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第三十一章その3 円陣

「こちらです」


 スタッフに誘導されて、楽器を抱えた俺たちカサキタ吹奏楽部の部員たちは通路をせこせこと進む。ホールの楽屋裏ならではの異様に長く感じる廊下の向こうからは、現在ステージに立っている団体の演奏が漏れ聞こえていた。


 ついにこの時が来てしまった。チューニング室での最後の練習を済ませた今、もう本番のステージまで音を出すことは許されない。


「しばらくここでお待ちください。スタッフが指示を出しましたら、弦バスから入場してください」


 そしてお決まりの、薄暗い舞台袖で出番を待ちかまえるのだった。


「まさかひとつ前が天満並木だなんて、運命感じるね」


 マイチューバを労わるように優しく撫でながら、宮本さんがふふっと苦笑いをこぼす。


 カーテンの向こうから聞こえるのは、彼女が2年前まで在籍していた大阪府代表天満並木中学校の演奏だった。


 去年、天満並木中は関西大会で金賞を受賞したものの、全国大会に進むことはできなかった。ゆえに今年こそはと強く意気込んでいるのだろう、観客席でもない舞台裏だというのに実に美しく響いている。


 そんな彼らが演奏している曲は『マゼランの未知なる大陸への挑戦』。タイトルの通り世界一周航海で有名なマゼランを題材にした一曲だ。


 この曲はきっと、具体的なストーリーをイメージした上で作曲されているのだろう。荒れ狂う大波を乗り越え、ようやく穏やかな朝を迎えたと思えば地図にも載っていない未知の陸地を発見し、そこで暮らす先住民と出会って……と頻繫に変わる曲調は、それぞれ場面ごとに喜怒哀楽が明瞭な形で旋律に落とし込まれており、マゼラン艦隊の辿った旅の過酷な行程を追体験させられる。一曲の音楽なのに、まるで一本の映画を見ているかのようだ。


「明日、木管が死にそうな曲だな」


「ホントだね。でもみんな、とっても楽しんでる」


 じっと目を閉じる宮本さん。その顔はありとあらゆる悩みから解き放たれ、今耳に聞こえる音楽を純粋に聴き入っているように見えた。


 実績ある団体のひとつ後だなんて、チャレンジャーであるカサキタのくじ運は決して良いとは言えないだろう。上手く演奏したとしても、直前のイメージを引きずってしまうせいで聴き劣りしているように感じてしまうのだ。


 しかしそんなプレッシャーでさえも、前向きに楽しんでやろうという雰囲気がどういうわけかこの舞台裏には漂っていた。


「結月、緊張してる?」


「ちょっとだけ。けど、気にする必要も無い程度」


「うん、一番いいね!」


 心身ともにベストコンディションの妹に、姉の松子もにっこりスマイルを浮かべる。自由曲の要であるオーボエ奏者がこの様子なら、うちの木管は安心だな。


「やっぱ緊張するなぁ、ここの空気だけはどうも慣れない」


 愛用の弦バスにしがみつくようにして、心を落ち着ける佐竹さん。そこにトロンボーンのスライドだけを動かして動きを確認していた宇多さんがにこりと笑顔を向けた。


「大丈夫、観客はみんなハゲで全裸のおっさんだと思えばリラックスできるって、先代の副部長が言ってたよ」


「どこの競馬場だよそれ。てか筒井先輩、ろくなこと教えねえな」


 本番前とは思えぬ気の抜けた会話に、俺は脊髄反射的に突っ込みを入れてしまう。すぐさま「砂岡先輩が言いますか」と古川さんがぐさっと刺してきたが、聞かなかったことにしよう。


「まだ時間あるよね?」


 壁の時計をちらりと見上げた徳森さんが小さく呟く。すかさずアルトサックスの工藤さんが「あと3分くらい?」と相槌を打った。


 一度だけ、大きく頷く徳森さん。その直後、彼女は声を抑えながら「みんなみんな、ちょっと集まって」と周りの部員たちに呼びかけたのだった。


「円陣組もう、円陣! ほらほら急いで」


 予定にない指示であるが、部長が言うことだし、ここで反対する理由も無い。部員たち37人は何も言葉に出さずともそれぞれ移動し、楽器を手にしたままスペース一杯の大きな円を作ったのだった。


 全員がやる気に満ちた視線を徳森さんに注ぐ。その瞳からあふれ出るパワーをひしひしと感じてか、暗がりの中で徳森さんはにやりと口角を上げた。


「みんな、ここまでいっしょに来てくれてありがとう。私、みんなが助けてくれたから今ここにいるんだよ」


 こんな言葉が徳森さんの口から出てきていると思うと寒気がするな。


「私ね、2年前はここにいるなんて思ってもいなかった。せっかくのティーンエイジャーなんだから、友達と駄弁ったりオシャレしたり、大人になったら絶対にできない無責任で楽しい毎日を過ごそうって。実際に1年の頃なんて、部室じゃいつもゲームしたりマンガ読んだりで今の10分の1も練習してなかったよ」


 そういえば俺が初めて部室に来た時に見たのも、徳森さんが人生ゲームをプレイしている姿だったな。しかしあれが去年の4月とか……もっと昔の出来事みたいに思えるな。


「だから正直に言うとね、2年前にてっしーがカサキタに来て吹奏楽部を強くしていきましょうって話した時さ、ちょっとムカついたんだよね。私らの楽園にずかずかと踏み込まないでよ、ほっといてよって。でもすぐにわかったよ、ダラダラしているだけじゃ、こんな最高の時間は絶対に過ごせなかったって。それを気付かせてくれたてっしーにも部員みんなにも、私はめいっぱい感謝しているよ」


 じーんと良いムードになるカサキタ一同。だが当の徳森さんはくるりと首をこちらに向けると、おどけた口調で投げかけてきたのだった。


「それじゃ砂岡、あんた副部長として何か話しておきたいことない?」


「こんな時に振るなよ」


 予期せぬキラーパスに口を尖らせつつも、俺は「ええっと」と言葉を選ぶ。


「俺は転校してきたから、2年前のカサキタを知らない。ただ県内でも最下層の、ひっどい部活だったってことしか。てかチューバがいねえとか、バンドとして成り立ってねえだろ」


 どこかで「ええ!?」と声を漏らすのが聞こえた。たぶん去年の宮本さんが入部するまでの惨状を知らない1年生だろう。そりゃ低音の要がいないなんて、おでんに大根が入っていないくらいのあり得なさだからな。


「本当に最悪からのスタートだったよ。でも俺たちが関西まで来られたのは、奇跡でも何でもない。みんながみんな朝から晩まで毎日練習して、きっつい合宿も乗り越えて実力つけたからだ。多少の運は引き寄せたかもしれないけど、運だけじゃここまで勝ち上がることはできないからな」


 今一度、全員の顔をぐるりと見まわす。トントン拍子で上達してきたこの子も、人一倍苦労を重ねてじっくり楽器と向き合ってきたあの子も皆同じ、瞳の中で闘志の炎が燃え盛っている。


「引っ越しが無かったら、それはそれで楽しく過ごしていたと思う。でもカサキタでみんなと出会っていなければ、最高に楽しく過ごしている今の俺はこの世に存在していないんだ。だから今なら言える、俺、カサキタに来て良かったって。みんな、ありがとう!」


 俺はぺこりと頭を下げる。直後、徳森さんの「それじゃあみんな、私らが夏の楽しみ全部捨ててきた成果、見せてあげよう!」という声が聞こえ、俺は改めて顔を上げた。


「いくぞ、ゴールド金賞!」


「おーう!」


 静かに、しかし強くカサキタの部員たちは声に出していた。楽器を持たねばならないので腕を振り上げたり肩を組むことはできないが、俺たちはかつてないほどの一体感を獲得していた。


 やがてひとつ前の演奏が終わり、拍手と歓声がこちらの耳にも届く。


 俺たちはスタッフの指示に従い列を整え、全員きりっと背筋を伸ばし直して入場を待った。


 ついにスタッフがそっと舞台幕をずらす。その隙間から漏れるステージの明かりは、まるで舞台その物が白く輝いているかのようだった。


 そんな煌々と照らされたステージに向かって、俺たち37人は進み出る。


 この12分の演奏のためなら、どんな苦労も代償も厭わない。たった1回の演奏のために、人生のすべてを費やしてもいい。そんな風に思えてしまうほど、カサキタは最高の状態にあった。

参考音源

『マゼランの未知なる大陸への挑戦』

https://www.youtube.com/watch?v=cTjeE0GP3cM

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[一言] マキバオー懐かしいなw
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