第五章その3 だからこそ腹が立つ!
翌日も、俺は学校から帰宅するとすぐに楽器入りのソフトケースを担いで河原まで向かう。到着した頃にはすでに宮本さんがチューバを取り出して、マウスピースでバズイングを始めていた。
「来てくれると思った」
にかっと笑いかけてくれる彼女に、俺は「当然よ」と返しながら土手の斜面を降りる。
「今日一日この時間を楽しみにして、授業さっさと終われーって念じてたからな」
「もう、テスト前なんだからちゃんと授業聞かないとだめだよ」
楽器を吹くことももちろんだが、彼女と一緒に過ごしたいという欲求がそれを上回っていた。落ち着きはしないが、決して悪いものではないこの感覚、14年の人生で初めてかもしれない。
そしてユーフォを取り出そうとして、ケースを地面に置いた時のことだった。
「みつけた!」
河原の静けさを切り裂く、にぎやかなハスキーボイス。
びくっと身を震わせて見上げると、なんと土手の上から自転車に跨り、制服姿にぶかぶかのルーズソックスを履いた女の子が見下ろしていたのだった。前カゴには片手でも持ち運びできる大きさの、長方形の楽器ケースが頭を覗かせている。
「ふたりとも、ここで練習してたんだ」
同じ吹奏楽部のギャル子こと徳森さんだった。絶対に染めているであろう茶色の髪の毛が、太陽の下ではより一層鮮やかに輝く。
「徳森さん!?」
唖然とする俺と宮本さん。徳森さんがローファーで土手の草を踏みながら斜面を降りるのを呆気に取られて見つめていたものの、その途中で宮本さんの目が一瞬だけちらっとこちらに向けられたのを俺は感じ取っていた。
「クラスの子に聞いたよ、昨日誰かが河原で楽器吹いてたって。まさかと思って来てみたら、砂岡と宮本だったんだ」
そう話しながら器用に土手を下った彼女は、俺たちの前まで降り立つ。そしてすかさず、手に持っていたトランペットのハードケースをすっと突き出したのだった。
「合わせるんでしょ? なら私も混ぜてよ、やっぱ高音あった方がおもしろいじゃん」
そこから成り行きで始まった金管3人によるセッションだが、その内容はなかなかに実りのあるものだった。
低音だけというのも良いが、やはり主旋律のトランペットが入ると曲としての厚みがぐんと増す。他校での経験があるふたりと、元々のポテンシャルに最近の真面目な練習の成果が上乗せされた徳森さんというメンバーだ。実質金管スリートップと呼べるこのトリオなら、冬のアンサンブルコンテストでも良い評価をもらえるかもしれない。
特に今日の徳森さんのトランペットには、凄まじい熱量が込められていた。
曲中で何度も繰り返される特徴的で力強いフレーズをパワフルに、それでいて耳にやさしい高音で吹き上げる。『アセンティウム』をアルファベットに直すとAscentium、苦行や禁欲といった意味らしい。束縛から逃れんとばかりに力を尽くし、中盤それを乗り越えてある種悟りの境地に達したような安らぎを感じさせる彼女の演奏は、曲のタイトルにまさにぴったりだった。
「低音がしっかり支えてくれるから、私も安心して音出せるよ」
そう言ってトランペットのつば穴からたまった結露を滴らせる徳森さん。各自気になる部分を言い合って合わせていると、時間はあっという間に過ぎてしまう。
「やべ、俺そろそろ帰らないと。親がうるさくてさ」
「そう? じゃあ私も帰るわ、弟がお姉ちゃーんって寂しがってるだろうから」
俺がユーフォを下ろすと、徳森さんもトランペットのケースを開く。
「あ、もうそんな時間……なんだかすぐ終わっちゃうね」
宮本さんはもうしばらくここで練習するつもりらしく、持ってきたペットボトルをぐいっと傾けていた。
「ばいばーい」
やがて土手を上っていく俺たちを、宮本さんは名残惜しそうに手を振って見送る。
そこから俺と徳森さんは自転車で連れ立って、縦に並んで田舎道を走る。だがセッションではあんなに饒舌だったのに、自転車に乗って宮本さんの姿が見えなくなった途端、不思議なことに彼女はじっと黙り込んでしまったのだった。
ふたりとも帰る方向が同じなので、しばらくこの状態が続くと思うとなんだか気まずい。何か俺、気に障ることしちゃったかな?
「ねえ砂岡」
周囲には車一台すら視界に入らない、広大な田園のど真ん中だった。俺の前を自転車で進んでいた徳森さんが、こちらに顔も向けずに不意に尋ねてきたのだ。
「砂岡はさ、あの子のこと、どう思う?」
「あの子って宮本さん? どうしたんだよいきなり?」
「いいから率直に言って。誰かに言いふらしたりは絶対にしないから」
彼女はちらりとだけ振り返り、そして有無を言わさぬ口調で続けた。
率直にって言われましても、一体徳森さんはどんな答えを期待しているんだ?
もしかして……ここ最近、俺が宮本さんにただならぬ好意を向けていることを勘付いているのでは?
「そりゃまあ……めちゃくちゃうまい。強豪校にいてもおかしくない、というか俺が前いた学校の3年生よりもうまいかもしれない」
誤魔化しも兼ねて、俺はわざと強く言い切って答えた。あくまでも吹奏楽仲間のひとりですよー、というスタンスで。
だが俺の心配はこの話題とは無関係だったようだ。こちらが返した直後、徳森さんはしゅんと項垂れると「だよね……」と小さく呟き、さらに続けたのだった。
「うん、うまいのは認める。私じゃ足元にも届かないことも。でもね、だからこそ腹が立つ」
彼女の口から出てきた言葉に、俺は口を開けたまま固まってしまった。ふたりのこぐ自転車のチェーンがこすれる音と、吹き抜ける風が青々とした稲の苗を揺らす音だけが、異様なほど大きく聞こえる。
「あんなにチューバが好きなら、何で変なウソ吐いてまで吹奏楽やめるようなことしたのって。おまけに去年の私らの演奏聞いてこのままでいいんだって、つまり私らはあのレベルからうまくなることはないって思われてたってわけ?」
顔は見えないが、徳森さんの声から感情が相当乱されていることはありありと伝わった。ハンドルを握る手にも力が入り、ぷるぷると震えているのが見える。
「宮本が悪い子だとは思わないよ。でもそこだけが、どうしても気に入らない。それからそんなくだらない逆恨みしてしまう自分が、もっともっと気に入らない」
最後にそう吐き捨てると、彼女はペダルを強く踏み込んで加速する。そして楽器を抱えているためにゆっくりでしか自転車をこげない俺を置き去りにして、あっという間に遠くまで離れてしまったのだった。
その翌日から期末テスト当日までは、毎日が雨だった。そのおかげで河原の練習会はこの日を最後に打ち切りとなってしまった。




