第二十六章その2 憧れの先輩
翌日の放課後、部室に運び込まれたファゴットに部員たちは興味津々だった。
水上さんが持ってきたナイロン製のケースを開くと、大きく4本にバラされた赤銅色の木製の管が現れる。それを慎重につなげて組み立てると、全高130cmはあろう巨大な楽器に変身したのだった。
「ファゴット……こんなに近くで見たのは初めてです」
金属製のU字管を介して木製の本体をつなげるという大胆な構造を目の当たりにして、松子もはあと息を吞む。
「まあ縁が無いと触ることも無いだろうね。私もダブルリードやらなかったら、たぶん一生ファゴット買ってみようなんて思わなかっただろうし。ほら遥香、これからしばらく、こいつがあんたの彼氏になるんだよ!」
そう言いながら楽器を見せつける水上さんに、松子は「彼氏って」と苦笑いを返した。
それにしても、まさか松井姉妹でそろってダブルリードやることになるなんてなぁ。
ファゴットがいれば自由曲『伝説のアイルランド』のサウンドのクオリティが増す。しかもファゴット所有者の水上さんが、楽器本体を貸してくれるとまで言っている。しかもしかも、専用の楽譜が無いためにコントラバスパートは自由曲では手持ち無沙汰。
そんな願っても無い好機が訪れた昨日、部員たちの強い視線に根負けした松子は「じゃあ、自由曲だけなら」と楽器の持ち替えを承諾したのだった。ファゴットには初挑戦になるので水上さんが今まで以上に学校に通って教えてくれるということになったが、経験の無い楽器を引き受けた松子も仕事があるのに毎日のように部活に来てくれる水上さんも大したものだ。同じバンドの者としては感謝感謝だよ。
「ほら、これがファゴットのリードだ」
水上さんは葦の木質部を削り出して作ったダブルリードを取り出すと、そっとそれを松子に手渡す。リードと一言でまとめても楽器によって様々なのだろう、妹が使っているオーボエのものよりもひと回り大きい。
「原理は草笛と同じだよ、思い切り吹いてみ」
勧められるがままリードを口に触れさせた松子は、下唇を上唇で巻き込んだダブルリード独特の口の形を作る。そして上下の唇でリードを挟むように咥えるて息を吹き込むと、ぷうーっと破裂音にも似た甲高い音が鳴ったのだった。
なんと扱いにくいダブルリードをたった一発で鳴らせてしまったことに、水上さんは驚きと感激を露わにする。
「さすがだな、カサキタの誇るユーティリティープレーヤーって手島が言ってただけあるよ!」
「先生、例えが完全に野球だな」
ユーティリティープレーヤーと聞くとどうしてもカープのキムタクが脳裏にちらついてしまうのは、俺が赤ヘル信者だからだろうか。だが実際に音楽に関してなら、松子ほど器用になんでもこなせる子もなかなかいるまい。
「じゃあ楽器つなげてみるか。ほら、首にストラップ付けて、ここをこう持つんだ」
ぐいぐいと迫ってくる水上さんは、マネキンのように突っ立ったままでいる松子に楽器を持たせ、手で押したり引っ張ったりしながら正しいファゴットのかまえ方を覚えさせる。全長2.5メートルのながーい管を途中で折り曲げた構造のファゴットは、ベルを上方向に持ち上げ、ちょっと斜めに傾けるのが正しい吹き方だ。遠目にはでっかいギターをかまえているようにも見えるな。
「そうそう、で、こことここを押すとチューニングB♭な」
両手を使った運指を一日でも早く教え込むため、水上さんは松子の大きな手に触れて細やかに指導を始めた。
楽器そのものが大きいだけに、管の側面に取り付けられた金属製のキイもごちゃごちゃしているため、素人にはどこを押せば良いのかすらわからない。片手3本指だけでも演奏できるユーフォパートからすれば、こんなに複雑な機構を両手で使いこなせる木管奏者って凄いと思えるよ。
「松子、ごめんな。お前にまた負担かけさせてしまって」
夕焼けに染まった空の下、練習を終えて校舎を出た俺と松子は駐輪場まで並んで歩いていた。
「いいよ、せっかくの機会なんだしー。それに弦バスでチューバと同じ楽譜弾くのはなんだかなあって思ってたからさ」
口でそう返すものの、松子はこちらに視線すら返さなかった。というのも習ったばかりのファゴットの運指を思い出しているようで、胸の前に突き出した両手10本指すべてをしきりに伸ばしては曲げている。
いつもなら帰路に就く前に駐輪場でちょっとおしゃべりを済ませて各々帰宅するところだが、今日の松子は何も言わず自転車を引っ張り出すなりサドルに跨ってしまった。
「もう帰るのか?」
「うん、指使い覚えないといけないし、借りた教本もしっかり読み込んどかないとさ。ほらほら、砂岡も早く家帰って勉強しないと単語100個覚えられないよ!」
最後にそう煽るように言い残すと、松子は体重をかけて自転車ペダルを踏む。
「じゃあ、また明日ねー!」
そして急発進し、颯爽と走り去ってしまったのだった。
「またなー」
小さくなっていく背中を見送りながら、俺は最近の松子のことを思い出していた。
未経験の楽器の演奏という難題に挑むなんて、どれだけしんどいことだろう。それでいてもう音楽はやめるとまで口にしながら、今日初めてファゴットの音を鳴らした瞬間に浮かべた心の底から喜んでいるような笑顔。
去年の文化祭での一件もある。平気そうに振る舞ってはいるものの、あいつの心中を慮ると不安で仕方なかった。
「カッコいいですよね、松井先輩って」
突如後ろから声が聞こえ、俺は反射的に振り返る。そこには先に部室を出ていた弦バス1年の佐竹さんが、自転車を押して立っていたのだった。
「そうか?」
つい、そう疑い混じりに返してしまう。同じパートの先輩だからそう見えるのかもしれないけど、俺からすればいかにもスポーツ少女といった風貌の佐竹さんの方がカッコ良く思えるな。女子からもウケ良さそうだし。
「はい、近所の音楽一家のお姉ちゃんで、年下の私をよく引っ張ってくれていましたので」
佐竹さんが即答する。そう言えばふたりは同い年の結月ちゃんといっしょによく遊んでいたのだった。
「そう言えば佐竹さん、吹奏楽部入るまで楽器やったこと無かったんだよね」
なんとなく俺は尋ねた。佐竹さんについては以前、小学校時代はスポーツ少年団でバスケをやっていたと聞いたことがある。ちなみにポジションはシューティングガードらしい。
「松子がいたから入部したの?」
「たぶん、松井先輩がいないと入ろうとすら思わなかったでしょうね」
「あいつのことそこまで高く評価してる人、初めて見たよ……」
みんな心の中では松子の実力を認めているし人柄も信頼しているだろうけれども、ここまで大っぴらに口にする者はなかなかいない。
驚きに固まる俺に、佐竹さんはふふっと笑みを見せた。耳が見えるほど短く切った髪がふわっと風に揺れ、スポーツ少女がほんの一瞬だけ艶っぽく映っる。
「遥香ちゃんは私の憧れですから。私、昔から運動神経だけは良くって、幼稚園の頃も小学校に入ってからも、駆けっこでも縄跳びでも水泳でもずっと1番だったんですよ。ドッジボールでも男子と全力投球で渡り合っていました。スポ少のバスケに入っても、同じ学年ではずっと1番でした」
前触れもなく始まった後輩の話に、俺は面食らいつつもじっと耳を傾ける。あまり佐竹さんとふたりきりで話す機会は無いので、彼女の過去の話は俺にとっても新鮮だった。
「ですが小学5年くらいからでした。ずっと何とも思っていなかった男子に、体力テストで負けてしまったんです。その子は成長が早く、あっという間に大人の男の人みたいな身体つきになってしまいました」
俯いたおかげで、佐竹さんの両目が前髪に隠れる。
「バスケに関しても私は飛び抜けて背が高い方ではありません。強いチームだと女子でも170くらいの子とか普通にいますから。そんな子が相手では、いくら走り回っても到底敵いません。ずっと一番運動ができる子という立ち位置に居座って、自分自身そう思ってきただけにすごくショックでした。いつの間にか男子とドッジボールしてる女子なんて私だけになって、他の子は恋愛の話やファッションに夢中になっていました。その時になってようやく気付いたんです。私、運動以外何もできないじゃないか、女の子らしいこと何ひとつわからないじゃないかって」
ぎらっと強い眼差しとともに顔を上げる佐竹さんに、俺は思わず胸を打たれてしまった。
この子、そんな悩みを抱えていたのか。どちらかと言うと運動の苦手な俺にとっては、運動が得意なんてそれだけで羨ましい話なのに。
「だからこそ中学に入ったら今の自分を変えたいと、ずっと考えていました。そこに遥香ちゃんがコントラバスを演奏している姿を見て、これだと直感しました。吹奏楽をやれば、自分も遥香ちゃんみたいになれるって。私の持っていないものをいくらでも持っている松井先輩は、私にとって憧れのスターです。きっとファゴットだって、余裕で吹きこなしてくれるって信じています」
そう言い放つ佐竹さんの顔は俺に向けられてはいるものの、その目には強い憧憬が込められており、俺の身体を貫いてはるか遠くを見つめていた。
「そうか……」
どんな顔を浮かべれば良いものか悩んだ末、俺は作り笑いを浮かべながら返してしまった。ここまで後輩に慕われるなんて、本当に松子は大したヤツだよ。
だがおそらく、佐竹さんは松子が中学で音楽をやめようと考えていることをまだ聞かされていない。もしそのことを知ってしまったなら、この子は何と思うだろうか。




