第二十九章その2 最後の県大会
チューニング室で最後の練習を終えた俺たちは、舞台袖まで移動する。
ステージではちょうど、ひとつ前の学校が演奏している真っ最中だ。ここから舞台に立つまでの10分弱は、何度経験してもバクバクと心臓の鼓動が加速してしまう。舞台袖というこの空間の薄暗さも、緊張感を煽るのに一役買っている気がする。
「結月ちゃん、本当に場慣れしているってか、堂々としてるね。ミスしたらどうしようとか、考えたこと無いの?」
まるで不安を和らげるかのように、弦バス1年の佐竹さんが大きな楽器にしがみつきながら同学年のオーボエ奏者に尋ねる。
「無い」
だが結月ちゃんはその問いかけを、真っ向からきっぱりと否定したのだった。
「私のオーボエは絶対に狂わないよ。あんなに練習積んできたんだし、地区予選できらめき賞も取れた。いつもできて、ここでできないはずがない。それに今日は、最高のリードもあるから」
そう小声で話しながら、彼女は楽器に取り付けたダブルリードをすっと見せつけた。そんな妹を見て、姉の松子はふふっと笑顔を漏らすのだった。
「結月が本番でくだらないミスするなんて絶対にあり得ないよ。この子のこと一番よく知ってて一番信用してるウチが言うんだから、間違いないよ」
そして暗がりの中で視線を交わす姉妹。このふたりは客の前だろうがどこだろうが、不安という言葉とは無縁のようだ。
「砂岡くん」
そんな姉妹のやり取りを微笑ましく眺めていた俺に、後ろから声がかけられる。チューバの宮本さんだ。
「去年のことだけど、関西行こうって河原でいっしょに話したの、覚えてる?」
「もちろん」
俺は即答した。
忘れるはずがない。県大会が終わってお盆に広島まで帰省した時、中国大会出場を決めた西賀茂の演奏を聴いて沸々と湧き上がってきたあの想い。それを初めてぶちまけたのは、他でもない宮本さんに対してだった。
「さっき先生、私たちなら関西に行けるって言ってたよね。あんなこと言うの初めてだから、ちょっと驚いちゃってさ」
「だよな」
普段、先生は最高の演奏をしましょう、持てる力を出し切りましょうという言いまわしは頻繫に使うものの、明確に関西大会を目指そうといった表現を使ったことはほとんど無い。
だから先生の口から関西という言葉が出てきた瞬間、部員一同は面食らってしまったのだ。あののほほんとしている先生が、これほどまでに燃え滾っているなんて。今日が最後のコンクールになるかもしれない3年生を含めたどの部員よりも、先生が一番気合を入れているように思えた。
去年はチューバすらいないという最悪の状態からスタートしただけに、関西大会なんて行けなくて当然、むしろ県大会に進めただけでも奇跡のようなもの。
だが今年は違う。あれから1年かけてカサキタは実力を身に着け、本気で関西大会を目指してここまで来たんだ。あの時の誓いは今でも、自分が部活を続ける最大の心の拠り所になっている。
「今まで心の中ではずっと関西行くぞって思いながらここまで頑張ってきたけど……いざ誰かに言われると、なんか変な感じだよね。嬉しいって言えば嬉しいんだけど、本当にそうなのかな、お世辞じゃないかなって気になっちゃって。何と言うか、実感が湧いてこないんだよね。本当に自分たちに関西に行けるだけの実力あるのかな、なんて」
「だなぁ、あれは俺も驚いた。でも俺たちなら行けるよ、関西」
今ひとつ自信のなさげな宮本さんに同意しつつも、俺は強く言い切って答えた。
「よく考えてもみろよ、実際に俺たち、アンコンで関西まで行ったんだぞ? 今度は単純に人数が37人に増えただけだ。何が違うって言うんだよ?」
ぽかんと口を開き、呆気にとられた顔を向ける宮本さん。しかし数秒後、彼女は口元を押さえてぷふっと吹き出してしまった。
「ふふっ、言われてみればそうだね。私たち、もう関西行ってるじゃん。ごめん、本番前になると人間ろくなこと考えなくなるもんだね。私、くだらないこと気にし過ぎてたよ」
そしてしばらく声を殺して笑った後、宮本さんは「砂岡くん」と再び顔を上げ、そして口にしたのだった。
「行ったっていいんだよね、私たちが関西に」
ちょうどそのタイミングで、ひとつ前の学校の自由曲が終了した。
たちまち鳴り響く拍手、お辞儀する指揮者、退場する奏者たち。静まり返っていた客席からもざわざわと話し声が起こり、彼らの出番が本当に終了したことをようやく実感する。
さあ、ステージにはもう誰もいない。これからの12分間は、ホールにいる全員がカサキタの演奏だけに意識を傾けるという神様が与えてくれた特別な時間だ。
誰が言い出したわけでもなく、37人の部員たちは互いに顔を見合わせる。そしてそれぞれが無言で頷き合うと、すうっと呼吸を整えて人の掃けたステージへと進み出たのだった。
「19番、草津市立笠縫北中学校。課題曲2番、自由曲『伝説のアイルランド』」
アナウンスと拍手に身に浴びせられながら、それぞれ楽器をかまえて定位置に向かう部員たち。
「あれ?」
一瞬、会場がざわついた。それもそのはず、バスクラやオーボエに混じってファゴットを持っていた部員が、いざ席に着くかと思ったら椅子の上にファゴットを置き、小走りで舞台後方のパーカッションに合流してしまったのだから。
このからくりを知る俺たちは席に着きながら内心ほくそ笑む。この登場シーンだけで、この学校は何か変なことをやってくるぞという雰囲気を演出することができた。
さて、準備は整った。しんと静寂に包まれるホール、輝くような純白のブラウスで指揮台に立つ手島先生。
ついに先生がタクトを振り上げる。そして音には出さない、口の動きだけの「ワン、ツー」とともに、たくちゃんのグロッケンが金属音を響かせて課題曲『エアーズ』が始まったのだった。
曲全体を構成する、素直に美しいと言える歌いだしたくなるような主旋律。卒業式を思わせる悲しさを伴いながら元気が湧いてくるこのメロディアスな曲調を、クラリネットら木管パートはピタリと音を合わせて厚みあるものに仕上げていた。
中盤、曲が落ち着いて静かになった中で色っぽく吹き上げられる工藤さんのアルトサックスソロも完璧だ。これは水上さんに手島先生という、木管経験者による薫陶の賜物だろう。
そして曲の終盤、しつこいほど繰り返されたメロディが盛り上がったところでユーフォとボーンの「焼きそばパーン」もきれいに決まった。
いいぞ! 今のアクセントは、俺史上最高かもしれない!
この時の俺は、自分が指を動かして曲を演奏しているといった状態ではなかった。まるで無意識に体が動いて曲を奏でる……いや、曲という空間を包む何かに、俺自身が意識の隅々まで飲み込まれているかのような気分に浸っていた。
5分はあるはずの課題曲は、ほんの一瞬で過ぎ去ってしまった。しかし次の曲に移行する間も、タイムキーパーの時計は動いている。ここで楽器を持ち替える場合、奏者は極力タイムロスを減らすよう急ぐ必要がある。
ここでパーカッションを増やしたり、ソプラノサックスを取り出す程度ならば、さほど珍しくない光景だろう。だがカサキタは違う。課題曲終了と同時にコントラバス奏者が背丈ほどもある楽器を床に寝かせ、指揮者を取り囲む一団の中を移動し、椅子に置かれていたファゴットを素早くかまえる。
またしても、観客席からどよめきが上がる。よりにもよって弦バス奏者がダブルリードのファゴットを吹くなんて、発音機構が違い過ぎて通常ではまず考えられない持ち替えだった。
だがそんな客の反応など、気にしている場合ではない。今は1秒でも時間が惜しい、松子が楽器をかまえるとほぼ同時に、先生はタクトを振り上げて自由曲『伝説のアイルランド』の演奏を始めたのだった。
チャイムの音、鎖の音、重厚な金管のハーモニー。先ほどの『エアーズ』とは打って変わって、勇壮なバイキングを思わせる曲調がホールに轟き渡る。
やがてたくちゃんのトムトムのリズムが地面を揺らし、荒涼としたアイルランドの大地をホールの中で描き出す。そこに結月ちゃんのオーボエが土着の民謡を奏で、そんな雄大な自然に囲まれて舞い踊る人々がいることを否が応でも思い知らせる。
そのオーボエの艶っぽい響きは、玄人から素人まであらゆる人間の心をつかんでいた。明確さ、抑揚、緩急、すべてが満点、いや、満点をはるかに超える演奏。照明の落ちた観客席だが、誰しもが指揮者のすぐ近くでオーボエを奏でるおかっぱ頭の少女に視線を注いでいるのがまるわかりだった。
加えてそのオーボエを下支えするのが松子のファゴット。見事なオーボエに劣らぬこれまた優れた演奏に、観客はすっかり魅了されてしまっていた。
そこからはフルート、アルトサックス、トランペット、さらにはティンパニーと場面ごとに目立つ楽器が目まぐるしく入れ替わる。そのいずれの場面でも、奏者たちは今は私が主役だ、私の音を聴け、とでも言いたげに、誇らしく、堂々と演奏を成功させていた。
そしていよいよ、序盤の旋律を繰り返しながらフィナーレを迎える。様々な民謡のメロディを聴いた後に再びこの勇ましい旋律を聴くと、なぜか取り返しのつかない悲劇が起こってしまったような気がしてならない。できればこのまま終わってほしくない、あのオーボエやサックスをいつまでも聴いていたいと、そう希求してしまうだろう。
しかし曲にはいつか必ず終わりがやって来る。最後の音を俺たちは目いっぱい伸ばし響かせ、タクトを持たないまま高く突き上げられた先生の左手がくるりと翻されながら閉じられると同時に、ピタリと演奏を終了させたのだった。
演奏を終えた俺たちをまず迎えたのは、一瞬の沈黙。本当に今ので曲が終わってしまったのか、観客は理解が追い付かず完全に取り残されているようだった。
「ブラボー!」
だが誰かが声を張り上げながらぱちぱちと拍手を鳴らすや否や、釣られた人々はすぐさま手を叩いてカサキタの演奏に賞賛を贈る。いつの間にか、他校の生徒も大人たちも立ち上がり、会場はスタンディングオベーション一色に染まっていた。
「最高!」
「やっばいぞー!」
そんな大歓声を受けながら、俺たちは楽器を持ってすたすたと舞台袖に引っ込んでいた。次の学校に舞台を譲るため、ステージからはすぐに撤退するのが鉄則なのだ。




