第四章その2 楽器屋さんに行こう!
「うーん」
コンクールに向けて曲の練習を重ねていた6月上旬、土曜日の午前のことだった。
「どしたの?」
廊下での練習の最中、明確に感じる妙な感触に唸っていると、松子が俺の顔を覗き込んで尋ねてきた。
「下痢?」
「違うわ! さっきからピストンの調子が悪いっていうか……押したときに違和感がある」
「あー、それきっとピストンフェルトの交換時期だよ。私もこの前買い替えたし」
近くで練習していた宮本さんが楽器から口を離して話に加わる。
「まさか?」
俺はピストンを抜き取り、金属部品の裏を調べた。
「本当だ、よく見たらだいぶすり減ってる」
原因はこれだったか、すっかり見落としていたなぁ。
ユーフォニアムやトランペットで、押したピストンが戻ってくるのは内部に仕組まれたバネの反発が作用しているからだ。だがパーツはすべて金属であるため、ピストンの内部にドーナツ形のフェルトをクッションとして仕込んでガチャガチャと異音が鳴るのを防止している。
オイルやグリスは毎日新しく塗っているのでばっちりだが、こういう部品も案外傷みが早く、たまに交換してやらないと楽器がすぐダメになってしまう。楽器の内側には、目の付かない部品が大量に仕組まれているのだ。
「こういうマイナー楽器のパーツって、フツーの楽器屋だと売ってないことも多いからなぁ。専門的な店行かないと」
「あ、それならおススメの楽器専門店あるよ。ちょっと遠いけど、私もそこでピストンフェルト買ったし」
「そうなの? どこにあるの、それ?」
「じゃあ練習終わったらさ、いっしょに行こっか?」
屈託なく笑う宮本さん。途端、松子はムンクの『叫び』そっくりな顔を俺に向けた。
午前で練習を終えた俺と宮本さんは、学校を出るといつもとは反対方向の道へ自転車を走らせる。そして普段利用している草津駅よりもさらに向こうへ、田園地帯に拓けた幹線道路を突っ切っていた。
これはまさかの女子とふたりっきりでおでかけ……という展開にはならないのがウチの吹奏楽部だ。面白そうだからと松子と1年生男子のたくちゃんも後ろからついてきている。くそったれ!
そんな4人で向かったのは、最近どんどん新しいビルやマンションの建設が進んでいるという南草津駅。その近くの大きな楽器屋さんだった。
3階建ての広大な敷地には、ピアノやシンセサイザーといった有名どころはもちろん、バイオリンやチェロなどの弦楽器、琴や尺八などの和楽器、さらには二胡やブブゼラといった民族楽器まで古今東西ありとあらゆる楽器を取り揃えている。
「うわあ、こんな楽器初めて見ました! どうやって音鳴らすのでしょう?」
展示されている大小さまざまなパーカッション類を前にして目を輝かせるたくちゃん。その気持ちわかるよ、カウベルとかショッピングセンター内の楽器店じゃまず見ないもんな。
「ここ、近くに大学があるからそこの学生がよく使うらしいよ」
宮本さんが説明するが、楽器に釘付けにされたたくちゃんの耳に届いているかはわからない。
「せっかくだし、ウチも新しい松ヤニ買おっと」
松子も周囲の品ぞろえに目を奪われながらも、弦楽器コーナーへと向かう。各々担当する楽器が違うと、入店後はバラバラになるものだ。
俺は宮本さんに案内され、管楽器売り場へと向かう。その途中、何台もの譜面台が立てられている展示場で俺はつい足を止めてしまった。
「アルミ製の譜面台か……軽くていいなぁ、これ」
その中の一台をひょいっと持ち上げる。うん、いつも使っているのに比べれば羽のように軽い!
一般的な譜面台は鉄製で、思ったよりも重いからな。練習でも移動の度に持ち運んでいると、なかなかに煩わしいものだ。
だが重さとは反比例して、お値段はぐんとはね上がる。中学生には痛すぎる出費だ。
俺は譜面台を展示場に置き、そのまますたすたと立ち去る。今日はピストンフェルトを買いに来たんだ、余計なものは見ない買わないを徹底しよう。
「すみません、ユーフォのピストンフェルトありますか?」
俺はカウンターの店員さんに声をかけた。こういうマニアックすぎる商品は表に置かれていないことも多く、売り場担当者に聞くのが手っ取り早い。
店員さんは「少々お待ちください」とカウンター裏に引っ込むと、10秒ほどで戻ってきた。その手には小さなナイロン袋が握られていた。お目当てのフェルトだ。
「買えて良かったね」
ほくほく顔の俺に、宮本さんはふふっと微笑みかける。だが管楽器売り場を抜ける直前、とある商品が目に入った俺たちは「あ!」とそちらに小走りで駆け寄ってしまったのだった。
「今年の課題曲、売ってる!」
グリスやオイルといった手入れ道具が売られている棚には、CDコーナーでもないのにCDが平積みで置かれていた。
吹奏楽コンクールにAの部で出場する場合、自由曲のほかに課題曲を1曲、演奏しなくてはならない。その参考演奏CDは毎年発売されており、吹奏楽に興味のある者はたとえ自分が演奏しなくとも毎年新作を購入していることも多い。
「今年はマーチ形式だよね。マーチ、やってみたかったなぁ」
「仕方ないよ、今年は小編成でいくんだから」
例年、コンクールの課題曲の構成は奇数年が行進曲形式、偶数年はマーチ以外という規則性がある。
「それにしても今年は耳に残りやすい曲多いなぁ。俺、この『イギリス民謡による行進曲』好き」
「それもいいけど、私なら『マーチ「ベスト・フレンド」』かな」
「いやいやイギリスだろ」
「いやいやベスト・フレンド」
自分たちが演奏するわけでもないのに、どの課題曲が一番かで盛り上がるのも吹奏楽部あるあるだ。
そんな課題曲談義でひとしきり盛り上がった後、俺たちは相変わらず打楽器売り場で楽器を眺めていたたくちゃんと合流する。
「松子はどこだ?」
「さっき松ヤニ買いに行くって言ってたけど」
きょろきょろと周囲を見回してあの能天気な顔を探す俺たち。
その時、店内に雨粒が甲高く共鳴するようなピアノの響きが聞こえ、俺たちだけでなく周囲の買い物客もふと足を止めてしまう。
「これって……『ラ・カンパネッラ』?」
『ラ・カンパネッラ』。ピアノの鬼神フランツ・リストのこの曲は、ピアノ奏者に「難しい曲といえば?」と質問すると真っ先に答えとして返ってくるほど高難度で、同時に有名な一曲だ。
どうやら展示品のピアノを誰かが弾いているようだが、その澄み渡るような音色は意識をつい持っていかれそうになるほど魅力的だった。
松子のことも気になるが、俺たちはついふらふらとピアノ売り場まで引き寄せられる。ピアノは門外漢だが、曲を少し聞いただけでとんでもない技量の持ち主が演奏しているであろうことはすぐに理解できた。
そして導かれるままにピアノ売り場に踏み込んだ直後、壁際に展示されていたアップライトピアノを演奏するその人物を目にして俺たちは仰天した。
演奏していたのは松子だった。女子としては大きな手を左右に高速で振りながら跳躍する音を正確に刻み、複雑なリズムも豊かな強弱で弾きこなしている。
「すげえ。松子、ピアノこんなに上手かったんだな」
脇に立ち、声をかける。こんな松子、見たこと無い。
「物心ついたころからやってたからねぇ。指先のテクニシャンて呼んでいいよ」
だが顔だけはにっへっへといつものように笑う松子。そんなふざけた表情をこちらに見せながらも、両手の動きは寸分の狂い無く鍵盤を押さえていた。
「ウチの妹はもっとすごいよー。小6なのにウチよりうまいし」
「松井先輩、妹いたんですか?」
たくちゃんが驚く。今の一言で彼が普段松子をどう思っているのか、なんとなくわかった気がする。
「妹ちゃんがかわいそうだなぁ」
「うん、よく言われるよー。けどそこはだいじょーぶ、よく知ってる人はみんなウチの家族でも妹が一番ぶっとんでるって言うから」
え、姉以上に?
松井家の普段の生活風景を観察すれば、とんでもない大発見がありそうだな。人類の進歩にとっては最も無駄な研究かもしれないけど。
参考音源
『イギリス民謡による行進曲』
https://www.youtube.com/watch?v=ZewLqRwkOJ0
『マーチ「ベスト・フレンド」』
https://www.youtube.com/watch?v=7_HGrXKeVbs
『ラ・カンパネッラ』
https://www.youtube.com/watch?v=8EaXf6fOFnA




