第二十八章その2 『焼きそばパーン』全国共通説
久々の半日休みの翌日、腑抜けモードから本気モードへとスイッチを入れ直した俺たち吹奏楽部員は、県大会に向けてこれまで以上に熱心に曲を吹き込んでいた。
1年学年室に集まったユーフォ、チューバ、弦バスら低音組も、音の重なり合いを徹底的に修正を図る。去年はそれぞれ1台ずつしかいなかったたものの、今は人数が倍に増えた上に1年生もすっかり演奏に慣れてしまったので、サウンドは比べ物にならないほど厚みを増していた。
そんな俺たちの前に立ってタクトを振りながら課題曲『エアーズ』の指導に当たるのはユーフォ奏者の大久保さんだ。
「ここは曲の最後に向かって一番盛り上がるところだから、ユーフォはもっと力強く。なんというかこう、『焼きそばパーン』って感じで」
音の質を高めるため、多少大げさにジェスチャーを加えながら明確な曲のイメージの共有を図る大久保さん。この日は日曜日なので、仕事が休みだからとわざわざ来てくださったのだ。
というかやっぱり、この部分は大久保さんにも『焼きそばパーン』て聞こえるのか。うちの部でも最初に誰が言い出したのやら、この曲の練習を始めて1週間後くらいには部全体で『焼きそばパーン』の呼び方が広まっていたんだよな。
「そうそう、良い感じ。これは県大会も期待していいよね!」
何回か同じ部分を繰り返し、俺たち自身も会心の出来と言えるほどうまく音が重なった後で、部屋にいた全員がしたり顔の笑みを浮かべる。
一昨日の地区予選は金曜だったため、大久保さんは仕事の関係で見に来られなかったらしい。こういう話聞くと、社会人って俺たち学生とは違って夏休みなんて無いんだなってことをつくづく実感するよ。いつか俺もこうなるのなら、せめて今の内は思いきり部活やれるだけやっとこ。
その後、少し疲れただろうと大久保さんは俺たちに10分間の休憩を取るよう指示をした。1日練習の長丁場、無駄に体力を使わないためにもこの間は楽器を鳴らさず、しっかり身体を休めなさいというのが大久保流だ。
トイレに向かうため、楽器を置いた俺が教室を出て、廊下を歩いている時のことだった。ちょうど手前に差し掛かった教室の扉が開き、徳森さんや江口さんら数名がぞろぞろと部屋から現れたのだ。おそらく目的地はトイレだろう、全員一塊になって同じ方向に歩き去っていく。
そういえばこの部屋では、ホルンとトランペットが音合わせをしているんだったかな?
何気なく、開けっ放しになった教室をふと覗き込む。直後、俺は部屋の中に佇む懐かしい顔を見て、嬉しさに「あ!」と声を漏らしたのだった。
「あら、砂岡」
教室の中で楽譜を広げて椅子に座り込んでいた私服姿の女子がこちらに気付く。この3月に卒業した、ホルンのぽっちゃり先輩だった。
「ええ、すぐパート練だったんで、声かける暇無かったんですよ。練習見に来てくださって、ありがとうございます!」
トイレに行くことも忘れ、俺はずんずんと教室の中に進入する。そんな俺に向かって、先輩は「気にするな」と手を振った。
「いいのいいの、好きで来てるんだし。藤田や筒井も県大会で見に来れないし、それにカサキタのみんなに直接おめでとう言いたいからね。Aの部で金賞なんて、去年までじゃ絶対考え付きもしなかった快挙だもんさ」
実は昨日、守山市民ホールでは高校の地区予選が開かれていた。先輩の所属する吹奏楽部はAの部で出場したものの、結果は銀賞、つまり県大会出場には惜しくも届かなかったのだ。
先輩にとっては不本意な結果だっただろう。しかしブルーになって落ち込んでいてもおかしくないところ、ぽっちゃり先輩はカサキタが県大会に進むと知って居ても立ってもいられず、早速練習を見に来てくれたのだった。
「たとえ私らが行けなくてもね、あんたたちが関西まで行ってくれたらそりゃ嬉しいもんだよ。自分の子供が活躍してくれた時の嬉しさに似てるかな、知らないけど」
知らへんのかい、と関西人に突っ込むのはナンセンスだな。
「県大会は私も見に行くよ。他の子にも声かけてみんなで応援行くから、ぴしっと演奏しなさいよ」
「わかってますって」
「ところで……この聴こえてるオーボエ、ものすごく上手いじゃないの。これが噂に聞いていた、松井家の次女?」
ぽっちゃり先輩がそっと目を瞑り、夏の校舎に響く音色に耳を傾ける。先ほどからずっと聴こえている、鳥の歌声にも似たオーボエの高音。その無意識の内に聞き惚れてしまう音は、音楽室の方から鳴らされていた。
「はい、その次女です。きらめき賞も取りましたし、うちのオーボエはどこにも負けません」
天性の音楽的センスに加え、高い集中力による密度の高い練習。このふたつが合わさることで、結月ちゃんの中学生離れした演奏は実現しているのがよくわかる。この子ならきっと、県大会でも安心だろう。
だが、忘れてはいけない。俺は「ですが先輩」と、改めてぽっちゃり先輩に話しかけた。
「凄いのは次女だけじゃありません。長女の方も、負けないくらいに凄いんですよ」
「知ってる知ってる、あの子には数え切れないくらい助けてもらってるから」
何を今さらと言いたげに、ぽっちゃり先輩は笑い飛ばす。
「ですよねー」
先輩と同じように、俺も表情を崩して笑い飛ばす。どういうわけか、胸の内は妙な安心感で満たされていた。
しかしその時だった。開けっ放しにしていた窓から突如、どうっと強い風が吹き込み、教室のカーテンが大きく跳ね上がる。
「うわ!」
本当にいきなりのことだったので、俺も先輩もとっさに身を丸めてしまった。ほぼ同時に、机の上に置かれていた楽譜がバサバサと宙を舞い、鉄製の譜面台がガシャーンと倒れる音が耳に入った。
やがて風も弱まり、俺たちは恐る恐る目を開き、そして愕然とする。今のほんの短い間で、教室の床はあちこちに楽譜が散乱してしまうものに変わり果てていた。
「ひっでえ風」
「夏の天気は変わりやすいからねぇ。うちのお婆ちゃん、外に干してたパンツが飛んでったことあるよ」
ため息とともに先輩が言ってのける。絶対に想像したくない光景だな。
にしても強い風だったなぁ。もしかしたら学年室にある俺の譜面台も、倒されてしまっているかもしれな……。
「ああああああああああ!!!!」
それはあまりにも突然のことだった。空間を切り裂くような大絶叫に、俺たちはびくっと驚き跳び上がってしまった。
女子の声だ。部員の誰かか!?
ただならぬ様子に、俺は慌てて廊下に飛び出す。
「今の、結月!?」
その時、学年室から出てきた松子が、声のした方向へとまっすぐ走っていくのが目に映った。あんな何者かわからない叫び声でも、自分の妹のものだと判断がついたのはさすがは姉といったところか。
て、感心している場合じゃない!
俺は廊下を駆ける松子を追いかけながら、木管パートが練習している音楽室へと飛び込んだ。
「結月!」
音楽室の扉を開くや否や、妹を呼ぶ松子。ちょうどクラリネット、フルートと音合わせをしていたのだろう、10台ほど並べられていた譜面台はことごとく倒され、室内の床には楽譜や教本がばらばらと散らばっていた。
「お、お姉ちゃん……!」
そんな惨状の中で椅子から立ち上がっていた結月ちゃんは、今にも泣き出しそうな顔でわなわなと震えていた。
普段何事にもまるで動じない彼女とは思えない取り乱し様だ。クラリネットやフルートの子らも、何が起こったのか理解が追い付かないようでぽかーんと口を開いたまま固まっている。
「リードが……!」
声を裏返しながら、ゆっくりと手を突き出す。そこにはオーボエの吹き口に取り付ける、木製のダブルリードが握られていた。
「一番良いやつなのに……」
見るなり松子は「あちゃー」と額に手を置いて顔を歪めた。
オーボエ奏者にとって相棒とも言えるダブルリード。それが今、結月ちゃんの手の中で、ぱっきりと裂けるように割れていたのだった。




