第二十九章その1 8月の空の下
ここは大津市民会館、琵琶湖の畔に佇む県内有数規模を誇るホールだ。
正午、太陽が頭の真上に昇った頃、俺たちを乗せたバスは停泊した遊覧船のよく見える駐車場に進入し、カサキタの部員37名を降ろした。
「ふわぁ、ようやく着いた」
大きな欠伸とともにバスのステップを降りていた松子は、目に飛び込んできた太陽の輝きに手で顔を隠す。
「ずっと寝てたのに、ようやくも何もねーだろ」
先にアスファルトの上に降りていた俺はパートごとに人数確認するよう呼び掛けていたにもかかわらず、すかさずツッコミを入れてしまった。あんなにピリピリしたバスの中でぐうぐう寝息立てるやつ、初めて見たよ。
今朝はいつもよりだいぶ早くから学校に集まり、合奏練習を済ませてからトラックに楽器を積み込んでいたので、既に一仕事終えた気分になってしまう。
「ああー、緊張するなぁ」
「今の内に緊張しとけ、本番前に緊張してミスるよりずっといい」
チューバのハッタヤとパーカッションのたくちゃんが男子同士で小突き合う。このふたりはバスの中でも、ずっと隣同士で座るほどの仲良しコンビだ。
「よし、全員いるよね! じゃあみんな、いっちょ乗り込むぞー!」
37人全員がバスを降りたことを確認すると、部長の徳森さんはぱんぱんと手を叩いて部員の注目を集める。そして手を振りながら、建物に向かってずんずんと歩き始めたのだった。
8月2日の月曜日、待ちに待ったコンクール滋賀県大会本番は、青空広がる快晴の下で開催されていた。
県内3か所で開かれた予選を突破してAの部に出場するのは、カサキタも含めて21校。最高賞である金賞は例年5~8校ほどとばらつきがあるようなので、勝負はあくまで絶対評価、ひとつ前の学校より上手くなどとは思わず自分たちにとって最高の演奏をしようと心がけるのが良さそうだ。
ちなみに代表として関西大会に進めるのは、わずか3校のみ。県大会突破のハードルは思った以上に高い。
俺たちの出番は21校中19番目とかなり後の方だ。この時間の到着でも、しばらく他校の演奏を聴いてから本番に臨むことになる。
「守山中央は午後の3番目か」
ホールの座席に腰かけた俺は、ロビーでもらったプログラムに目を通しながら呟く。今はちょうど昼休憩の最中なのでステージには緞帳が下ろされており、飲食禁止の客席ではすでに本番を終えたであろう学生たちがおしゃべりに興じていた。
「廿日山もその後だから、これ聴き終わってすぐホール出るくらいに思った方がいいね」
隣に座っていた宮本さんも、プログラムから目を離さずに返す。
両校とも以前聴いた時点で見事な演奏を響かせていた有力校だ。今日の本番でさらに完成度を高めてくるのは確実だろう。
昼休憩も終わりに近づくと、客席は昼食を終えた他校の生徒や保護者で埋め尽くされる。やがて室内の照明が落ち、緞帳もゆっくりと上げられ、午後の部が開始されたのだった。
出場する団体はどこも本気だった。この2曲合わせてわずか12分のステージに全力投球で挑んでいるのが、舞台袖から出てきたときの表情だけで窺い知れる。
そしてついに守山中央の演奏。部員80人を超える強豪校、その中から選び抜かれた50人がぴんと背筋を伸ばしたままステージに歩み出て各自の位置に着く。
名演を期待してか、客席の人々も全員がぐっと身体を前に突き出し、より耳を澄ませているように思えた。
そして演奏されたのは、課題曲『吹奏楽のための「風之舞」』と、自由曲『組曲「惑星」より「木星」』。
多くの学校が課題曲に選んだ『吹奏楽のための「風の舞」』は、自分たちが演奏する曲を除けば、おそらくこの夏で最も聴かされた曲のトップにランクインするだろう。序盤から炸裂する和風の旋律は何度聴いてもわくわくしてしまうし、上手い団体が演奏すればその力強さは2倍にも3倍にも跳ね上がる。
そんな耳にすっかり馴染んでしまった課題曲も、守山中央はどこの学校よりもダイナミックにかつ美麗に吹きこなしていた。曲自身の持つ潜在的な美しさが、演奏する団体によってさらに引き出されるというのはまさにこのことだろう。
だがこれだけで終わらないのが、守山中央の恐ろしいところだ。自由曲『組曲「惑星」より「木星」』は誰もが知る名曲だけに期待値も高く、凡庸な演奏をしようものなら即座に飽きられてしまう。しかし彼らは冒頭一発目、木管の不協和音にホルンの力強い旋律、すべてが完璧でわずかなズレさえも感じられない音色を作り上げ、あっという間に会場を自らの演出する宇宙空間まで引き込んでしまった。一曲の中で拍子やリズムが頻繫に変わるためやや冗長に思えてしまうこの曲だが、それらがまるで木星の周りを公転するガリレオ衛星がごとく聴く者を圧倒しながら過ぎ去ってしまうのだった。
そしてあまりにも有名すぎる歌うような第四主題では、会場全体が一音一音を聞き漏らすまいと、ぴたりと時間が止まったように演奏に聞き入っていた。自らの呼吸音ですら鬱陶しく思えるほど、その旋律の美しさはずば抜けていた。
演奏の終了とともに、会場は一瞬で割れんばかりの大喝采に包まれてしまった。一部熱心なファンは立ち上がってスタンディングオベーションを贈るほどだ。
やはり強豪は強豪だった。自分たちのできる最高の演奏を、守山中央は成し遂げたのだ。
続く廿日山の演奏も、これまたお見事の一言だった。
合宿でも聴いた自由曲『大仏と鹿』はより躍動感溢れる音色に磨き上げられていて、軽快に飛び跳ねる鹿、それを見守る大仏という対比が実に鮮明に表現されていた。加えて一音一音に厚みがあり、Aの部としては少人数である30人ちょっとの演奏とはとても信じられなかった。CDで音だけ聞かされて、その倍の人数がいるんだよと嘘を教えられてもすんなりと信じてしまいそうだ。
こちらも自由曲の終了と同時に、会場のあちこちで「ブラボー!」と声をあげて立ち上がる観客が出没した。これほどの演奏を2連続で聴けるなんて、県大会でもそうそうに見られる光景ではない。
どちらの学校も甲乙つけがたい。もし俺が審査員だったなら、この時点で両校の金賞を確定させてしまうだろう。
「さ、そろそろ行くよ」
ぱちぱちと手の平を打ち合わせていた俺の背中を、後ろの席の徳森さんがツンツンとつつく。おっと、あまりに優れた演奏のおかげで忘れかけてしまっていたが、もう準備の時間になってしまったようだ。
ホールを出た俺たちは、建物裏の関係者専用駐車場に急ぐ。そこではちょうど、カサキタの楽器類を積んだトラックがバックで進入していた。
そこからティンパニーやチューバなどの大型の楽器を積み下ろし、部員たちが協力してロビーまで移動させる。トラックから打楽器を降ろせる時間は厳密に決まっている。出演者はタイムテーブルに従って、てきぱきと動かなくてはならない。
そしてそれぞれの楽器を準備したカサキタの部員たちは、チューニング室で最後の音合わせに取り掛かった。
「はい、そこまで」
チューニングを済ませた後、課題曲と自由曲をそれぞれ一回通しで演奏を終える。そこで手島先生は振り上げたタクトをすっと下ろすと、普段と全く変わらない微笑みを俺たちに向け、話し始めたのだった。
「皆さん、今日まで本当によく頑張ってきてくださいました。ここからは舞台の上まで音を出すことはできませんが、皆さんなら最高の演奏を聴かせてくれると信じています」
37人全員が、先生の話にじっと耳を傾ける。通常、チューニング室では時間いっぱいギリギリまで音出しに費やすだけに、この場でこれほど長く話すなど異例のことだった。
「ですから一言、今の皆さんならこれを聴いても大丈夫だろうと思います」
先生が部員たちをぐるりと見まわす。その目はにこりと笑いながらも、闘志の炎がめらめらと燃え上がっていた。
「今の演奏は、贔屓目無しに最高でした。カサキタなら、きっと関西に行けます」




