第二十八章その3 ダブルリードの苦悩
「うーん、これはちょっとどうしようもないですね」
割れたリードを覗き込みながら、手島先生が口を歪める。別の教室で木管低音パートの音合わせを指導している最中だったにもかかわらず、先生は俺からやや遅れて音楽室に駆け付けていた。
「そんなぁ」
結月ちゃんががっくりと肩を落とす。傍らに立つ姉の松子は、丸くなったその背中を優しくさすった。
俺は落ち込む松井姉妹を、練習を中断して集まった他の部員たちといっしょに少し離れた位置から眺めていた。
オーボエやファゴットといったダブルリード奏者にとって、リードの扱いは最も気を遣うところだろう。これら楽器を吹く際に唇を直接触れさせるリードは、伐採から2年かけて乾燥させた葦を加工して作られる。天然の素材を使用しているため、その繊維質や感触はひとつひとつまったく異なるのだ。
店で売られている魚でも一匹一匹大きさや脂のノリが違うのと同じで、まったく同じリードはこの世に2つとて存在せず、吹き心地や使いやすさは千差万別だ。
金管吹きにとっても、使い慣れていないマウスピースでは狙った音が出しにくいということはある。生き物を素材とする木管ならば尚更のことで、加えて定期的に買い替える必要があることを踏まえれば、奏者とリードは一期一会の関係にあると考えてよい。
「他に使えるリードは?」
「3本ありますが、どれもコンクールで使えるほど良いものではありません」
練習レベルならさほど気にならないかもしれないが、コンクールなどの大切な場では最も吹きやすいリードを選んで使うのが一般的だ。特に高いレベルで競い合う者ほど、この微小な違いが大きな差を生み出す。
県大会直前のこのタイミングで使い慣れたリードを失うことは、オーボエ吹きにとって利き腕を負傷したに等しい。
「とりあえず新しいリードを用意するしかありません。今から楽器屋、行けますか? お金足りないならお貸ししますよ」
手島先生の提案に、結月ちゃんは「はい、お金はありますんで、すぐに行きます」と頷いた。
「あ、それなら僕が車で送っていこうか?」
部員たちに混じってふたりのやり取りを聞いていた大久保さんがそっと手を挙げて割り込むと、手島先生が「本当に?」と目を輝かせる。
「ありがとうございます大久保さん、お願いします!」
手島先生が何度も頭を下げるので、大久保さんは「わ、わかりました!」と慌てた様子で返した。結月ちゃんがいなくては自由曲が成り立たないだけに、先生の声からも必死さが伝わってくる。
「じゃあ南草津の店まで行ってくるから、みんなは練習しといてね。松井さん、行こうか」
そう言って大久保さんと結月ちゃんは、いっしょに音楽室を出て行ってしまった。去り際、妹はちらりと振り返ると、不安でつぶされそうな瞳を姉に向けたのだった。
「大丈夫かな?」
ふたりが階段を降りる音が聞こえてきたところで、宮本さんがぼそりと漏らす。途端、音楽室はにわかに部員たちの声に包まれたのだった。
「オーボエのリードって結構高いんだよね?」
「そうそう、この前お店で見たの、1本3000円はしてたよ」
「そんなに? それで口付けるまで相性もわからないなら、マジピンチじゃん」
あちらこちらで不安に駆られる部員たち。
「皆さん、お静かに」
その時、手島先生がぱんぱんと手を叩きながら張り上げたので、俺たちは一斉に口を閉ざして黙り込んでしまった。
「松井さんのことは気になりますが、皆さんも本番に向けて練習をしなくてはなりません。本日は予定通り、これから合奏を行ないます。ですから皆さんは合奏の準備に移ってください」
自らネガティブな感情を増幅させていく生徒たちを戒めるためだろう、先生の語調はいつもより強く感じた。
そこからしばらくして、俺たちは合奏の練習に取り掛かった。ソロを吹くオーボエがいないので課題曲『エアーズ』が中心だが、やはり主力が1人でもいなくなるとまるでサウンドから魂が抜かれてしまったようにすら感じる。
ほどなくして、大久保さんと結月ちゃんが帰ってきた。
「買えました?」
部室に入ってきた結月ちゃんに手島先生が尋ねる。
「はい、とりあえず2つ」
楽器店の小袋を見せつける結月ちゃん。先生は「良かったです」と安堵の息を吐いたものの、すぐさま指示を出す。
「では早速、吹き心地確かめてきてください。それが終わったらすぐ、合奏に加わってください」
その後しばらく別室で調整を終えてから、結月ちゃんは合奏に合流した。やはり我が部の天才エース、彼女が加わればサウンドに色気が出て一気に表現力が高まる。
しかし新品のリードをまだ使い慣れていないためか、オーボエの音は安定感が今ひとつで、度々ピッチがずれたり、こもった音が出てしまったりと結月ちゃんらしくないミスが起こっていた。先ほどの練習中に聞こえていた演奏とは、まるで別人が吹いているようだ。
やがて陽が傾き、合奏も終了する。
この日の練習を終えた部員たちが各々で楽器を片付けている最中、突如部室の扉がガラッと開かれる。
「結月、まだいるか!?」
そして血相を変えたオーボエ奏者の水上さんが飛び込んできたのを見て、部員たちはぽかんと固まるのだった。その手にはなぜか、メタリックな工具箱が引っ提げられていた。
「手島から聞いたぞ、一番良いリード壊れたんだってな?」
そう話しながら部員たちをかき分け、ずんずんと結月ちゃんの元まで進む水上さん。今日は来る予定が無く終日オフの予定だったのだろうか、乱れた金髪もいつも以上に跳ね上がっている。
「新しく買ったリード、吹きやすいか?」
「正直……ハズレです」
水島さんの問いかけに、結月ちゃんは俯いて答える。
「だろうな、ぴったりはまるのなんて10本に1本あれば良い方だ。これは教えるにはまだ早いかなと思っていたんだけど、もう時間が無いからしゃーない。ほら、これ見ろ」
水上さんは工具箱を床に置き、その蓋を外す。その中にはペンチ、折りたたみナイフ、そして万力のような見慣れない機械と、女性が持ち歩くにはいささか怪しすぎる品々が押し込められていた。
「リードを作る道具だ。どこまで行けるかわからないけど、モノが無いなら作るぞ」




