第三章その5 楽器吹くの好きだったんだ
休憩時間、トイレに立ち寄った時のことだった。用を足し終えた他校の男子生徒が、洗面台に並んでこんな会話をしていたのだ。
「やっぱ上手いよな、守山中央」
「あのクラのソロ吹いてたヤツ、2年生らしいぞ」
「マジ!? それじゃ今年の関西行きは1枠埋まったようなもんじゃん」
「でも一番驚いたのは笠縫北じゃね?」
「そうそう! ずっとぶっちぎりでド下手だったのに、いきなり進化したって感じだよな。顧問変わったぽいし」
「特に低音が良かったよな。チューバいないのに、ホントよくやるよ」
洗面台が空くのを待ちながら彼らの会話に耳を傾けていた俺は、ぐっと拳に力を入れて無言のガッツポーズを決める。万年最弱のカサキタの変化は、他校の人間でも感じ取れるほど大きなものだったようだ。
入部当初はどうなるものかと思ったが、今なら胸を張って言える。カサキタ吹奏楽部でも、十分コンクールで戦えるぞ、と。
その後、すべての参加校が演奏を終えて2003年度の吹奏楽祭は無事にお開きとなった。
一旦学校に帰って楽器を搬入するため、カサキタ部員たちはホールを出て建物脇の駐輪場へと向かう。
「あー、もう疲れた」
「帰ったらもう寝たい。そして明日、打ち上げ兼ねて遊びに行きたい」
「いいねそれ! じゃあカラオケ行こうよ、新曲たくさん用意してるからさ」
解放感からか、みんな盛り上がりながら移動していた。これから学校に帰って楽器を4階まで上げるのかと思うと気が重くなるが、演奏を終えた充足感で彼女たちはそんなことなど頭の中から吹っ飛んでいるようだ。
「砂岡くん」
途中、名を呼ばれたような気がした俺は「ん?」と立ち止まる。他の部員たちはおしゃべりに夢中で、俺が足を止めたことさえ気に留めず歩き続けていた。
ゆっくりと、俺は振り返る。そこに立っていたのは、白いミニスカートに薄いピンクのカーディガンという可愛らしい私服姿の宮本さんだった。
「宮本さん、来てたんだ! どう、聞いてくれた?」
まさか本当に来てくれるとは。俺の声もつい上ずってしまう。
「うん、聞いたよ。去年までのカサキタとはまったく違って、ビックリしちゃった」
「ありがとう。せっかくだから褒められるだけ褒めてやってよ、褒められるほど伸びるタイプだから」
そうちょっとボケてやると、宮本さんは「ふふっ」と口元を押さえて笑った。だがそんな顔もたちまち浮かないような表情に変わり、「砂岡くん……ごめん」とわずかに俺の耳に届くような声を口にする。
「ど、どうしたの?」
いきなり何を謝っているのかさっぱりわからず、俺は尋ね返す。彼女はそんな俺に応えるように、じっとこちらの顔を見つめ、話し出したのだった。
「ごめんね、私、嘘ついてた。私、吹奏楽やってたお姉ちゃんなんていないの、ひとりっこなの」
「へ?」
突然の告白に、俺はぽかんと置いてけぼりを喰らう。
「吹奏楽やってたのは、私なの。それも……チューバ吹いてた」
「え、チューバ!?」
思わず身を前に乗り出させてしまった。
チューバだって?
あの重くてうちの部じゃ誰も吹きたがらない金管楽器を、宮本さんが吹いていただって!?
「私ね、ここに引っ越してくる前は大阪に住んでたんだけど、小4の頃から地元の吹奏楽団に入ってたんだ。あの頃は毎日毎日飽きることなく楽器吹いてとても楽しかったし、うまくなってもっと難しい曲もこなせるようになるにつれてどんどん音楽も好きになった」
驚きすぎて思考が追い付いていない俺のことなど知ってか知らずか、宮本さんは打ち明け始めた。俺がユーフォを初めて触ったのは去年中学に入学してからだから、吹き手としてのキャリアは彼女の方が長い。
「中学でも吹奏楽を続けるのは当たり前だった。うちの地元、公立でも大阪府内でも有名な強豪校だったから。でもそこは初心者と経験者にすっごい隔たりがあって、決して良い部活じゃなかった。フルート志望の初心者が最初うまく音鳴らせなかったからって全く希望していない楽器に回されたり、部活のために塾辞めて志望校のランク落としたり、コンクールの席争うために演奏失敗した人を笑ったり……それで肝心のコンクールでも府大会ダメ金で関西大会行けなかったんだから、笑っちゃうよね。そこまでしんどい思いして吹奏楽続ける意味って何だろうって考えると、私、チューバ吹くのが辛くなってきたの。昔は上を目指すのが楽しかったのに、全然そう思えなくなってしまったの」
自嘲気味に笑う彼女に、俺は「そうだったのか」と頷いた。大阪府は全国有数の吹奏楽激戦区と聞く。そんなハイレベルな大会で金賞を得ているのだから彼女の腕は相当なものではあろうが、同時に俺たちには想像もつかないほど大切なものを失ってきたのだろう。
「ここの吹奏楽部は言っちゃ悪いけどうまくなかったから、これはこれでいいんだって思ってた。私もチューバから離れることができるって。でも吹奏楽への未練は思ったようには断ち切れなくって、CD屋さんでは真っ先に吹奏楽のコーナー見て回っちゃったりしてさ。そこに砂岡君が引っ越してきてあんなに上手いユーフォ吹いてくれるもんだから体が勝手に反応しちゃうというか、自分も吹きたいって思いがつい高まっちゃって」
へへっと宮本さんが笑顔を見せたその時、目の端が一瞬きらりと輝いた。慌てて手でこすると、彼女の目元は少し赤くなっていた。
「砂岡くん」
そして改めて、宮本さんは俺に向き直る。その目からは今までのどこか諦めすら感じさせる冷たさが消え去り、新たに強い光を宿しているように見えた。
「私も吹奏楽部に入りたい。やっぱり私、楽器吹くの好きだったんだ」
言い切った彼女を、俺は「是非とも!」と大きく腕を開いて歓迎した。
「てかむしろ入ってくださいお願いします、うちチューバいなくてめちゃ困ってるから!」
「砂岡くん……ありがとう」
心の底から喜んでいるのだろう、宮本さんの微笑みを見ていると、俺もつい嬉しくなってしまう。
なんだろう、この満ち足りた気分は。ずっとこの空間に居続けたいとひそかに思ってしまう、言葉にするのが難しい不思議な心地良さがあった。
この感覚を一生味わっていたい。彼女と向き合ってそんな気分に浸っていた、まさにその時だった。
「砂岡ー、早く帰るわよー」
「じゃないと置いてくよー」
俺はびくっと跳ね上がった。駐輪場の方からチリンチリンと自転車にまたがって、俺を除く吹奏楽部員たちがゆっくりとやってきたのだ。
「あれ、宮本? 何であんたここにいんの?」
そして集団の先頭にいたギャル子こと徳森さんが首を傾げて尋ねる。つられるように、他の2年生部員も「あれ、みやぽん?」だの「3組の子だっけ?」だの「何で砂岡くんと話してんの?」と俺と宮本さんの間で眼を往復させたのだった。
「あー、実はこれは……」
返答に困った俺は、ちらりと宮本さんに視線を向ける。彼女はやや困惑したようすではあったが、やがて両手を合わせてお願いのジェスチャーを送ってくるので、俺はこくんと頷き返した。
「ではレディース、エーンドジェントルマン」
そして俺は喉の調子を整えるそぶりを見せながら、じっとこちらを凝視し続ける部員たちを前に話し始めたのだった。
「皆さん、新入部員を紹介します」




