第二十六章その1 衝撃発言
中間テストが終わり6月にも入ると、温かく湿った空気が辺りを包み込む。
こりゃ今年も暑くなるな。そんな夏の到来を予感しながらも、カサキタの生徒400人あまりは、今日も元気に登校しているのだった。
「ねえ砂岡ー、テストもう終わったのに、何で勉強してるの?」
朝練の後、松子は3年2組の自分の席に座り込んで文庫本サイズの英単語帳をめくる俺の顔を覗き込んだ。
「ああ、来週までに英単語100個覚えないといけないんだよ」
俺はそう答えつつ口を動かして耳で、シャーペンを動かして身体で英単語を覚えていた。目で黙読するだけよりもこうやって他の刺激を混ぜた方が効果的であることは、これまでの経験則上よく実感している。
「昨日から通い始めた塾のこと?」
宮本さんもこつこつと上履きを鳴らしてこちらに近付く。
「そうそう。毎週100個ずつ覚えて、最終的にこれ一冊丸暗記するんだってさ」
中間テスト終了とほぼ同時に、俺は学習塾に通い始めていた。進学校の受験を前提とした先取り型の塾で、とりあえず英数2科目を平日の放課後、週に1回ずつ受講することにしたのだった。
そしてこの英単語帳は、昨日塾でもらったばかりの逸品だ。これに収録されている2000の単語を覚えれば、とりあえず高校受験の英語で困ることは無いと先生は豪語していた。
100個と言ってもその中には中学1、2年ですでに習っている単語も相当数含まれている。そのため来週のテストもさほど大変とは思えないが、それでも暇な時間があれば勉強に回さないと、とても覚えきることはできないだろう。
「砂岡くんすごいねぇ、目標が明確で。私はまだ今年が受験って自覚全然湧いてこないから勉強に身が全然入らないよ」
「みやぽんなら勉強してもしなくても、そんなに変わらないよー」
「松子ちゃん、私でも怒るときは怒るよ!?」
かっと顔を赤らめる宮本さん。この子に勉強と歌の話題を持ち出すのは避けておいた方がいいと、俺は去年の段階ですでに学習している。
「そういう松子ちゃんは、高校どこ受けるとかまだ決めてないの?」
「うーん、とりあえず学力的にちょうどいい公立受けようかなって」
「へえ、そうなのか。俺、お前なら音楽科とか、それこそ吹奏楽とかオケが強い学校受けてもいいと思うんだけどな」
俺はルーズリーフに英単語のスペルを走らせながら、何気なく言った。一家揃って音楽に熱心な松井家のことだし、そういう道に進んでも十分食べていけそうだし。
「そういうのは……別にいいかな」
「そうなの?」
「うん。ウチ、もう中学で音楽とは縁を切ろうと思ってるからさぁ」
「ふーん、そっかぁ……」
あまりもさらりとそう口にするので、何も言わず流してしまうところだった。
「え……ええええええ!?」
数秒間の沈黙の後、俺と宮本さんはそろって汚い声をあげて仰天する。
「え、じょ、冗談だよね!?」
「なぜに!?」
矢継ぎ早に尋ねる俺たちに、松子は表情を変えずに答えた。
「ウチじゃ色々と敵わないからねぇ。ウチよりできる人なんてゴロゴロいるからさぁ」
「いや、それでもさ……」
「私、松子ちゃんの弦バス好きだよ。弦バスだけじゃない、ピアノだって歌だって、ドラムメジャーだって」
「ありがとねぇ。でもね、もういいんだ。だから今年は、人生最後のコンクールを目いっぱい楽しもうって」
すでに心は決まっているのだろう、清々しいまでの笑顔を向ける松子に、俺たちは絶句するしかなかった。
こいつの気持ちも理解できないではないだけに、何も言えなかったのだ。
放課後を迎えた吹奏楽部は、部室や近くの教室のあちこちで各員が電子チューナーを使ってチューニングを合わせていた。
今日は合奏だ。課題曲も自由曲も楽譜をもらってからまだ日が浅いものの、コンクールでさらに上の大会に進むためには、早い内から全体で音を合わせていかねばならない。
「ひなたちゃーん、ちょっと高いよー」
「す、すみません!」
松子の指摘を受けて、佐竹さんは弦の張りを少し緩める。
実は自由曲『伝説のアイルランド』には、コントラバスの譜面が無い。ちょっと可哀想な気もするが、吹奏楽オリジナル曲では決して珍しいことではない。こういう場合、弦バス奏者はチューバの譜面を演奏したり、パーカッションの手伝いに回ったりと各自できることに徹するのがお決まりだ。
「それではせっかくですから、合わせてみましょうか!」
きっちり準備を済ませ、合奏の隊形に並んだ部員たちを前に先生がタクトを振り上げる。久しぶりの合奏だからか、先生の表情も楽しげに見えた。
曲は課題曲『エアーズ』、そして自由曲『伝説のアイルランド』だ。
まだ楽譜をもらって日が経っていないだけに、みんな音符通り吹ければ十分という段階だ。当然タイミングもピッチもバラバラだが、そんなのは新しい曲に挑めば当然のこと。むしろ課題曲の方はなんとかなりそうだ。
だが問題は自由曲の方だった。
「すみません、もうちょっと抑えて」
序盤、トムトムが打ち鳴らされるのに合わせてのオーボエソロの場面でのこと。森の木にとまった鳥が木漏れ日の中で歌っているような、結月ちゃんの優雅なオーボエの音色が部室に響き渡る。
スコア通りならばその裏で、ファゴットの低音がオブリガードを刻むことになっているのだが、うちの学校にはファゴットが無い。そのため代わりに音域の近いバスクラリネットや、人員が余っているテナーサックスとバリトンサックスが分担してファゴットの譜面を埋めていくことになる。
しかしファゴットはオーボエと同じダブルリード楽器であり、その構造から他の楽器と比べて大きな音を出しにくい。オーボエを目立たせるための音量のバランス、そしてファゴット独特の優しい低音を別の楽器で再現するのはなかなか苦労している様子だった。
ファゴットの楽器があって、それを吹きこなせる奏者がいれば万事解決するのだけれども……無い物ねだりしても仕方ない。そもそもファゴットはちゃんとした物を買おうと思えば、余裕でゼロが6つ付いてしまうくらいにお高い楽器なのだ。
「おうおう、やってんなぁ!」
そんな時、部室の扉ががらりと乱暴に引き開けられる。オーボエ奏者の水上さんが、今日も部活を覗きに来たのだ。
「あれ、今日はどうしたの?」
なんとも珍しいことに、指揮台の手島先生がタメ口で尋ねる。
「ああ、実は今やってる仕事が全部片付いちゃってさ、何もすること無いから途中から有休取って早退したんだわ」
ジャージ姿で仁王立ちしながら豪快に話す水上さんを見て、俺は隣に座っていたトロンボーンの宇多さんに「水上さんって、何の仕事してるの?」とそっと尋ねた。
「たしか前はぁ、市の職員って聞いたことありますー」
市の職員? てことはあの人、公務員なの?
「手島ぁ、ちょっと合わせてくれよー、特にオーボエソロのとこさー」
だが彼女は俺の疑問など置いてけぼりに手島先生にねだる。普段の言動からはまったく想像できない猫なで声だ。
「そうですね。ではもう一度、やってみましょうか。皆さん、水上先生に今できる最高の演奏を聴かせてくださいね!」
ぷふっと吹き出しながら手島先生は再びタクトを振り、トムトムのリズムに乗って結月ちゃんのオーボエが歌いだす。やがてその裏で木管低音楽器が裏メロを奏で始め、厳かな曲を徐々に徐々に盛り上げていったのだった。
その1段ずつ上っていく演奏を、水上さんは部員たちひとりひとりを睨みつけるようにして聴き込んでいた。
「どうでした?」
やがて切りの良いところで演奏を中断し、手島先生が脇に立つ水上さんにぼそっと尋ねる。
「さすが結月、よく吹きこなせてるな。いっしょに吹いているフルートも良い感じでバランス取れているぞ。ところで……バリサク前に出過ぎじゃねぇか?」
バリトンサックスの3年生がうっと口ごもる。彼女自身としても結構音は絞っているつもりのようだが、周りにはまだ強すぎると思えたのだろう。まあ確かに、サックスだと音が尖りすぎていると感じちゃうしなぁ。
「そこは本当ならファゴットがやるところですから。カサキタにはファゴットが無くて、代わりに他の楽器でやってもらっているのですよ」
すかさず手島先生がフォローを入れる。公立中学の台所事情を察してくれたのか、水上さんは「あー、そっか」と納得した様子で頭に手を置く。
「うーん……よし!」
だが次の瞬間には、何か決心をしたのが周囲にも伝わるほど、オーバーにむんと息を吐き出したのだった。
「手島、実は私、この前のボーナスでファゴット買ったんだ」
「え、そうなの!?」
手島先生がぎょっと目を剥く。そのレアすぎる表情を目の当たりにしたせいで、高価なファゴットを買ったという水上さんの発言が完全にかすんでしまった。
「ああ、けど今のところ使う予定無いから、使うなら貸すぞ。持ち替えでもいいなら、誰かファゴットやってみねえか?」
「え!?」
今の提案には、37名の部員たちも期待と驚きの入り混じった声をハモらせてしまった。
ファゴットなんて珍しい、ちょっと吹いてみたいぞ! けど、俺じゃとてもダブルリードなんて扱えそうにないしなぁ……。
他の部員もだいたい同じことを考えているのだろう。そわそわと身体を揺らしてはいるものの、自分から「やります」と声を挙げる者はいない。第一、この時期になって使い慣れた楽器を手放してファゴットに挑むなんてとてもできない。ユーフォ吹きにはユーフォ吹きの、クラリネット吹きにはクラリネット吹きのプライドがあるように、自分のパートくらい自分で吹き上げたいのが人情というものだ。
「いないのかぁ? 誰かファゴット、吹いてみたいと思わないか? なあ手島、手の空いていて器用な部員って、誰か適任なのいねえか?」
「そういうことでしたら……」
水上さんにどやされた手島先生が、俯いていた顔をゆっくりと上げる。その時の先生の両目は、じっと一点を見つめていた。
その視線に釣られるように、部室にいた全員の顔が同じ一点に向けられる。部員たちの視線の中心にいたのは、弦バスを支えながらぼうっと立ち尽くす松子だった。
「え!?」
ウチ!?
そう言いたげに自分を指さす松子に、先生はにこりと心の底から微笑みかけたのだった。




