第五章その2 ふたりきりの練習会
翌日、授業を終えて家に帰ってきた俺は舞台役者並みの早着替えを済ませると、ユーフォの入ったソフトケースを肩にかけて家を出る。
「行ってきまーす」
「ちゃんと勉強もやるのよ!」
「わかってるって」
母さんの叱責を背に受けてマンションの共用通路を早足で通り抜けると、俺はさっさとエレベーターに飛び乗った。
もううずうずして仕方ないんだ。テスト前だろうが葬式だろうが、やっぱ1日1回は楽器吹かないと落ち着かない!
チャリンコに乗り、田んぼ道を突っ走る。時折すれ違う人がユーフォを指さして「何だアレ?」と奇異の目を向けるものの、母さんに許された練習時間は長くないのでそんなのいちいち気にしてなどいられない。
この近くで人通りが少なく、大音量を鳴らしても絶対に怒られない場所。それは延々と広がる田園地帯を、右に左に褶曲しながら流れる河川、その土手の下の河原だ。
都会では河原や土手は遊歩道や公園として整備されるだろうが、この地区はそもそも回りが広大な田んぼにちらほらと家が建っているくらいなので、農家のおっちゃんくらいしか通りがかることはない。河原も橋の近くのごく一部の草が刈り取られている程度で、それ以外は丈の高い草やツタが鬱蒼と茂っている。
そんな子供の遊び場にすらならない空間こそが、大音量必至の金管楽器には最適な環境だった。藤田部長みたいな大きな一軒家ならまだしも、うちのマンションでユーフォなんて奏でようものならたちまち近所迷惑で苦情の来客が殺到するだろうからな。
自転車で走り続けていると、田んぼの向こうにある土手がどんどん大きく見えてくる。
「あれ?」
だがそれと同時に、俺は耳になじんだ響きを感じ取り、自転車をこぎながらじっと耳を澄ませたのだった。
低く地面を揺らすような、それでいて心地の良い音……聞き間違えるはずがない、チューバの音色だ。それも河原に近づくほど大きくなっている。
やがて土手の上に出た俺はそこで自転車を降り、低音の響く河原をじっと覗き込んだ。
思った通りだ、河原ではうちの部の宮本さんがチューバを奏でていた。彼女はその小さな身体を葛の蔦が巻き付いた古いベンチに座り込ませ、正面に譜面台を立ててマウスピースに息を吹き込んでいる。
「おーい!」
その姿を見るなり、俺は土手の上から呼びかけた。ロングトーン中の彼女は「えっ!?」と顔を上げるも、やがてユーフォを引っ提げて土手を下る俺を見つけて「砂岡くん!?」と驚きながらにかっと笑ったのだった。
「宮本さんもここ来てたんだ。ひとり?」
「うん、私の家ここから近いから、ソフトケース背負って持ってきたんだ。ほら、そこにあるやつ」
彼女の指差す先には、ベルを下向きにして立てられた、まるでゴルフバッグのような合皮製のでっかいソフトケースが芝の上にどーんと置かれていた。ハードケースとは違いリュックのように背負える形になってはいるものの、やはりチューバ専用となると相当なでかさだ。勤勉家で有名な二宮金次郎でも、これを背負っている最中に本を読もうとは思わないだろう。
家からここまでの距離を運んでこられたのも、一見か弱そうで意外と体力のある宮本さんだからこそ可能な芸当だ。しかし小柄な宮本さんがこんなでっかいケース背負っている光景を思い浮かべると、大丈夫だと分かっていてもそのまま押しつぶされてしまいそうで冷や冷やするな。
「せっかくだし合わせない?」
楽譜のはさまった黒のファイルをめくり、『アセンティウム』のページを開く宮本さん。
「いいね、じゃあ基礎練終わったら早速やろう!」
ふたつ返事で承諾した俺は、ロングトーンやリップスラーなどの基礎練を一通り済ませ、自分も『アセンティウム』の楽譜を取り出した。
合奏で指摘される度に色々書き込んでいるせいで、五線譜のあちこちが俺以外の人間が見ても意味のわからない文字で埋め尽くされ……いや、この「バボーン!」て走り書きは何だ? 書いた本人である自分からしても意味不明なのがあったわ。
「なんだか学校で合わせるのと違って、新鮮な気分だね」
俺が持ってきたポケットサイズの電子メトロノームのテンポを設定する傍らで、宮本さんが小さく言った。
「だな、部活ってよりプライベートって感じで」
「ははは、プライベートも楽器と過ごすとか、私たち完全に吹奏楽バカだよね」
そして夏の風に吹かれながら、ふたりきりの低音セッションが始まった。電子メトロノームを指揮者代わりに、ユーフォとチューバの音と音とが重なる。
この曲は低音楽器が主旋律を吹く場面は少ないが、ユーフォに関しては裏メロを吹くシーンが多い。チューバの伴奏に合わせて、激しい冒頭部とはガラッと雰囲気の異なる中盤のゆったりとしたパートを歌うように吹き上げる。
それを何度も繰り返し、時間も忘れて演奏に没頭する。そしてついに、自分たちでも会心の出来と思えるほどぴったりと音がはまったハーモニーが出来上がったときには、キリの良いところまで吹き終えると同時に俺たちは互いに顔を見合わせて「やったぜ!」とVサインを送ったのだった。
「今のいいかんじじゃない?」
頬を紅潮させた宮本さんが嬉しそうに笑いかける。
「ああ、学校で吹くより、なんかリラックスして吹けた気がする。広いところで吹けたからかな?」
俺は管の湾曲部に穿たれたツバ穴を開き、たまった水をぽたぽたと地面に滴り落とした。校舎内で吹くときは足元に雑巾を用意する必要があるが、今日は屋外なのでそのままでOKだ。
「かもね……私、やっぱ吹奏楽部入って良かったよ。チューバ吹いててこんなに楽しいの、久しぶり」
「ああ、ウチの部はみんな、ロクでもないけど基本的には良いヤツばっかだし」
「ううん、もちろんそれもあるんだけど……」
そこで言葉を途切れさせる宮本さん。妙な雰囲気に俺が「ん?」と顔を上げると、彼女はその大きな瞳をまっすぐこちらにじっと向けていたのだった。
「あの時砂岡君に話しかけていなかったら、私、今でもくすぶったまま過ごしていたんだろうなって。私をこっちの世界に連れ戻してくれたの、砂岡君のおかげだから。ありがとうね!」
きらきらとした視線とともに、彼女はそう言い切った。
瞬間、胸がドキッと高鳴った。普段から宮本さんに抱いている好感とは、また違った感情がぶわっと湧き起こったのだった。
「そんな大げさな」
戸惑いを隠すため、俺はわざとらしく腕を振る。そして左手の腕時計がちらりと目に入るなり、「げげ!」と汚い声をあげてしまった。
「やべ、そろそろ帰らないと。俺、2時間以内には帰ってテスト勉強しなさいって母さんに口うるさく言われててさ。ホント、ファミコンは1日1時間の高橋名人じゃあるまいし」
「そうなの? じゃあ気を付けて、またね」
俺は楽器をソフトケースにしまい、急ぎ足で土手を駆け上がる。
「ねえ、砂岡くん!」
しかし俺がチャリンコに跨った瞬間、宮本さんは俺を呼び止める。そしてしばし躊躇うようなそぶりを見せたものの、すっと息を吸い込むと大きな声で口にした。
「私……明日もここで吹いてるから!」
数秒間、河原を水の流れる音だけが包む。だが彼女が何を言いたいのかをようやく理解した俺は、「りょーかい!」とビシッと親指を立てて返したのだった。




