第三十一章その1 ついにこの日が
中3の8月は、毎日が密度の濃い日々の連続だった。お盆は朝から晩まで塾に缶詰めにされて夏期講習を受けていたし、直後の合宿では日が沈んでもなお楽器を吹き続けていた。
だが一方でお楽しみタイムである最後の夜のバーベキューは、練習も勉強も全て忘れてハメを外していた。頑張る時は頑張って、はっちゃける時は思いっきりはっちゃける、これが一番だ。
そしてとうとう、俺は無事に8月25日の朝を迎えたのだった。
登校したのはまだセミの鳴き声すら聞こえてこない朝早くだと言うのに、校舎からはすでに楽器の音が聞こえていた。
俺も早足で4階まで上がり、愛器ピエールをかまえて最後のロングトーンに取りかかる。やがて他の部員全員と先生がそろうと合奏の隊形になって、時間の許す限り音合わせに勤しんだ。
その後、到着したトラックに楽器を積み込み、無事に発進したのを見送ると、すでにスタンバイしていた大型バスに乗り込んだのだった。
バスは名神高速道路に乗ると、そのまま大津トンネルを通って山科へと抜ける。ここはもう京都府、俺たちは県境を越えていた。
そして京都東インターチェンジから下道に降りてさらに西へ進み、もうひとつ山道を越えて京都の市街地へと出たのだった。
「あ、そこ右曲がるともう見えるよ」
交差点に差し掛かる前に手で指し示す松子。直後、バスはウインカーを上げて右折レーンに入る。
「松子、よく知ってるなぁ」
「ピアノの発表会でよく来てたからねぇ、ここ」
そう言ってうちの弦バス兼ファゴット奏者はにししと白い歯を見せて笑う。中学最後の大舞台直前であっても、こいつは平常運転のようだ。
やがてバスは平安神宮のシンボルである朱色の大鳥居をくぐり、岡崎公園駐車場へと進入する。そこで降車した俺たちは、道路を隔てた向こうでずらりと建ち並ぶレンガ造りの趣あるたたずまいに目を奪われながらも、徒歩で移動して目的地である京都会館に到着したのだった。
ここ京都会館の大ホールは2000席以上と京都府内でも最大の収容能力を誇る。そして同時に、今年の吹奏楽コンクール関西大会の会場でもあるのだ。
広大な中庭を突っ切って館内に入ると、すでに多くの出場団体が到着しているようで、壁際にはあちらこちらで楽器ケースが一塊になって置かれていた。
初めて来た京都会館のロビー。そこに聳える二股に分かれた荘厳な大階段に圧倒されていると、ちょうど目の前を鮮やかな水色の制服に身を包んだ女子生徒らが横切った。彼女らはそれぞれがトランペットやフルートなどの楽器を抱え、そして一様にほっと安心したように爽やかな笑みを浮かべていた。きっと今さっき本番の演奏を終えたところなのだろう。
「ねえ、今のって天竺女子学院じゃ?」
「うわホントだ、超お嬢様学校だよね! めっちゃカワイイ!」
カサキタの女子部員がにわかに沸き立つ。どうやら関西では有名な憧れの学校らしい。
女子部員たちはきらきらとした視線を向けながら、すたすたと歩き去る水色の後姿を見送る。直後、自分たちの何ら面白味の無い紺のブレザーにちらりと目を落とすと、途端にずんと沈み込んだようの表情を一変させたのだった。おいおい、制服ひとつでそこまでテンション変わるものか?
「みんなー、プログラムもらってきたよー!」
そこに紙束を持った徳森部長が小走りで駆け寄る。
「カサキタの出番は午後、後半の部の真ん中あたりだからねー。トラック来るまでまだ時間あるし、しばらくは他の演奏聴いて待っていよー」
そしてパートリーダーを集めてそれぞれのパートの人数分のプログラムを渡しながら、混雑した館内でもよく通る声で呼び掛けたのだった。
関西大会では2府4県を勝ち抜いた26校が出場し、それぞれ15分を目安に代わる代わるステージを入れ替わる。
また、この大会は滋賀県大会と異なり、前半の部と後半の部とで分けて審査結果発表が行われるのも大きな特徴だろう。
これまでの大会では各部門すべての出場団体が演奏を終えた後、夕方に結果発表を行うのが通例だった。だが関西大会は出場校も多く、出場者全員がホールに入り切らないという事情を考慮してか、前半13校の演奏が終わったところで一旦それぞれの団体に金銀銅の結果が言い渡され、また後半13団体の演奏が終わった後にそれらの結果が発表されるという流れになっている。
ちなみに全国大会出場校の発表は後半の部の結果発表が終わった後になるので、前半の部で金賞だった団体は最後まで残る必要がある……てことはもし朝一番で演奏して、めでたく金賞を獲得した場合、本当に一日中この会館で過ごすことになるのか?
なおすべてのプログラムが終了するまでに、夜の8時近くまでかかるそうだ。いつも思うんだけど、コンクールってどこも日程キツキツだよな。
俺はロビーの壁に掛けられた時計に目を移す。今の時間なら午前の部ももうすぐ終わりに近づいている頃だろう。前半の結果発表に備えて、すでに大勢がホールの中で待機しているはずだ。
「急ごう、席座れなくなるぞ」
俺は急かすような口調で歩き出す。
「あ、待ってよ砂岡!」
そんな俺を追いかけるように、部員たちは後に続いた。
俺たち37名はステージ上で団体の入れ替えが行われているわずかな間に、足音を立てず、しかし素早く大ホールに滑り込む。そして手近な空席を見つけると、順次腰を下ろしたのだった。
「あーあ、守山中央はもう終わってるのか」
非常灯のわずかな灯りに照らしながら、俺は先ほどもらったプログラムをじっと読み込みながらため息を吐く。県大会でも披露したあの『組曲「惑星」より「木星」』、もう一度聴きたかったのに。
守山中央は言わずと知れた県下の名門だ。関西大会では競い合うライバル校同士という仲ではあるのだが、同じ滋賀県の代表というだけでなぜだか妙な仲間意識も生まれてくるのが不思議だ。
「まあ仕方ない。えっと、次の団体は……」
「京都府代表、東寺町高等学校附属中学校」
ホールにアナウンスが響いた瞬間、俺の身体がびくっと跳ね上がる。プログラムに気を取られてステージに全く目を向けていたなかったところで、いきなりこの名前がコールされるというのはまさしく寝耳に水だった。




