第四章その3 エンジン全開!
「よし、これで完璧!」
楽器屋を訪ねた翌日の日曜日、登校するなり愛器ピエールを部室の床に置いて新しいフェルトを装着させた俺は、ピストンの違和感が消えていることをよく確認していた。
「直った?」
それを見ていた宮本さんが、後ろから上半身を突き出して覗き込む。身長が低いのでどうしても顔の位置が近くなるのは仕方ないとはいえ、正統派美少女をこの距離まで近づけられるのは役得といったところだろう。
「ばっちり! 教えてくれてありがとさん」
「そりゃ良かった」
ぐっと親指を立てる俺に、にこっと笑いかける彼女。こういう純粋に好感持てる女子って、そういえば越してきてから初めてかもしれない。基本的にうちの吹奏楽部は松子はじめろくでもないのばっかだからなぁ。
だが悲しいかな今日の彼女は可愛らしいブレザーではなく、色気もクソも無い学校指定のジャージスタイルだ。それは俺も、他の部員も例外ではなかった。
「おっはよー」
ちょうど登校してきた松子が、がららと部室の扉を開ける。すらっとした彼女の細い体躯も、深緑のジャージにイーストボーイのスクールバッグという何とも言えないコーディネートに覆われていた。
「みんなちゃんとジャージ着てるね。先生、今日はジャージ着てこいって言ってたけど、どうしたんだろう?」
女子部員のひとりが腕を組んで頭を傾ける。ここまで全員ジャージだらけだと、まるで運動部にでもなった気分だ。
「この格好で来るの、結構恥ずかしかったんだけど」
ギャル子こと徳森さんも、ものの見事にジャージ姿だった。だがそれでもハーフパンツの下にはルーズソックスと、ここにきてもアイデンティティは忘れない。
「皆さん、おはようございます」
そして時間になったところで、手島先生が部屋にやってきた。いつものブラウスとロングスカートとは程遠い、なぜか阪神タイガースのユニフォーム姿で。
「先生、おはようございます」
「てっしーおはよー」
女子たちはさほど気にしていないようだが、広島育ちでカープっ子の俺は先生の出で立ちに関して気が気でなかった。あ、背番号53……赤星なら仕方ないか。
「ジャージ着てきたけど、何するんですかー?」
部員のひとりが尋ねる。にこりと微笑んだ先生はすぐさま部室を見回し、よく通る声で話し始めたのだった。
「皆さんテスト結果も返ってきて『アセンティウム』もある程度覚えてきたことと思います。ではここからは、夏のコンクール目指してアクセル吹かしていきましょうか」
吹奏楽部員たちが連れ出されたのは、校庭。やることはなんとランニング、グランド3周だ。
「げへっ、げへっ、死ぬ……」
普段は可愛らしく装っている女子部員たちが、見ていられないほどに顔を歪める。基本的に運動ダメダメな子が集まる吹奏楽部では、グランド3周なぞガンダーラよりもはるかに遠大だ。
「あ、あっつ……!」
走り出しは好調だった徳森さんも、2周を過ぎたあたりからスタミナ切れを起こしている。そのようすがあまりにもしんどそうなので、俺は並走して「大丈夫?」と声をかける。
「走りにくそうだし、ルーズソックスやめたら?」
「それは絶対にイヤ!」
ものすごい剣幕で睨み返された。彼女はなぜここまでルーズソックスに固執するのだろう?
「何でウチまでー」
ペースを落とす俺を、半泣きの松子が追い抜かす。肺活量を鍛えるためのランニングだが、コントラバスだろうがパーカッションパートだろうが問答無用だ。
部内で一番速いのは見た目に違わず1年生男子のたくちゃんだった。運動部でも十分上位を狙えるレベルのスピードで、さっさと3周を走り終えても息切れひとつ起こしていない。やっぱり傍から見ると、野球部が間違えて吹奏楽部に入ってしまったって印象だな。
その兄である筒井先輩もなかなかに速い。自分では「ウチ、運動は苦手よ」とか言ってた割に、弟とデッドヒートを繰り広げて最後に間を開けられてしまったのだ。その過程にはゴール直前のマラソンみたいな熱さがあったぞ。
あれ……てことは吹部男子で一番体力無いの、俺じゃね?
ちなみに2年女子で一番速いのは宮本さんだった。一見小柄で運動も苦手そうなのに、チューバ経験が長いだけあってか体力と肺活量は部員の中でもトップのようだ。
「あれ、砂岡?」
走り終えたところで、部活の準備をしていた同じクラスの野球部の男子が話しかけてきた。
「どーした、テストでカンニングでもしたか? それとも罰ゲーム?」
「違うよ、吹奏楽部のトレーニングだよ。良い音出すには肺と腹筋鍛えないといけないんだよ」
「吹奏楽部ってそんなことやるのか?」
信じられないといった様子の野球部男子。かように一部運動部員からは吹奏楽部は軟弱者の集団と思われている。これ割とマジで。
さらにランニングの後はコンクリートの上で腹筋30回だ。全身がへとへとになったところでの筋トレに、運動不足の部員たちは自分の上半身を起こすことさえままならなかった。
「一瞬、天国のお爺ちゃんが見えた」
ホルンのぽっちゃり目の先輩が息を荒げ、人目も気にせずに大の字で倒れ込む。強豪校ではむしろこれでもぬるいくらいなんだけど、それ言うとみんな絶望しそうだな。
ちなみにサッサと腹筋を終えた男子勢は、ついでといった具合に腕立てと背筋も始めていた。鍛えたところで吹奏楽に大したメリットは無いけど、まあせっかくなんで。
そして全員が横一列に並び、お腹で両手を押さえて腹式呼吸の練習に取り組む。
「吸ってー、吐いてー」
ぱんぱんと一定のリズムで手を叩きながら、俺たちの前を往復する先生。部員たちは先生の手拍子に従い、決まった拍子の間息を吸い続け、そして吐き続けるのだ。
「そうそう、その調子。これから毎日これやってもらいますから、運動着を忘れないでくださいね」
「こんなトレーニング、今までやってこなかったよ」
ようやくすべてのメニューが終了したところで、部員たちが次々とその場に崩れる。前の学校でよく似たことをさせられていた俺と宮本さんはそこまで疲れてはいなかったが、みんなに倣ってその場に一旦座り込んだ。
前の顧問が放任主義だったおかげで、こういう体力づくりや基礎練が疎かになっていたんだろうな。これはしばらくの間、このトレーニングを徹底して習慣づけられることになりそうだ。
「手島先生って前々から底知れない雰囲気はありましたけど、いよいよ本気出してきましたね」
すっかりぼろ雑巾のようになった松子が焦点を失った目を浮かべぼそっと呟く。
「でも手島先生ってあんなにすごいのに、名前聞いたこと無いよね。前は学校どこだったっけ?」
このトレーニングにも案外平気そうなようすで、藤田部長は部員たちを見回した。聞いて筒井先輩がシャツの胸の部分をバタバタとさせて、風を送りながら答える。
「たしか彦根の方だったかしら……ごめんなさい、どこ中だったかはよく覚えてないわ」
先輩、男子なのに妙に仕草に色気があるんだよなぁ。
「きっとその学校でも、部員たちバリバリにやらされてたんだろうね……」
ホルンのぽっちゃり先輩が汗だくになりながらゆっくりと起き上がる。このトレーニング、部員の中では彼女が一番こたえているようだ。
「皆さん、いつまでも休んでいる場合ではありませんよ。身体も温まって筋肉がほぐれている今こそがチャンスです」
そんな無駄話を聞かれてしまったかどうかはわからないが、手島先生は相変わらずのにこにこ笑顔で俺たちに言い放つ。その全く崩れることの無い表情に、俺もぞぞっと肌寒いものを感じてつい身構えてしまった。
「はい、じゃあ部室に戻って楽器吹いてください。しっかりとロングトーンできたら合格です。ちゃんと吹けるまで、曲練には移りませんよ?」
天使の笑顔……いや、天使の皮をかぶった悪魔だよ、あれは。
この日の練習を終えた頃には、部員たちも先生を気安くてっしーと呼ぶことは激減したそうな。




