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第二十七章その1 湖畔のお宿、再び!

 コンクールの練習と期末テストに追われていると、1学期なんて本当にあっという間だった。気が付けばカレンダーは7月のページがめくられ、空を見上げれば巨大な入道雲が天のさらにはるか高くまで聳え立っている。


 そして夏休み直前の3連休初日のこと。朝早くから学校に集まった吹奏楽部員は、それぞれ大きめのスポーツバッグや旅行鞄を貸切バスのトランクルームに積み込んで座席に腰かける。


 やがて発進したバスは琵琶湖大橋を渡り、琵琶湖西岸のリゾート地である和邇わにへと移動したのだった。


「また帰ってきたぜ、合宿所」


 バスを降りた俺はずしりと重みのあるリュックを背負い、去年とまったく変わり映えの無い、昔ながらの無機質な外観の合宿所を眺めた。心なしか看板の錆が余計にひどくなっている気がする。


 すぐ近くでちゃぷんちゃぷんとさざ波の立つ音が聞こえる。湖から涼しげな風が吹いているためか、気温の高さの割に暑さはさほど感じなかった。


「おいおい、予定よりちょっと遅いぞー」


 バスからぞろぞろと部員たちが降車する最中、合宿所の玄関が開いたと思ったら、よく知った顔がひょいっと現れる。


「ごめんね、琵琶湖大橋入るところが混んでて」


 手島先生がフランクな口調で返す相手は、建物から出てきたばかりの水上さんだ。彼女は俺たちよりも先に、自家用車でここまで来てくれていた。


 水上さんはこの3日間、手島先生といっしょにずっと俺たちの練習を見てくれることになっている。お仕事も忙しいのにせっかくの3連休を練習に費やしてくださって、本当にありがとうございます!


 トラックから楽器を下ろし、毛布を敷き詰めた大広間で合奏の隊形を整えると、早速練習に取り掛かる。


「ではいつも通り、まずは課題曲から合わせていきましょう」


 手島先生がタクトを振って、その脇で水上さんが腕を組んで演奏を聞く。真夏でも薄手のブラウスできちんと身なりを整えている手島先生の隣に、短パンにTシャツという超軽装の水上さんが並ぶと、とてもこのふたりが同じ吹奏楽部の出身だったとは思えないな。


 今日は時間に余裕がある分、普段よりもみっちり、細かい箇所まで念を入れて音合わせに心血を注ぐ。この頃になると部員全員、譜面を見ずとも指が勝手に動くほどまで暗譜できていた。極限まで高められた個人の演奏を結集させてひとつの曲に仕上げるには、全体で合わせるのが最善にして唯一の手だ。


「うーん、なんとかなってるっちゃあなってるんだけども……やっぱりぎこちなさが目立つな」


 ぶっ通しで合奏を続けた夕方、手島先生が演奏を止めると同時に、水上さんが頭を掻きながら苦言を漏らす。問題はやはり『伝説のアイルランド』序盤のオーボエとファゴットの掛け合いだった。


「ファゴット、指も回せてるし音も出せている。地区予選なら十分戦えるレベルだ。けど楽譜通りきっちり吹いているだけで、どうも単調に思えてくるんだよ」


 水上さんからの指摘を受けて、松子は「うう、頑張りますぅ」と苦笑いを浮かべた。


 急ごしらえにもかかわらず、松子のファゴットの演奏は本職の奏者にも引けをとらないほどまで上達していた。これはひとえに松子自身の不断の努力の賜物だろう。


 だが丁寧に吹こうという意識が先走ってしまうのか、勢いや抑揚といった表現面はまだまだで、悪く言えば単にファゴットの音を鳴らしているだけに聞こえてしまうのが目下の課題だった。


 一方の結月ちゃんのオーボエは、すでに楽器に触れて何十年も吹いている大人が演奏しているのではないかと疑ってしまうほどの腕前にまで高められていた。一音一音に想いがこもっているうように、しっとりとした色っぽささえ感じてしまうその音色には、人生の酸いも甘いも経験してきたのかと思う味わいがあった。


 そんな並外れた表現力を備えているだけに、このふたつの音が同時に奏でられると、ファゴットの方がどうしても無味乾燥に感じられてしまう。


 松子も弦バスやピアノなら生き生きとした低音を響かせているだけに、ポテンシャル自体に間違いはない。今一番必要なのは、ファゴットを感情の赴くまま自由自在に演奏できるだけの経験と時間だった。


「まあコンクールまではまだある。じっくり焦らず、ひとつずつクリアしていこうな!」


 それがわかっているだけに、水上さんも松子に対してはポジティブな言葉をかけ続けるしかなかった。オーボエが上手すぎるので霞んでしまうが、ファゴットも中学レベルで考えれば十二分に高い位置まで達しているのだ。


「では時間ですので、一旦ここで切り上げましょう。夕食後も練習ありますので、ここに戻ってきてください」


 手島先生の号令と同時に、部員たちはようやく「ああ疲れたー」と肩の力を抜き、パイプ椅子にだらんともたれかかる。そして各々大広間に楽器を置いたまま、食堂へと向かったのだった。


 合宿1日目、くたくたになった部員を出迎えた夕飯はアツアツのカレーだった。山盛りのご飯にルーがぶちまけられ、鼻腔をつーんと刺激するスパイスの香りが周囲に漂う。大皿を両手で持っている今もヨダレがだらだらと出てきそうになるのは、カレーの味を覚えた人類なら皆共通だろう。


 俺はほかほかと湯気を立てるカレーライスを手に持ったまま、カウンター前でキョロキョロと食堂を見回す。40人以上収容可能な食堂の椅子は、すでにカサキタ吹奏楽部員で埋め尽くされていた。


 大広間を出る前に今後の練習について先生と話していたら、俺ひとりだけ夕飯に遅れてしまっていた。みんなすっかり仲良し同士で固まって話に花を咲かせており、とても今から割り込める雰囲気ではない。


 仕方ない、夜練習もあるしさっさと食べよう。食堂の隅っこのぽつんと離れた位置に誰も使っていない小さな机を見つけた俺は、まっすぐそこに向かう。そして椅子に腰掛けると、改めてカレーの大皿を前にして「いただきます」と手を合わせたのだった。


「おう、邪魔するぞ」


 スプーンを手に取って、ライスの山を切り崩そうとしたその時だった。なんと向かいの席に、同じく山盛りのカレーライスを手にした水上さんがどさっと腰を下ろしてきたのだ。


 いきなりのことだったので、俺はついぽかんと口を開いたまま水上さんに顔を向ける。その際、俺と水上さんの視線が交わってしまった。


「えっと、たしかユーフォの?」


「あ、はい砂岡です」


 俺は頷いて答えた。そういえばこのふたりだけで会話したことって、今まで一度も無かったよな。水上さんの指導対象は専ら木管なので、ユーフォの俺とは接点がほとんど無い。


「ああ、そうだそうだ。カサキタのユーフォはよく聞こえるなぁってつくづく思ってたよ。ところで砂岡」


 スプーンを口に運びながら何気ない様子で尋ねる水上さんに、俺はカレーを頬張りながら「はい?」と声を返す。


「砂岡チョイスで一番可愛いと思うの、どの子よ?」


「ぶふっ!」


 危うくカレーが気管に詰まってしまうところだった。ゴホゴホと咳き込みながら、口に手を当てて米粒が飛び散るのを防ぐ。


「ず、随分とストレートに訊いてくるんですね」


「そりゃ健全な男子ならそういうことくらい考えるだろって。それにそういう話題で盛り上がれるのは学生の特権だぞ、私らみたいな大人になったら色々と面倒だもんよ」


 水上さん、そういう気遣い本当にしているのかな?


「誰が可愛いとか、そういうのはノーコメでお願いします。ところで水上さん、松子……松井さんのこと、随分と気にかけていらっしゃいますね」


「ああ、遥香は時間さえあれば、結月のオーボエにも釣り合うくらい上手くなれるって信じてるからな。今はまだ上手くなっている途中、ファゴットが身体の一部になるまでの辛い時期だから、教える側くらい前向きでいようって」


 この人、そこまで考えていたのか。見た目はガサツだが、教える相手によって最も適切な接し方と指導方法を使い分けているようだ。


「水上さん、どうしてうちの吹奏楽部にこんなに協力してくださるのですか?」


「手島から頼まれてってのもあるけど……やっぱ一番は久しぶりにオーボエ魂揺さぶられたからかな。これは全国も狙えるって、心底そう思ったからだよ。カサキタはまだまだ上手くなれる、普門館だって夢じゃないってな」


 軽口を叩くような口ぶりではあるが、水上さんの目は本気だった。


「普門館って全国大会開かれてるあそこですよね。そういえば前にも言ってましたね」


「ああ、懐かしい話だよ。10年前は私らも普門館行くぜってバカみたいに練習してたんだもんな。ははは、高2の時の『饗応夫人』はマジで死にかけたなぁ……私、中高と吹奏楽にエネルギー注いでないと、グレてレディースにでも入ってたかもしれねえな」


 俺はたまらずぷっと吹き出してしまった。たしかにこの人なら総長まで上り詰めていても不思議ではない。


「みんなといっしょに音楽やっていると、忘れたと思っていた昔のことも次々と思い出してくるよ。あの時は手島も今と違って、もっとはっちゃけた感じだったよなって」


「え、手島先生って昔、どんな感じだったんですか?」


「お、興味ある?」


 身を乗り出して訊く俺に、水上さんはにやっと白い歯を見せて返す。


「んー、でもこれは黙っておこう。あいつ過去のことほじくり返されるの嫌みたいだから」


 だが水上さんは指でバッテンを作って拒否するので、俺は「えー、意地悪ですねぇ」と口を尖らせた。まったくもう、勿体ぶっちゃって。


「砂岡っち、早くご飯食べなよー。夜練、始まるよー」


 その時、後ろを通りがかったアルトサックスの工藤さんが声をかけてきたので、俺は慌てて振り返る。いつの間にやら、食堂にいた部員たちはほとんどが夕食を済ませており、返却口まで食器を返しに席を立っていたのだった。


「いけね!」


 俺は急いでカレーを腹に掻き込む。本当ならもう2杯はおかわりしたかったのに……夕食くらいもっと時間確保してほしいよ。


参考音源


『饗応夫人‐太宰治作「饗応夫人」のための音楽』

https://www.youtube.com/watch?v=W4bOpZBUSAE

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