第二十七章その4 今夜はお楽しみですね
廿日山の演奏に刺激を受けたカサキタの37名は、その後の練習にもより一層真剣に取り組んでいた。ユーフォとトロンボーンなど音域の近いパート、よく似た動きをするパート同士が積極的に集まり、ピッチの調節や音量のバランス、緩急の付け方など楽譜に記されている以上のことを徹底的に研鑽する。このように時間を気にせず、とことん根詰めて練習できるのは合宿ならではだろう。
だがそれは廿日山も同様のようだ。遠くから時折聞こえてくる楽器の音色は明らかに大きくなり、これまで以上に練習に熱を入れていることがこの場所からでも窺える。
そしてとうとう太陽が沈み、カサキタ吹奏楽部は2日目の夜を迎えた。今日の夕食はお待ちかねの合宿名物、湖畔でのバーベキューだ。
夜練まであった昨日とは違い、今日はもう練習は無い。明日の午前中に最後の練習を終えて、この合宿所を出発することになる。この時間だけは練習漬けの合宿で唯一、無礼講の許される貴重な時間だった。
並べられたバーベキューコンロに部員たちが群がる。そしてアツアツの肉と野菜の刺された串を手に取って「うまーい!」と頬張る姿を、俺とたくちゃん、ハッタヤの男子3人組は怪訝な目で眺めていた。
「てかさ、あんだけ散々、ゴミを見るみたいな目を俺たちに向けておいてさ」
「みーんな水着、持ってきてんじゃねえか!」
俺とたくちゃんはシンクロして口を尖らせる。
そう、きゃっきゃとバーベキューを満喫する女性陣は、ほぼ全員が水着に着替えていたのだ。
セパレートタイプでボディラインをアピールしたものから、ズボンやスカート状のフリルで露出を抑えたデザイン、さらには水泳の授業でも使っているスクール水着までその種類は様々だが、陽の沈んだ湖畔には水着姿の吹奏楽部員が楽しげに集まっておしゃべりを楽しんだり、琵琶湖に足をつけて水をかけ合ったりしている。
この時間だと水着だけでは少し寒いのでTシャツやパーカーを上に着ている子がほとんどだが、合宿所の灯りに照らされて浮かび上がる白い生足には、ついつい視線を釘付けにされてしまう。かく言う俺たち男子ーズも全員が海パンにTシャツで、いつ水に入ってもかまわない状態を整えていた。
「いやあ、去年の砂岡っち気持ちよさそうだったからさ。せっかく水着持ってるんだし、使わないともったいないよなって」
そう話しながら工藤さんは羽織っていたパーカーをわざとらしくはだけさせ、緑やらピンクやらカラフルな花柄模様のビキニスタイルの水着を見せつけてくるので、男子諸君は一様に目玉を飛び出させながらぐぐぐぐっと上体を前に突き出さざるを得なかった。
「それにあの時は下心見え見えだった先輩たちが悪いです」
隣から投げかけられる古川さんの一言が、鋭利なナイフになって俺たちの胸にグサッと突き刺さる。とはいえ彼女自身も、Tシャツに隠れているとはいえ下にスクール水着を着ているようで、すっと細いスレンダーな四肢を晒していた。
「砂岡くん、お肉焼けたよー」
ちょうどバーベキューコンロの前でいっぺんに数本の串を手に取っていた宮本さんが俺を呼んだので、俺は古川さんの痛い視線から逃れるべく「おーう今いくー」と急ぎ足で駆け寄った。
「はい、どうぞ」
そう言って串を差し出す宮本さんは、あちこちを白いフリルで飾った、セパレートタイプの水着を着用していた。小柄であることを逆手に取った、可愛らしさを前面に押し出したデザインだ。
「あ、ありがと」
肉を受け取る俺に、宮本さんがにこりと笑いかける。うん、やっぱかわいい! この子の水着姿を見られただけで、吹奏楽やってきて良かったって思えるよ!
「先ぱーい、このお肉、もらっちゃいますよぉ?」
その時、ぱちぱちと火の粉を飛ばす網の上に、ぐいっと誰かが身を乗り出して並べられた串をひょいひょいとつかみ上げた。トロンボーン2年の宇多さんだ。
宇多さんの着ている水着は白一色の飾り気のないビキニスタイルと、工藤さんや宮本さんに比べるとかなりシンプルなものだが……すげえ、少し屈んだ姿勢になるだけで、まるで木になったリンゴの果実みたいに揺れてるぞ!
「おう持ってけ、たくさん食え!」
ほんで是非とも、もっともっとでかくなってくれ!
マジで今宵は天国だ。コンクールを迎える前に俺、このまま天に召されてしまうかもしれない。
「てっしー、冷たい!」
「あはははは!」
「徳ちゃんってばムキになりすぎだよ」
そして俺が肉と野菜と水着を堪能する中、湖に足をつけて互いに水をかけ合うのは水着姿の徳森さんに松井姉妹だ。そして顧問の手島先生も、彼女らに混じっていっしょになってはしゃいでいた。
さすがに水着までは持ってきていないようで、先生は上下ともに阪神タイガースのユニフォームを模した半ズボンとTシャツを着ていた。背番号は54、ジェフ・ウィリアムズだね。そういえば来月から始まるアテネ五輪で、オーストラリア代表として出場するんだったかな、彼?
「あんだよー、こういう機会あるなら私も水着くらい持ってくりゃ良かったじゃねーか」
いつの間にやら湖畔で戯れる一行を眺めていた俺の隣に立っていた水上さんが、つまらなさそうに声をあげた。その右手にはワンカップ大関が握られている。おいおい、いくら無礼講でも中学生の前で飲酒するなよ……。
「手島も意地悪なヤツだな、お楽しみタイムでは泳げますよって教えてくれても良かったのに」
「手島先生も水着持ってきていないようですし、生徒が水着持ってくるとは考えていなかったんじゃないでしょうか?」
「お、砂岡くん、もしかして手島の水着に興味津々かな?」
こちらのツッコミに素早く反応した水上さんは、にたにたと下品に目を光らせる。下手に取り繕っても弄られるだけなので、俺は「否定はしません」と正直に答えた。
「だよなー、手島可愛いもんなー。ヘンな虫寄ってきたら全力で振り払ってやりたい気分だよ、手島は渡さんぞーって」
冗談なのか本気なのか、水上さんはいっしっしと笑いながら空いた左手でシュッシュとジャブを放つ。
「実は私、手島とは中学からの付き合いなんだ。同じ吹奏楽部であいつがクラで私がオーボエで、木管の番張ってたんだよ。まさか高校も同じになるとは思ってなかったけどさ」
そして部員たちといっしょに水遊びに興じる手島先生を改めて見つめると、水上さんはふうと静かに息を吐いたのだった。俺はその話に、黙って耳を傾けていた。
「中学でも高校でも、手島はずっと誰よりも上手かったよ。だから音大に推薦で入った時には、これはもうプロの演奏家になるんだろうなってみんな信じて疑わなかったんだ。だから正直驚いているよ、言っちゃなんだけど音楽の教師になったのかって。てっきりプロになってクラリネット吹いてるだろうなって思ってたからさ」
「そうだったのですか」
いつも優しく笑っている手島先生も、俺たちが知らないだけできっと大変な過去を抱えているのだろう。
「ここからはあくまで私の想像だけど、大学に入って手島は演奏家としての限界を感じたんだろうな。だから吹奏楽部の顧問になって、自分が叶えられなかった夢を教え子たちに託しているんだよ、きっと」
「叶えられなかった夢?」
「私らの高校、当時は滋賀県でも結構強い方だったんだよ、3年連続で関西まで行ったりしてさ。けど結局、全国には1度も進めなかったんだよなぁ」
なるほどね。俺は再び波打ち際の一団に目を向ける。
さすがに夜の水辺は応えたのか、結月ちゃんが「ちょっと寒い」とぶるると身を震わせていると、松子が駆け寄って「大丈夫?」と手を引いて陸に上げる。そしてベンチの上に置かれていたバスタオルを広げると、妹の身体をふわっと包み込んだのだった。
そんな姉妹のやり取りを見て、水上さんはふふっと心底安堵したように頬を緩ませていた。
「結月にオーボエをやらせたのも、きっと今のメンバーなら上の大会が狙えるって思ってのことだろうな。あのふたりの間にはずっと不思議な距離があるなって思ってたんだけど、この合宿でぐっと縮まったみたいで良かったよ。だから砂岡」
突如、水上さんは語気を強めてこちらに顔を向けた。その声には有無を言わさぬ真剣さが宿っていた。
「中学生にこんなこと言うなんて大人としてどうかと思うけど、絶対に関西まで行って、手島の夢を叶えてあげてくれ。私からの頼みだ」
バーベキューコンロの炎が反射して、水上さんの黒い瞳がゆらゆらと揺れる。そのまっすぐな瞳を見せられてしまうと、俺は「わかりました」と頷き返すしかなかった。
「おおーい、砂岡ー!」
その直後、波打ち際から気の抜けるような声で松子が俺を呼んだ。
俺は「どしたー?」と返しながら、何ら疑問を抱かずに近付く。
「ほれ!」
だがその時のことだった。松子は手に持っていた何かを、俺の顔めがけて投げつけてきたのだ。
「うわへっ! な、何じゃこりゃ!?」
べちゃっと顔にへばりついたそれを、俺は慌てて振り払う。どうやらどこかから流れ着いてきた水草のようだ。
「あははははは!」
俺の取り乱し様を見て、腹を抱えて爆笑する松子。徳森さんもいっしょになって「砂岡、最高!」と親指を立てる。
「こんチクショウ、仕返し!」
そっちがその気なら容赦せん!
俺はすかさず、浜辺に打ち上げられていた葦の茎を拾い上げる。そして軽く2メートルはあろうそれで、無防備な松子の首筋めがけてつんつんと突っついたのだった。
「わ、砂岡、何するのさ!」
葦の先端が触れた首筋を、慌てて手で押さえて身をよじらせる松子。今の不意打ちはなかなか効いたらしく、ばしゃっと水飛沫を立てて飛び退いている。
だが俺は追撃を止めなかった。
「はっはっは、血ぃ吸うたろか~!」
「うわー、砂岡がいつにも増して気色悪いー!」
波打ち際を逃げる松子と、それを追いかける俺。傍から見ればまぁた低音のアホどもがアホしてるよとしか思えないだろう。
「お姉ちゃーん」
そこに合宿所の建物の中から戻ってきた結月ちゃんが声をかける。身体を温めてきたのだろう、妹は長袖のパーカーを羽織り、ほかほかと湯気を立てる湯呑を両手にひとつずつ持っていた。
「ん、ふたりで何してんの?」
そして俺たちの姿を見るなり、きょとんと眼を丸めたのだった。たしかに長い葦の茎を持って姉を追いかける男子なんて目の当たりにすれば、何事かと不安にも思うだろう。
だが彼女の思考回路は、俺たちの想定をはるかに超えていた。
「SMプレイ?」
「「んなわけねーだろ!」」
さらっと結月ちゃんの口から飛び出すとんでもワード。俺と松子は全力でそれを否定した。




