第二十六章その3 レッスン!!!
松子が弦バスとファゴットの2足の草鞋を履き始めてから2週間ほど経った6月中旬、俺と徳森さん、手島先生の3人は音楽準備室に集まり、今年の夏合宿について話し込んでいた。
「今年は夏休み直前に3連休がありますね。そこで和邇の合宿所を借りて、2泊3日の合宿を開催する予定です」
今年のコンクール地区予選は7月23日。7月20日に終業式が終わってから、あっという間だ。
しかし偶然にも、その直前の17~19日は土日祝と3連休になっている。ここを夏休みの先取りという形で合宿に充てて、コンクールに向けて最後の追い込みを行うのが先生の狙いだった。
ちなみに利用する施設は、去年と同じ湖畔の合宿所らしい。よし、それなら今年は水着持っていくぞ!
あと塾の夏期講習の日程についても、さっさと調整しておかないとな。
「しかも今年の合宿は、別の学校に演奏を聴いてもらいますよ」
話の最中にも関わらず頭の中であれこれ思考を巡らせていた俺に向かって、先生はにこりと微笑みかける。そのあまりの爆弾発言に、俺も徳森さんも「え!?」と思考を停止させ、あんぐりと口を開けてしまった。
「近くで他の学校も合宿しているそうですから。こんな良いチャンスを逃すことはできませんよ、お互いに演奏を聴いて、本番さながらの緊張感に慣れていきましょう」
「そ、そうですね」
俺は顔を引きつらせて頷いた。まだ他校に聴かせるほどの自信なんて無いのに。これは今の内からちゃんと練習積んでおかないと、コンクールを前に大恥かいてしまうぞ。
「そのため合宿までの間に、ある程度は曲を吹けるようになっていなくてはなりません。そこで今週の土日は、全体で徹底的に鍛え上げていこうと思います」
「鍛え上げるって、何するんですか?」
「はい、知り合いの皆さんに練習を見てくれないかって頼んだら、思った以上に多くの方からOKもらえましたので。すべてのパートに指導員をつけて、同じ楽器の奏者ならではの観点からバシバシ指摘をいただこうと思います」
そうか、手島先生を狙う男ども……もとい手島軍団が大挙して押し寄せるわけか。こう表現すると情けない集団に聞こえるけど、あの人たち楽器の腕はピカイチだから一気に演奏技術を高められる大チャンスだな。
そして土曜日。
部員たちが練習の準備を進めていると、大人の皆さんがぞろぞろと部室に集まり、全員がマイ楽器の準備に取り掛かったのだった。
ほとんどは先生の音大時代の知り合いなのだろう、互いに談笑を交わしており、ちょっとした同窓会のようだ。
我々低音パートは楽器がでかいだけにずっと部室にいると邪魔なので、楽器をケースから取り出したらさっさと練習場の1年学年室まで移動する。そこで机と椅子を動かして練習場所を確保し、そこでようやく譜面台を立てるのが俺たち低音の日課だ。
「みんなー、来たよー!」
そんな時、部屋の扉が威勢よくガララと開き、ユーフォ奏者の大久保さんがマイ楽器を抱えて現れる。全体はシルバーだが、管とピストンの一部だけゴールドに輝く高級感溢れるデザインだ。
「大久保さん、お久しぶりです!」
俺と松子、宮本さんの3年生ズは楽器を置いてわっと駆け寄った。
アンコン前まではよく来てくれていたのに、それ以降めっきり来なくなってしまったから心配していたんだよ。それにしても大久保さん、前に会った時よりもちょっと痩せている気がするな。
「いやぁ、ついこの前まで納期に追われてた仕事が一件片付いてね」
パシーンと俺と手を打ち合わせる大久保さんに、宮本さんが「どんな仕事してたんですか?」と尋ねる。
「今度発売する新しいゲームハードの最終ちょうせ……と、危ない危ない!」
そこで大久保さんは慌てて口を塞いだ。これ以上は言ってはいけない何かがあるのだろう。
一方、突然現れた30手前の男を前にして、1年生はぽかんと呆気に取られていた。
「みんなちょっとこっち来なよ。レッスンの先生、来てださったぞ」
俺が後輩を手招きしていたその時だった。
「おっす、遥香いるか?」
開けっ放しになった扉から、オーボエ奏者の水上さんが何の前触れも無くひょいっと顔を覗かせたのだ。今日は大勢の男たちが来ているというのに、相変わらず使い古したジャージを身にまとっている。
いきなりのことだったので、俺たちは「え?」と静止する。対する水上さんも片手に弦バスの弓を持つ松子を見て、「お?」と頭を傾けるのだった。
「あれ遥香、今日はコントラバスか?」
「は、はい、今日は課題曲メインなので」
「そっか、自由曲は明日か……てことはファゴットも明日だな。じゃあ私、サックスとオーボエ見てるから、またなー!」
そう言ってくるりと向きを変えると、ぺったぺったとゴムサンダルを鳴らして歩き去る。その音が聞こえなくなった頃、なぜかずっと緊張したように身体をこわばらせていた大久保さんは「はあーっ」と深く息を吐いたのだった。
「どうしたんですか?」
「いや、今の人、なんだか……おっかなそうだと思って」
「水上さんですか? まあ確かにそういうところもありますけど……いくら何でも怖がり過ぎですよ」
「いや、ジャージにはちょっとしたトラウマがあって……」
聞いて3年生トリオは互いに顔を向け合い、「ああー」と納得の声を挙げる。いつだったか大久保さん、体育の強面先生に不審者と思われて連行されてしまったことあったよなぁ。
その後、俺たちは基礎練習のメニューの改善案を教示された後、低音パートで『エアーズ』の音合わせを始めたのだった。
「ユーフォ、ここはもっと目立たせてもいいよ。チューバは隣の音をちゃんと聴いて、ピッチを合わせて!」
音合わせの最中、大久保さんの熱のこもった声が乱れ飛ぶ。大久保さんはこんなんだが、音楽に関する造詣は非常に深く、指導力も高い。
美しい主旋律が売りのエアーズは、それを際立たせる裏メロも非常に聴き応えあるものになっている。その音量のバランスとピッチを合わせたハーモニーを形成し、盤石なサウンドの土台を組み立てることが俺たち低音の役割だ。
「ちょっと休憩にしよっか」
がっつり指導を続けて大久保さん自身も疲れたのか、持ってきたペットボトルのお茶をぐびぐびと傾けながら言うと、俺たちも「はーい」と楽器を置いた。それにしても楽器が手から離れた瞬間、どっと疲れが押し寄せてくるのは何でだろうな?
俺がどっと椅子に腰かけたまま床に置いた水筒に手を伸ばす隣で、ユーフォ1年の古川さんが席を立ち、ポニーテールを揺らしながら部屋を出て行ったのだった。たぶんトイレだろう。
「ふう、疲れたー」
弦バスの佐竹さんが、楽器を慎重に床に倒す。コントラバスはでかいので、休憩でも片付けでもしっかりと周りを見ておかないとすぐどこかにぶつけてしまうのだ。
「あ、ちょっと待って」
それを見ていたハッタヤことチューバの小島君が椅子から立ち上がり、誰も使っていない椅子を一脚、運んできたのだった。
「たしか弦バスって、床に置くよりは椅子にひっかけて置いた方がいいんだよね? 今日は人も多くて足引っ掛けると危ないから、これ使いなよ」
「う、うん、ありがとうハッタヤ……」
きょとんと眼を丸めた佐竹さんは、近くに椅子を置く巨漢の1年生に小さく頭を下げる。小島君、本当に周りのことよく見てるし気が利くなぁ。
「ただいまー」
ちょうどその時、古川さんが部屋に戻ってくる。
「おう、おかえ……り?」
だが俺は、返事の途中で口を噤んでしまった。帰ってきた古川さんは出て行ったときとはまるで違い、何かに怯えるように震えていたのだ。
「ど、どうしたの?」
「聞いてくださいよ、先輩。実はさっき木管の部屋の前通ったら、水上さんがサックスのことめっちゃくちゃ叱ってたんですよ」
青ざめた顔を訴えるようにこちらに向ける古川さん。彼女がこんな顔するくらいなのだから、きっと相当な鬼教官っぷりが炸裂していたのだろう。
「ああ、『エアーズ』ではサックス目立つからねぇ」
松子が腕を組んで深く頷く。
「はい、工藤先輩も目ぇ真っ赤にして、真剣な表情でアルトのソロ吹いてて。みんなそんな感じでしたよ、いっしょに合わせていた結月ちゃん以外は」
「ははは、さすが結月ちゃん」
まあ、あの子は特別だからな、勝負してはいけない。それにしてもあの工藤さんが泣きそうになってるなんて、想像しただけで腹抱えて笑ってしまいそうだな。




