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第三章その2 5月の空の下

「ええっと、y=2x+1と2x+3y=11という連立方程式の場合、もうyがきれいにまとまっているから代入法を使うのが一番楽ちんだの。だからほれ、これは2x+3(2x+1)=11と書き換えられるから……」


 黒板にチョークを走らせて数式を解説するのは、担任のおじいちゃん先生だ。やっぱり見た目の印象通り、担当教科は数学だった。


 復習で余分な労力を使いたくないので、俺は板書をノートに書き写しながら先生の説明に耳を傾ける。授業一発だけでしっかりと理解して、効率よく学習を進めるのが俺なりのモットーだ。


 だが気を緩めると、右手の指は無意識のうちに『序曲「祝典」』のリズムをいつの間にか刻みだす。


 それだけ曲に打ち込めていることの表れだろう。もう最近は24時間、常に頭の中に曲が流れている。


 帰りの会が終わるや否や、俺は部室に直行した。


「さてと、今日も練習練習!」


 本番の土曜日まであと4日。準備を整えた俺は楽器と譜面台を抱えて1階まで下りる。お気に入りの校舎脇で、思う存分練習するためだ。


 そして校舎の日陰になる位置に譜面台を立てると、俺はロングトーンから日課の基礎練習メニューに取り掛かり始めたのだった。


 よし、今日も好調だ。低音は力強く地面を揺らし、高音は優しく周りの空気を包み込めている。


 10分ほどで基礎練習を切り上げると、いよいよ曲の練習に入る。ぶっ通しでミス無く吹くのはもちろん、タンギングやリップスラーなどの技術面にも逐一意識を尖らせる。また電子チューナーを起動して、一音ごとにピッチがずれていないかしっかり確認しておかねばならない。これができなければ、きれいなハーモニーは生み出せないからな。


 途中、敷地内でランニングを行う運動部の連中がちらちらとこっちを見てきたが、彼らも目前の大会のため気にしている場合ではないのだろう、すぐに「いっちにーさーんしー」と掛け声とともに走り去っていった。


 そして何周か曲をまるまる吹き終え、水筒のお茶をぐびぐびと傾けていた時のことだった。


「やっぱりうまいね、砂岡君」


 俺の耳を柔らかい声が撫でる。目を向けると、黒のセミロングに白い肌の女子生徒が校舎の壁にもたれかかるようにして立っていたのだった。昨日もここに来ていた、テニス部のあの子だ。


「えっと、宮本さんだっけ? 何で俺の名前知ってるの?」


「だって有名だもん、2年生で吹奏楽部にいる男子ってひとりだけだし。そういう砂岡君も私の名前、徳森さんから教えてもらったの?」


「まあね……吹奏楽、好きなの?」


「うーん、お姉ちゃんがやってたから、知ってるだけ」


「そっか」


 そんな他愛もない会話を、俺と宮本さんは交わした。


 テニス部員である彼女がここにいることは、おそらくサボりにあたる行為だろう。だが一部の熱心な部員を除いて、本校のテニス部は全体的に緩い雰囲気が漂っている。聞いた話ではレギュラーメンバーでなければろくにコートを使わせてもらえないそうで、上と下の実力差がどんどんついてしまっているのがその原因らしい。


 去年の2学期からテニスを始めた彼女のことなど、テニス部にとっては賑やかしのひとりに過ぎないようだ。ここからテニスコートまでそう離れていないにもかかわらず、誰も探しに来ないのが何よりの証拠だろう。


 そんな時、上の方から何本ものクラリネットが一斉に音を鳴らすのが聞こえてきたので、俺と宮本さんはふと校舎の4階の窓を眺めた。


 木管楽器がセッションを始めたようだ。リズムは最低限そろってはいるものの、1年生が多いパートだけに息もまっすぐに入っておらず、おまけに余計な力が入っているのか音もこもっているのでどうも聞き苦しく感じてしまう。


「初々しい響き」


「半分近くが1年生だからね。みんな最初はそういうもんだ」


 ふふっと笑みをこぼす宮本さんに、俺はすかさず言い返す。


「だよね……」


 しばらくの間、宮本さんは不揃いなクラリネットに聞き入っていた。


 あー、今のもうちょっとタイミングそろえられないかな?


 そう心の中でダメ出ししていたところで、不意に彼女は「私、思うの」と切り出す。


「音楽ってさ、うまい子も下手な子も、やる気ある子も無い子もいっしょになってやるもんじゃん。だからうまい子は他に足引っ張られてかわいそうだし、逆に実力無い子は無理矢理レベル高い場に連れられて、すっごい苦労してるんだろうなって。こういうの、お互いにとって良くないんじゃないかなって」


 俺は唖然と固まった。俺自身も吹奏楽をやっている当事者だが、そんなこと考えたこともなかった。


「砂岡君はさ、ここの吹奏楽部入って良かったって思ってる?」


 そして彼女はこちらに顔を向けて尋ねてきたのだった。興味本位というよりも、まるで俺のことを心配してくれているような口ぶりで。


 宮本さんがどうしてこんなことを訊いてきたのかはわからない。だがなんとなく、いい加減な返事をしてはいけない雰囲気を感じ取って、俺は思ったままのことを答えたのだった。


「どうだろう、大会で良い賞取ろうっていうならダメダメだと思うよ。でも吹奏楽部の活動って、コンクールだけじゃないからなぁ。ユーフォなんてマイナー楽器を好きなだけ吹ける場があるってだけでもありがたいっちゃありがたいわけだし。だからここ入って良かったかどうかは、自分でもまだよくわからん」


 そう言ってへへっと笑ってみせる。けれど彼女は今ひとつ腑に落ちないようで、「そっか」とちょっと残念そうに小さくため息を吐いていた。


「あ、それとさそれとさ」


 ふと言いたいことが頭に浮かび、俺は流れをぶったぎるように口を開く。


 さっき彼女が話したこと。それに対する俺なりの考えが、ようやくまとまったのだ。


「俺が前に通ってた中学の吹奏楽部はさ、強さの割に人数少なくって1年生も結構な人数コンクールに出されるんだ。まだ楽器触って半年も経ってないのにね」


 宮本さんは「え?」と小さく漏らし、固まっていた。


「新入部員にとったら2年生なんて雲の上の人で、3年生に至ってはもう全員プロの音楽家みたいなもんだ。そんな環境だからさ、上手い人も下手な人もいて当然で、バンドなんてそういうもんだとしか思わなかったな」


「そうなんだ……」


 宮本さんがぼそっと呟き、しばし口を閉ざす。だが数秒もすれば彼女は昔のおかしな出来事を思い出したかのようにぷっと吹き出したのだった。


「砂岡君、話付き合ってくれてありがとう。練習止めさせてしまって、ごめんね」


 そして今までのどこか冷たさの感じられるのとはまるで違った、弾むような声で告げると、くるりと背を向けて歩き始めた。


「あのさ、宮本さん」


 俺は今一度呼び止める。立ち止まった彼女はちらりとだけこちらに顔を向けた。


「気になるなら吹奏楽祭、聞きに来ない? ちょうど土曜日だし、お姉さんも連れてさ」


 そう伝えた直後、彼女は一瞬ふっと笑った顔を見せる。そしてそのまま黒髪を揺らして、テニスコートへと戻っていったのだった。

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