうか?」
俺は雑巾をぎゅーっと絞ると、手の水をぴっぴと払って彼女のチューバに手を伸ばす。
「ううんいいよ、自分の楽器くらい自分で運べなくっちゃ」
まあそれもそうだわな。俺が手を引っ込めたその時、後ろの方からコツコツと足音が響く。
振り返って、俺はさっと血の気を引かせてしまった。練習場所に移動するため、トランペットと譜面台を持って部室から出てきた徳森さんが、こちらに歩いてきているのだ。
先日あんなことを打ち明けられたばかりなためか、彼女と宮本さんが鉢合わせしてしまったら一体どうなってしまうのかと不安に苛まれる。
「よっ宮本」
だが当の本人はいつもの調子で挨拶をすると、宮本さんも「おはよー徳森ちゃん」とこれまたいつもと変わらない様子で微笑み返し、軽く雑談を交えてそれぞれの行くべき先へと歩き出したのだった。
ひとり勝手にハラハラして、そしてほっと安心しているのは何ともマヌケな話だが、とりあえず何も起きなくて良かった。しかし肚の内ではあんなこと思っているというのに……女ってホントすごいな。
「ではコンクールまでの日程をおさらいしましょう」
久々の部活が始まって間もなく、手島先生が指揮台に立って部室を見回す。呼び出された部員全員はそれぞれ楽器とともに合奏の位置に着席し、先生の顔をじっと見つめ返していた。
ちなみに松子の表情はなおも沈んだままだ。当たり前といえば当たり前であろうが、解答用紙の書き直しはどうにも叶わなかったようだ。
「コンクール南部地区予選は7月25日なので、あと3週間ですね。1学期は7月18日の金曜日が終業式ですから、ここからコンクールまでの1週間は最後の追い込みになります。それはカサキタだけではありません、他の学校も同じです」
もうコンクールまで猶予は残されていない。不安なところはまだまだ多く……いや、練習を重ねれば重ねるほど出てくる今の俺たちにとって、3週間ちょっとというのはあまりに短すぎた。
「実は私の知人に琵琶湖のほとりで宿を経営している方がいらっしゃいます。そこで夏休みに入った7月19日から3泊4日、合宿で徹底的に曲を仕上げましょう」
「合宿!?」
聞いて部員たちは顔を見合わせた。先生の口から出てきた言葉を、まるで現実と受け止め切れていないようにも思えた。
「私、合宿なんて初めてです!」
部長が興奮気味に話す。吹奏楽部の夏休みを利用した強化合宿は広く催されていることだが、このカサキタは今までそれすらも行われてこなかったようだ。
「当然ですが練習を目的とした合宿ですから、皆さんには朝早くから夜遅くまで楽器と向き合ってもらうことになります。ですが大変なことばかりではありません、最後の夜にはバーベキューも用意していますので」
「バーベキュー!?」
絶望の縁に瀕していた松子が、一瞬にして目を輝かせる。ついでに口元がじゅるって鳴ったのも聞こえたぞ。
「先生、私頑張ります! に……音楽のために!」
たちまちめらめらと燃え上がる松子。お前、今「肉のため」って言いかけただろ?
「頼もしいわ松井さん。皆さんも合宿、来てくださいますよね?」
先生が小首を傾げて俺たちに尋ねる。その可愛らしい仕草と松子の作ってくれた明るい雰囲気のおかげで、俺たちは「もちろんです!」と即答したのだった。




