第二十八章その5 チョコレート・メッセージ
「たっでぇまー」
練習、塾と本日のなすべきことをすべて終えた夜9時過ぎ、俺はようやく自宅マンションの扉をくぐっていた。
受験生かつ大会前というこの身なので致し方ないとはいえ、さすがに朝から晩までスケジュールぎっしりが連日続くのはしんどい。まだまだ練習足りないよと思いつつも、今晩寝て起きたら大会本番当日になっていたらこの苦しみから解放されるのになんて考えてしまう。ホント、冬の高校サッカーに出場する3年生とか、マジでどんな心地なんだろう。
ちなみに運動部で早々に敗退したやつだと、6月にはもう引退していたりもする。そういうヤツらは切り替えて受験勉強に専念しているか、受験何それ美味しいのと言いたげに遊び惚けているかのどっちかだ。吹奏楽部は地区予選で敗れようが上の大会に進もうが学園祭のある10月までは練習が続くので、基本的に学校の中では引退がかなり遅い方になる。
帰宅後、俺が自室の学習机に腰を落ち着けられたのは、入浴を終えてパジャマに着替えてからだった。
ああ疲れた、とため息を吐きながらも、さて今週分の英単語を身体に覚え込ませますか、とペン立てからシャープペンシルを引っこ抜く。不思議なことに一度勉強の習慣が付くと、何もしていない暇な時間があれば落ち着かなくて気持ち悪くなってしまうものだ。
単語帳を取り出すため、俺は机の脇にどさっと置かれたリュックのジッパーを開ける。
「……あ」
その時、塾のテキストや下敷きに混じって、カバンの奥に鎮座する可愛らしいストライプ模様が目についた。
そうだすっかり忘れていた。今朝、結月ちゃんが渡してくれたリード作りのお礼があったんだ。
俺はリュックに手を突っ込み、取り出した小さな包みを机の上に置いた。紙で包んでリボンを巻いたこのプレゼントはまだ開封しておらず、何が入っているのかさえも知らない。
「何が出るかな、何が出るかな」
口遊みながらラッピングをほどく。
包装紙の中から現れたのは、チョコのお菓子だった。くちどけまろやかと印刷された紙箱が見えた途端、俺は「やりぃ!」と小さく拳を振り上げる。
高級感あふれる小箱のような見た目が特徴のこのお菓子はコンビニでも売ってはいるものの、値段設定もやや高めなのでいざ自分で買うところまでは踏み込めない。漫画とゲーム、それに楽器の手入れ道具を優先していけば、中学生の財力では色々と我慢せねばならないのだ。
めったに食べられない上等なお菓子。昨日のリード作りの居残りも、これをもらえるならお釣りがくるよ。
「おや?」
だが再び箱に目を移した時、俺はつい口に漏らす。包みをはがした箱の上に、ポチ袋くらいの小さな封筒がのっかっていたのだ。
「手紙かな?」
封印に使われていた星形のシールをはがし、中の紙を取り出す。
出てきたのは結月ちゃんからのメッセージだった。メモサイズの小さな便箋に、カラーペンで文字が綴られている。これが鮮やかな赤や青ではなく、淡い黄緑や水色といったパステルカラーを多用しているところが女の子って感じだよな。
『砂岡先輩、ありがとうございます。先輩が手伝ってくれたおかげで、とても良いリードができました。これでコンクールも安心して乗り切れます。本当にありがとうございました!』
「ははは、喜んでもらえて何より」
普段こういうことを口にする子ではないだけに、もし結月ちゃんが面と向かってこんなことを言ってきたらと考えるとつい吹き出してしまう。
おや、メッセージはまだ終わっていないようだ。俺はじっと目を細め、紙の下側、縁のギリギリに小さく書かれた文字を読んだ。
『それから、お姉ちゃんも先輩がいっしょに手伝ってくれて、とても嬉しそうでした。これからもお姉ちゃんをよろしくお願いします』
「よろしくさせられてたまるか!」
あの子、絶対に何か勘違いしてるだろ!?
俺は「まったくもう」などぶつくさと垂れながらも、便箋をそっと封筒に戻し、机の引き出しにしまう。勘違いされていようとなかろうと、後輩から感謝されることは先輩部員として誇らしいことこの上ない。
それではもう夜ですが、せっかくもらったんだしチョコをいただきますか!
さあさあお待ちかね。誰が見ているわけでもないのに、俺は勿体ぶったように箱を両手で持ち上げる。
「あれ?」
だがその時、俺はまたしても手を止めてしまった。ストライプ模様の包装紙の裏、ちょうど箱をどかした位置に、黒のサインペンでつらつらと文字が書かれていたのだ。
この意外ときっちりした字体は……松子だな。しかしひとつ前の字とつながりかけて容易に筆跡が辿れるあたり、結月ちゃんのようにカラーを選んでじっくりと仕上げたのではなく、とりあえず手近に置いてあったペンで急いで書きましたといった印象を受ける。
俺はチョコの箱を脇に置き、包装紙を手に取った。
『砂岡、昨日はありがとう。妹もすごく喜んでいたし、これでもっと良い演奏ができると滅多に見せない顔で笑っていました。こんな形ですが、私からもお礼を言わせてください』
「あいつが私って言うと、らしくなくて鳥肌立ちそうだな」
俺は皮肉を交え、ひとりふっと笑う。
しかし妙だな。結月ちゃんはちゃんと便箋にメッセージをしたためたのに、なぜ松子はこんなところに書いているのだろう?
まるで妹に気付かれないように、こっそり仕込んだかのように思える。
そんな疑問を抱きつつも、俺は続きを読んだ。
『実は合宿の時のことですが、砂岡が私たちを追いかけて外に出てきてくれていたことには気付いています』
「マジかよ」
俺はぎょっと目を剥いた。
ここでいう合宿の時とは、合宿最初の夜のことだろう。結月ちゃんと外に出た松子が、珍しく怒鳴り散らしたあの出来事だ。
あの時、俺はふたりのただならぬ様子が心配で、悪いとは思っていたがついていってしまった。もし何かあったら止めに入ろうかとも考えていたが、そこまで至らなくて良かったとほっとしている。
それをまさか、当の松子には気付かれていたなんて。見てたでしょ、なんて素振りはこれまで一度も見せなかっただけにすっかり安心しきっていた。やべえ、今思うとめちゃくちゃ恥ずかしくなってくるぞ。
恐る恐る、メッセージに目を戻す。だがそこに書かれていた内容を知って、俺はさらに言葉を失うほど驚かされてしまったのだった。
『砂岡のことだから、殴り合いの喧嘩にならなくて良かったと思っていることでしょう。ですが一番良かったと思っているのは、他でもない私自身です。砂岡が見ていると思わなかったら、あの時私は本気で取り乱して泣き散らかしていたかもしれません。私は砂岡がいてくれたから、冷静さを保つことができました』
そうだったのか。あいつ、俺に気付いた上でそんな風に考えていたのか。
翌日の合奏ではオーボエもファゴットも綺麗に重なり合っていただけに、松子の中でも何かひとつ踏ん切りがついたのだろう。意図していなかったとはいえその一助になれたのだとしたら、まあ結果オーライってところかな?
『今まで似たようなことも何度かありましたが、この時ほど砂岡が見てくれているから心強いと思ったことはありません。本当にありがとうございます。どうかこれからも、ずっとずっとよろしくお願いします』
「ずっとずっとって、今年でもう引退だぞ」
ひとりでツッコミを入れるが、どうもいつもの鋭さが出てこない。ふざけた振る舞いに本音を隠していることの多いやつだとは思っていたが、まさか俺に対してこうもストレートに感情をぶつけてくるとは想像したこともなかった。
そしてこんなメッセージを渡しておきながら、本日も普段通りのテンションでいっしょにパート練習をこなしていたのが松子のすごいところだ。
いや、ちょっと待てよ。たしか結月ちゃんは俺にこれを渡すとき、家で開けてくださいと言ってたよな。夏休みで校舎内には吹奏楽部員くらいしかいないのだから、お菓子くらいこっそり食べちゃえって流れになっても自然であろうに、まるでそうなるのを予見して防いでいるみたいじゃないか。
もしかしたらあの子は、姉が包装紙にメッセージを残していることに勘付いていたのでは?
「まったく……ホントに意地っ張りな姉妹だよ」
へへへへと妙な笑い声をあげながら、俺はお菓子の箱を開ける。そしてちょっとお高いチョコを一粒つまみ上げると、口の中でゆっくり溶かしながら味わったのだった。




