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第二十七章その2 姉妹

 今年は去年よりも合宿が1日少ない分、夕飯後にも練習がある。この練習が終わるのは夜9時過ぎだ。


「それでは自由曲、最初から合わせていきましょうか」


 先生が指示を出すと、部員たちは素早く楽器をかまえる。夕食を兼ねた休憩のおかげで多少は回復しているものの、一日かけて疲労の蓄積した身体はそう簡単に休まるものではない。この時間になると不満の顔を浮かべることすら余計な体力を使うように思え、生徒たちは先生に従って黙々と演奏を続けていた。


 繊細で優美な旋律の課題曲とは打って変わり、自由曲『伝説のアイルランド』は曲が始まってすぐに重厚な金管の響きが待っている。その際にはチャイムの音に合わせ、パーカッション奏者がつなげた鎖を持ち上げては落とすを繰り返す。これは連行される奴隷の足音を再現しており、アイルランドの歩んだ激動の歴史を端的に表しているそうだ。


 そんなドラマチックな冒頭部を終えると、地響きを思わせるトムトムの打音とともに、伝統民謡をモチーフとした主旋律をオーボエがソロで奏で始める。ここはメロディーに追従するフルート、そして裏メロを奏でるファゴットとの掛け合いが見せ所で、どんな風に曲が盛り上がっていくのかと聴く者の期待を煽る構成になっている。


 結月ちゃんのオーボエはやはりお見事というほか無かった。楽器を始めてわずか3カ月ちょっとで、ここまで明朗かつ情緒豊かに演奏できる子は世界広しと言えどそう何人もいるまい。彼女にとってダブルリードは、自ら感じたまま思うがままに歌える口であり喉そのものになっていた。


 独特な音色で艶っぽく歌うオーボエを盛り立てるべく、ひとりまたひとりとパートが加わっていく。そしてついに、松子のファゴットが合流する小節を迎えた時のことだった。


「ん?」


 休符とはいえ、合奏中にもかかわらず俺は小さく声を漏らす。見ると水上さんは腕を組んだままはっと顔を上げ、手島先生もタクトを振り続けながらあっと口を開いて目を驚かせていた。


 オーボエとファゴット、夕食前に聴いた時にはアンバランスに思えた二つの音色が重なり合い、高音と低音がきれいにそろっていたのだ。全体で見ればサウンドがきれいにまとまって、夕食前よりも耳触りが良くなった印象を受ける。


 だが、これは決して松子が上手くなったからではない。あんなに優雅で官能的とも思えたオーボエの音色が、丁寧と言えど淡白でやや味気の無いものに変わっている。つまりは姉のファゴットに合わせて、結月ちゃんがオーボエの表現を抑えていたのだ。


 オーボエとファゴットの重なり合いが終わってしばらく経ったところで、先生はタクトを止める。そして隣に立つ水上さんにちらりと目を遣ると、ふたりそろって困惑の相を見せ合っていた。


「うん、すごく良い。けど、なぁ……」


 頭を抱え込む水上さん。何と言えば良いのやら、適当な言葉が浮かんでこないようだ。そして数秒間悩んだ末に、「……うん、ふたりともうまくできてるぞ!」とわざとらしく頷いて言い放ったのだった。


「どうも」


 相変わらずのぺーっと何を考えているのか、能面のように眉ひとつ動かさずに答える結月ちゃん。一方の姉は苦虫を嚙み潰したように顔を歪め、これまで一度も見せたことの無いほど感情を露わにしながら妹を睨みつけていた。





「結月」


 入浴時間が終わり、各自が部屋やロビーでくつろいでいた時だった。食堂でくつろぎながら風呂上がりの麦茶を飲んでいた結月ちゃんに、姉の松子が声をかけてきたのだ。


 いつもの気の抜けそうな話し方は完全になりを潜めており、目つきも相手を睨みつけているかのように鋭いものになっている。


「ちょっとこっち来て」


 そして松子は妹の手を引いて食堂から連れ出すと、そのまま玄関から外に出てしまった。すでに夜も11時近く、消灯まであと少しだというのに。


 ちょうど合宿所のオーナーのコレクションであろう食堂の本棚の漫画を読んでいた俺は、そんな松井姉妹のやり取りを目撃するなり本を元の位置に返す。そして足音を立てないよう慎重に、かつ素早くふたりを追って外に出たのだった。


 この時間だと車が通る数は少ないものの、表玄関側は街灯のおかげで懐中電灯が無くても安心して歩きまわれるほどの明るさがある。


 さて、ふたりはどこだ? そっと玄関の戸を閉めてきょろきょろと首を動かしたところで、建物の裏手から「バカにしないでよ!」と大きな声が突然聞こえ、俺の心臓はわっと跳ね上がってしまった。


 暗闇の中でもびりびりと伝わる、凄まじい剣幕。建物の陰から恐る恐る裏庭を覗くと、波の打ち寄せる夜の浜辺に、ふたつの人影が星明りに照らされながら向かい合っていたのだ。


 ひとりは背が高く、もうひとりはだいぶ小さい。松子と結月ちゃん、松井姉妹だった。


「あんた、あんな手の抜いた演奏するなんて、何考えているのさ!?」


 鬼気迫る様子で妹に詰め寄る松子。今にも殴りかかりたい気持ちを、必死で我慢しているようだ。


「周りのバランスを考えて、ああ吹くのが一番かなって」


 しかし感情的にまくしたてる松子とは対照的に、結月ちゃんは悪びれもせずしれっと答える。だがこの態度がより一層、姉を刺激してしまったようだ。


「そんな気遣い、いらないよ! あんたのオーボエがもっと凄いってことくらい、イヤになるほどわかってる。それをこれ見よがしに……ウチをバカにするのも大概にしてよね!?」


 松子の声は、今にも泣き出してしまいそうなほど震えていた。


 だが今回の件に関しては、個人的にはあいつの方に同情してしまうのも無理はない。いくらアンバランスな音色を解消するためとはいえ、意図的に手を抜かれたと思うと松子にとってはプライドを踏みにじられたも同然だ。それも相手は、自分の妹だ。


「じゃあお姉ちゃん、上手くなってよ」


 しかし激情に駆られる姉とはまるで違い、妹は微動だにしていなかった。妹からの思わぬ反論に、姉は目をこすりながら口を閉ざす。


「私はひとりで楽器吹いて気持ち良くなっているんじゃないよ。どうすればコンクールで良い賞が取れるかって、自分なりに真剣に考えているんだよ。カサキタ全体で最高の音楽に仕上げるため、状況によって演奏を変えるのはそんなに悪いことなの?」


「そ、それは……」


 ここで松子は口を噤んだ。悔しさにぐうの音も出ない、まさにそんな状況だった。


「だからお姉ちゃんには、まず私が本気出してもいいって思えるくらいには上手く吹いてもらわないと。じゃないと私、いつまでも合奏で全力出せないままだよ」


「あったり前だよ、舐めてんじゃないよ!」


 そして最後にそう吐き捨てると、松子はずかずかと地面を蹴りながら妹の元を離れたのだった。俺は慌てて建物の反対側まで駆け込み、建物の陰にべったりと背中を貼り付けて身を隠す。


 やがて玄関を開閉する音が2回聞こえると、それからしばらくの間、周囲はざあざあと波の音だけに包まれていた。ようやく手足を動かして浜辺や玄関に目を向けた頃には、姉妹の姿はすっかり消えていた。ふたりとも宿の中に戻ったようだ。


 あんな松井姉妹、初めて見たよ。俺はまだドクドクと脈打つ胸に手を当て、ふうっと息を吐き出しながら平静を取り戻していた。


「やっぱあのふたり、ああなっちまったな」


 だが次の瞬間、俺の心臓は再び口から飛び出さんばかりに跳ね上がった。振り向くと、なんと夜の闇に紛れてジャージ姿の水上さんがタバコを吹かしながら立っていたのだった。


「ど、どうしたんですかこんなところで!?」


「見りゃわかるだろ、ニコチン補給してんだよ」


 まあ、そりゃそうなんですけども……。


「さっきの、どこから見てました?」


「全部だよ。いやぁ、ここでタバコ吸ってたらいきなりふたりがシリアスな顔して玄関から出てきて、その後に砂岡も出てくるんだからさ。声かけるのも野暮かなって思って、黙って見てたんだよ」


 水上さんはそう話しながら再びタバコを咥える。闇の中、タバコの赤い炎が一際明るく浮かび上がり、幻想的に輝いていた。


「にしてもさすがは姉妹だよ、互いに想いをぶつけ合いながら、落としどころを見つけている。私らが口出ししなくても、ふたりでベストな解決策を導き出してくれたんだな」


「そう……ですかねえ?」


 満足気に笑う水上さんに、要領を得られない俺はそう返すしかない。


「ああいうの見てると昔のこと思い出すよ。吹奏楽部ってどこも人数多いから、何でもかんでも上手く事が進むってまず無くて、すーぐくだらないことで揉めてばっかでさ。吹奏楽って野球とかテニスみたいにはっきりと対戦相手がいるわけじゃないから、結局は内部のゴタゴタが一番の敵になっちまうんだよな」


 タバコを口から離した水上さんは、星空を見上げながらしみじみと話す。


「水上さんも同じような経験をされたことがあるんですか?」


「そりゃ色々あったよ、私はあんたより10年以上長く生きてるんだからさ。手島だってきっと同じだよ」


「手島先生が?」


「ああ、あいつも色々あったからね。今はあんなんだけど、昔はもっとはっちゃけた性格してたからさ」


「へえ、どんな感じだったんですか?」


 手島先生の学生時代の姿を想像しながら、俺は水上さんに尋ねる。だが水上さんは何も答えず、黙ったまま再びタバコを唇に咥えると、すうっと大きく息を吸い込むばかりだ。


「ところで砂岡、いつまでこんなところにいるんだ? 明日は他校に聴かせるんだろ? 消灯も近いし、さっさと寝た方がいいぞ」


 しまいには白い煙を吐き出しながら俺の背中をぺしぺしと叩く始末で、俺はヤニ臭さにたまらず退散してしまったのだった。どうやら期待だけさせておきながら、何があっても話さないつもりらしい。

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