第二十六章その4 男子諸君!!!
翌日の午後、カサキタ吹奏楽部37名は手島軍団の大人たちに見守られながら合奏に励んでいた。
全体でしつこいくらいに音を合わせ、最後に課題曲と自由曲を通しで演奏する。ここでは本番と同様、ミスをしても演奏を止めず、振り続けられるタクトに合わせて曲を進めなくてはならない。
「皆さん、見違えるように上手くなりましたね!」
自由曲が終わると同時に、先生が額に滲む汗を拭いながらにこりと微笑んだ。ぶっ続けの合奏でへとへとになった部員たちも、ほっと安心しきった表情を浮かべながら楽器を下げる。
この土日の猛特訓の成果は上々だった。どのパートも格段に上達しているのが、演奏している側からもはっきりと聴いて取れる。
特にサックスの主旋律は徹底的に鍛えなおされたようで、これまで見られたピッチの乱れが完全に消えていた。
「いいかみんな、基礎練は毎日やってこそだ。最低30分、きっちりロングトーンとタンギング手ぇ抜くなよ!」
手島先生の脇に立つジャージ姿の水上さんが声を張り上げると、サックスパートの面々は「はい!」と声をそろえて返していた。まるで軍隊だな。
「それから遥香」
ファゴットを抱えていた松子が顔を水上さんに向ける。
「オーボエとの掛け合いを大切にな」
勢いを失う水上さんの声に、「……はい」と弱々しく頷く松子。水上さんが最大限に言葉を選んでいるであろうことは、俺たちにもひしひしと伝わった。
自由曲『伝説のアイルランド』序盤のオーボエソロ。そこは裏メロを奏でるファゴットとの掛け合いが重要で、バンド全体のイメージを大きく左右する見せ場でもある。
しかしここでオーボエが上手すぎるのに対し、ファゴットがぎこちないのでとてつもなくアンバランスに聞こえるというのがこの土日を終えても解決しきれない問題だった。
そりゃ無理もない。松子はファゴットを始めてまだ2週間ちょっとだ。いくら万能選手とはいえ、吹きこなせるようになるまではまだまだ時間がかかる。
「ウチ、もっと頑張らないとね」
楽器を片付けながら松子は俺たちに苦笑いを向けるものの、それはまるで自分自身に言い聞かせているようだった。
「松子、無茶すんなよ」
「まだコンクールまで1か月以上あるんだから、気楽にいこ!」
「そうそう、どーせ合宿で叩き直されるんだからさ」
俺と宮本さんの低音パートに加え、徳森さんもいっしょになって松子に声をかける。
「みんな、ありがとね。でもこれくらい平気平気」
相変わらず強がりの笑顔でみんなを安心させようとする松子に、俺たちは口を噤む。
「お姉ー、帰ろー」
その時、すでに帰宅の準備を終えた結月ちゃんがのぺーっとした声で姉を呼んだ。
「うん、今いくねー。じゃあみんな、まった明日ー!」
松子はそう言ってバッグを抱え上げて妹の元まで駆け寄る。そして姉妹ふたりで並びながら昇降口へと向かっていったのだった。
「松井先輩、だいぶしんどそうですね」
弦バス1年の佐竹さんが松子の背中を見送りながら心配そうに呟くので、俺はつい「やっぱそうだよな」と反応してしまった。
慣れない楽器を短期間で吹きこなせるようにって、言われて簡単にできるものではない。しかもいっしょに吹くのは自分の妹で、おまけに規格外の天才ときた。松子にかかるプレッシャーの大きさは、計り知れないものだろう。
その後、俺と徳森さんとで今後の練習について話し合いを終えた頃には他の部員も帰宅してしまったようで、部室はしんと静まり返っていた。
さて、俺もそろそろ帰るかな。床に置いたリュックを手に取り、持ち上げたのとほぼ同時だった。
「先輩、先輩」
突如、背後から小声で呼びかけられる。思わず振り向いた先には、ドラムセットとバスドラムの陰に隠れるようにして、パーカッション2年のたくちゃんとチューバ1年のハッタヤの後輩男子2名がちょいちょいと手招きしていたのだ。
「夏と言えば合宿。合宿と言えば琵琶湖。琵琶湖と言えば……」
えっへっへと見るからにいやらしい笑みをこちらに見せるたくちゃん。彼が何を言いたいのか即座に理解した俺は、たちまち後輩とまったく同じ顔を浮かべて返してしまった。
「砂岡ー、私もう帰るよー? あんたまだ残る?」
扉の前に立った徳森さんの呼び声に、俺はぱたぱたと手を振って応える。
「おお、鍵閉めとくから先帰っといてくれ。俺には決して避けることのできない男同士の語らいがあってな」
「は? ……まあいいや、鍵そこ置いとくから、戸締まりよろしくねー」
そう言って徳森さんは部室の扉を閉めてしまった。廊下をとことこと歩き去る上履きの音がしばらく聞こえていたものの、それも徐々に小さくなり、やがて完全に消えてしまった。
「改めてもう1回。夏と言えば合宿。合宿と言えば琵琶湖。琵琶湖と言えば……」
「水着ー!!!」
たくちゃんの煽りに、俺は嬉々として声をあげた。
「拓也先輩から聞きましたよ。去年、砂岡先輩、琵琶湖にダイブされたんですよね? 泳げるの、楽しみですね」
ハッタヤがワクワクとした目で尋ねる。運動はそこまで好きではないそうだが、水泳は例外らしい。
「そうそう、夜のバーベキューでな。マジで水着持ってくりゃ良かったって思ったよ」
「ええ、琵琶湖にドボンもいいですね。ですが先輩、もっと大切なことをお忘れではありませんか?」
たくちゃんが坊主頭をぐいっと近づける。
「忘れることなどあろうか、いや、ない」
ふたりの鼻先がこすれ合う距離まで、俺は顔を近づけ返す。そして勢いそのままに、俺とたくちゃんは肩を組んで飛び跳ねたのだった。
「女子諸君にも水着を持ってきてもらう大チャンスだぞ!」
「さっすが砂岡先輩、男のロマンがよくわかってるぅ! そこでですね、僕、合宿のしおり担当なんですけど、持ち物欄にこっそり『水着』て書いて配ってもいいですよね?」
「ナイスたくちゃん! それでこそ男だよ!」
きゃっきゃと騒ぐ俺とたくちゃん。そんな先輩2人組を見て、1年のハッタヤは面食らったように突っ立っていた。
「ええ、そういう意味だったんですか? てっきり水泳楽しむのかと……」
戸惑いながら言うハッタヤに、俺とたくちゃんは「「何ぃ!?」」と鋭い眼光を向ける。
「おいおいハッタヤ、ピュア装ってるんじゃないぞ」
「そうだぞ、お前もお好きだろ?」
「うーん……正直そこまで興味ないというか。うち、だらしない姉がいるんで女子にそこまで希望持てないというか」
「「姉ちゃんだってぇ!?」」
俺とたくちゃんはさらに一歩、後輩に詰め寄った。
「羨ましいなぁハッタヤ、うちには口だけ女みたいな兄貴しかいなのに!」
「俺たちひとりっ子や男兄弟ばかりのむっさい家庭に育った男子にとってはな、姉ってのは願っても叶わない憧れの存在なんだぞ! もっと姉ちゃんを敬え、大切にしろ!」
「いや、そんなこと言われましても……でもまあたしかに、宇多先輩の水着姿ならちょっと興味あったりしますけど」
ここでようやくハッタヤも顔をにやつかせる。
「お、お前よくわかってるじゃないか! 我が部の誇るダイナマイトボディだもんな!」
トロンボーン2年の宇多さんは、演奏中もぶるんぶるん揺れるほどの代物の持ち主だ。普段はブレザー越しにしか見られないあのフェルマータを、波打ち際で是非とも見てみたい!
「そうだぞ、その情熱を持ってこそ男だ。きっつい合宿も水着のためだと思うと、めちゃくちゃ待ち遠しくなるだろ?」
「そう……でしょうか?」
口ではそう言いつつも、ハッタヤの顔はすっかり俺たちと同じいやらしいものになっていた。俺たち3人、すっかりいやらしブラザーズだな。
「そうだよそうだよ! さあみんなの水着姿を目に焼き付けて、ハイテンションのままコンクールに挑もうじゃないか!」
「いよっしゃあああ!」
野郎3人がそろって拳を天に突き上げた、まさに直後だった。
ガララっと扉が弾き開けられる音が部室に響く。同時に俺たちは全員「我が生涯に一片の悔い無し」のポーズのまま、ピシッと石化したように固まる。
恐る恐る、ゆっくりと首を回して後ろを振り返る。そこにいたのは、ユーフォ1年の古川さん、そしてよりにもよってチューバの宮本さんだった。
「ど……うしたの?」
引きつった笑顔の野郎3人組を代表し、俺は冷や汗をだらだらと垂らしながら尋ねた。
「う、うん、読み直したいから楽譜持って帰ろうと思って……」
口角をぴくぴくと震わせながら、必死で笑顔を作りながら宮本さんが答える。その隣に立つ古川さんは、まるで冷蔵庫の奥で腐った茄子の漬物を発見した時のような目を、まっすぐ俺に向けていた。
「す、砂岡くん……そんなこと、考えていたの?」
するすると後ずさりする宮本さん。彼女の小柄な身体が遠のいて、さらに小さくなってしまう。
「砂岡先輩」
一方の古川さんは微動だにせず、じっとこちらに突き刺さるような視線を飛ばしていた。
「控えめに言って、最低です」
そう言い放つや否やふたりはくるりと背を向け、すたすたと歩き去る。
「違う、誤解だよ!」
慌てて追いかけるものの、スケベ野郎の呼びかけに足を止める女子などいようものか。部室を出た時にはふたりはすでに廊下のはるか向こうまで移動しており、心の底から拒絶されていることを実感したのだった。
それから3日間、男子3人組は学年問わずすべての女子部員から口を聞いてもらえなかったのは言うまでもない。




