第四章その4 語られない過去
練習前の体力作りを始めて早2週間、そろそろ7月上旬の期末テストを意識し始める頃だ。
「はい皆さん、途中で止まらずに走り切ってくださいね」
放課後、グランドを走る俺たちをいつも通りの笑顔で見守るのは野球帽をかぶった手島先生だ。最初の3日間はひいひい言ってた部員たちも、今となってはこのトレーニングにもすっかり体が慣れてしまっており、さっさと走り終えて楽器を持ちたいと考える余裕すら生まれていた。練習が始まればジャージに着替えるのも、すでに習慣化している。
だがこの基礎体力と腹式呼吸を意識した練習の効果は目に見えて絶大だった。部員たちの奏でる音にも以前よりパワーがこもっており、職員会議中の先生から「もっと音量を落とせ!」と初めて怒られたと感激していたほどだ。
「はい、では走り終えた人から腹筋に移ってください。30回、ズルは無しですよ?」
コンクリートの上で並んで上半身を持ち上げる部員たちの前を横切りながら話す先生。その後姿を見送りながら、腹筋を続けていた松子がボソッと呟いた。
「先生、いつもよりなんだか怖いね」
「そう? いつもあんな感じじゃない?」
もう30回の腹筋を終わらせた徳森さんが立ち上がりながら答える。その脚にはやはり、トレードマークのルーズソックスが装着されていた。
「昨日阪神負けたからじゃね?」
ふざけて俺が言うと、あちこちから「ありえる!」と返ってくるのがうちの吹奏楽部だ。今年はブッチギリの首位独走なんだから、1回負けたくらいどうってこと無いだろうに……むしろたまにはカープにも勝ち星分け与えてくれよ。
トレーニングを終えて部室に戻った俺たちは各自一通りの基礎練習を済ませると、部室に全員が入れるよう椅子を並べ始める。今日は合奏、個人練とパート練の成果を見せる日だ。
先生が来るまでにチューニングを済ませておこうと、部長の指揮でクラリネットがB♭の音を鳴らし始めた時のことだった。
「みんなーごめんねー、手島先生から伝言あるのー」
間延びした声とともに、廊下からぬっと人影が現れる。美術の先生だ。
「手島先生、急用で合奏来れないってー。というわけで今日は各パートで練習してねー」
「ええ、そうなの?」
「ホント急だなぁ」
突然の予定変更に、部室がざわつく。こんな直前で中止だなんて、余程の用事が舞い込んだのだろうか?
「先生、急用って何かあったのですか?」
部長が尋ねるが、先生は「ちょっとした急用よ」と言葉を濁すだけだ。そう不自然に誤魔化されたせいで、俺たちは余計に「怪しい……」とあれこれ思いを巡らせてしまうのだった。
結局この日は部室に先生が戻ってくることは無く、下校時刻を迎えてしまった。
「明日は合奏やるかな?」
「そうなるといいねぇ」
最後まで部室に残っていた俺と松子、徳森さんと宮本さんの2年生4人は、みんなでそろって下足を履き替えて昇降口から外に出る。
そこまで暑くはないが、暦の上ではもう夏だ。6時を過ぎても空は明るく、まだもう一吹きしておきたかったなとさえ感じてしまう。
「あれ、先生の車あるよ?」
不意に松子が駐車場の方を指差すので、俺たちは「え!?」と全員で目を向けてしまった。たしかに、彼女の指し示す先には、手島先生愛車の白のミニバンが止められている。楽器を大量に詰め込む機会が多いためか、吹奏楽部顧問のマイカーはどうしても大きくなってしまうらしい。
あの車があるってことは、先生は今も学校にいるのか?
「用事はもう終わったのかな? じゃあ顔見せてくれてもいいのに」
「でもさっき職員室に鍵返しに行ったときは、てっしーいなかったけど?」
「何があったのかな?」
4人が立ち止まってうーんと考え込む。
「すみません、ありがとうございました」
いきなり女性の声が聞こえ、俺たちは声のした方にばっと顔を向けた。
見ると生徒の使う昇降口とは別に設けられた正面玄関の前で、40過ぎくらいの女性がぺこぺこと頭を下げている。その隣に立つのは俺たちと大して年齢の変わらなさそうな男子。見た感じ親子だろうか。
「本当にこの子ったら。言い聞かせられる大人は先生くらいですよ」
そのふたりと向かい合っているのは、白いブラウスに黒のロングスカート、そしてふわふわとウェーブのかかった柔らかそうな髪……そう、手島先生だった。
俺たちは「あ!」と小さく声をあげるものの、あの空間にはとても割り込んでいこうと思えず、その場で固まったまま成り行きを見守る。
「いえいえ、困ったことがあったら、またいつでもお話しに来てくださいね」
そう話す先生の笑顔は、やや陰りがあるように見えた。
やがて女性と少年が自動車に乗り込み、先生がそれを見送る。自動車が無事校門を出たところで、先生はくるりと背を向けて玄関の中へと引っ込んでいった。
「先生!」
思わず呼びかける。だが彼女は俺たちに気が付いていないようで、そのまま校舎の中へと消えていったのだった。その足取りは重く、見るからに疲れ果てているようだった。
「あ、そうそう。先生の前の赴任校なんだけど」
翌日、朝練の準備でトロンボーンにスライドグリスを塗っていた筒井先輩が周囲の部員たちに話し始める。
「廿日山中学校だったんだって。しかも新任でいきなり」
「廿日山? マジであそこにいたの!?」
途端、ホルンのぽっちゃり先輩がばっと振り返る。
先輩の驚きように、俺は「何ですか、その学校?」と外したピストンにオイルを塗りながら訊いた。
「県内じゃめちゃくちゃ荒れた学校で有名なのよ、市を飛び越えて草津まで噂届くくらい。先生はみんな生徒指導に追われて、部活どころじゃないらしいわ」
「うちの従兄の大学生もそこ通ってたんだけど、とにかくひどかったって話してたよ。吹奏楽部もろくに練習してなかったって」
部員の口から出てくるのは、悪い話ばっかりだ。カサキタは校則緩めとはいえ、そこまで荒れた生徒もいないのでホント良かったよ。
そうか、先生そんな大変なところにいたのか。そりゃあ吹奏楽部の指導どころではなかっただろう。もしかしたら昨日来てた男子も、その廿日山中の生徒なのかな?
「あれ、でも廿日山中ってたしか……」
話を聞いていた部長が手入れ用クロスで磨いていたフルートを置いて立ち上がる。そして部室のすみっこまで移動すると、置かれていた紙袋に手を突っ込んで中身を取り出した。出てきたのは紙束、過去の大会のプログラムや出場校の一覧だ。
「やっぱり、去年県大会出てる。しかも優秀賞!」
「ええ、ホントに!?」
「うん、それより前は……ずっと地区予選で奨励賞だったみたい。前に先生、今年で教師になって5年目って話してたから、きっと4年かけて吹奏楽部立て直したんだね」
プログラムをぱらぱらとめくる部長のしみじみとした口調に、部員たちも手入れの手を止めて静まり返ってしまっていた。
「先生、俺たちも県大会に連れて行こうとしてるんでしょうね」
俺もつい呟いてしまう。一見おしとやかな若い先生だが、これまで想像もできないほどの苦労と努力を重ねてきたのだろう。そしてせっかく吹奏楽部が軌道に乗ってきたところで、県下最弱とも呼ばれるカサキタに転任になったのだから相当悔しかっただろうとも。
「それじゃあ、行こうか!」
そんなしんみりとした空気を打ち破って力強く言い放ったのは、藤田部長だった。
「県大会……ううん!」
部長は首を振る。三つ編みおさげが左右に揺れ、そして俺たちに堂々と意気込みに満ちた笑みを見せた。
「もっと上!」
数秒間、全員がぽかんと口を開けて固まる。県大会より上って……それはつまり関西大会ってことか。
俺たちが出場する小編成の部では最高の舞台であり、滋賀県から出場できるのは3校のみ。当然ながら今の俺たちにとっては、いくら背伸びしても届きそうにないステージだ。
「ええ、そうよね!」
しかし最初に副部長の筒井先輩が賛同したのをきっかけに、他の部員たちも「ですね」、「関西、いいじゃん」と顔を上げる。
「ウチらも関西、出ていいのかな?」
意外にも気弱な反応の松子も、「いけるよ、松子ちゃんの弦バスがあれば」と宮本さんにそっと言われ、得意げに「だよねー、ありがと!」とたちまちいつもの調子を取り戻す。
この時、部員たちの中で何かが変わった。コンクールで上を目指すという明確な目標に、全員が針路を定めた瞬間だった。




