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第二十五章その4 大投票

「というわけで課題曲をどれにするか、投票で決めたいと思います」


 35人の部員たちを前に、俺と徳森さんが並び立つ。テスト前最後の練習に打ち込んでいたところで、いきなり部室に集まれと呼び出されたと思ったら、とんでもない議題をぶつけられた部員たちの顔は、一様に目が点になっていた。


「ふたりとも、なかなか思い切ったことするねー」


 指揮台からも近い定位置に腰かけてにへへと笑うのは、アルトサックスの工藤さんだ。トレードマークのピンクのヘアピンが、窓から差し込んだ陽光をきらりと反射させている。


「うん、せっかくなんだし、どの曲やるかはみんなで決めたいもんね。ちなみに私のことが好きな子は、『吹奏楽のための「風之舞」』に入れてね!」


「こら、こんなところで票集めするな! 公職選挙法違反だぞ!」


 いけしゃあしゃあと票を誘導する徳森部長に、俺がすかさずツッコミを入れたおかげか、部室はどっと笑い声に包まれ、張り詰めていた空気も多少和んだようだ。


 本来なら楽譜を取り寄せ、試しに何度か合奏して感覚をつかんでから決めたいところだが、1年生の負担を考えればそんな悠長なことなどやっていられない。


 そのため俺たちの取った方法は、部員に参考演奏のCDをとりあえず全曲聴いてもらい、一番吹きたいと思った1曲を紙に書いて集計する、というものだった。結局は多数決ではあるが、これなら挙手制よりもその場の雰囲気に流されにくいので、部員たちからもある程度の納得は得られるだろう。


 中学の場合、課題曲は指定された4曲の中から1曲を選ぶ。課題曲にはそれぞれⅠ~Ⅳまでの番号が振られており、例えば2004年度ならⅠが『吹奏楽のための「風之舞」』でⅡが『エアーズ』だ。これらの曲は幅広い年代、レベルのバンドでも吹けるように難度が抑えられており、長くても4分ほどで終わるように構成されている。


 実はかつて、すべての課題曲があまりにも難しすぎたために中学高校の吹奏楽部で出場辞退が続出するという珍事があったらしい。それ以降は課題曲の選出についても細心の注意が払われ、現在のように親しみやすいメロディーラインの曲が目立つようになったのだとか。


 ちなみに課題曲Ⅴという、難度は気にせず芸術性を追求した課題曲も設定されてはいるのだが、これは中学では選択できないので詳細は割愛する。


 さて、部員からの了承を得た俺たちは、すぐにCDラジカセで課題曲を通しで流し、部員全員に聴かせた。そして配った紙にⅠからⅣまでの数字を書いてもらい、どれを演奏したいかを投票してもらったのだった。


 集めた紙はすぐさま集計し、徳森さんが読み上げて俺がその結果を黒板に書き出した。1枚、また1枚と読み上げられる内に、5票ごとに完成する「正」の字が、カリカリと黒板に並んでいく。


「何だよ……これ」


 そしてようやく37人の票が出揃ったその結果は、想像以上にすさまじいものだった。なんとⅠとⅡがそれぞれ16票を得て、真っ二つに割れてしまっていたのだ。


 当然ながら『吹奏楽のための「風之舞」』と『エアーズ』の2曲のことだ。まさかこんなにきれいに分かれるなんて、神様が狙ってやらかしたとしか思えないよ。


 仲良く並ぶ16という数字とは対照的に、部室はずーんと重苦しい空気に包まれる。


「もう1回投票してもらう? この2曲だけでさ」


「なんかオリンピックの開催地選びみたいだな」


 徳森さんが提案するものの、俺は首を縦には振れなかった。この2曲以外に投票した5人のプレッシャーを考えると可哀そうな気もするし、それにこの調子なら決定したとしても1、2票の僅差だ。これでは全体として納得を得られたとは言えない。


「うっそ、また投票するの?」


 部員の顔や声からも、不満が漏れ出ていた。最悪の雰囲気だ。ここからどちらか一方に決めなくてはならないのなら、最初から先生に決めてもらった方がマシだったかもしれない。


「あの、すみません」


 その時、後ろの席に座っていたひとりがぴんと手を挙げ、全員の視線を集める。


 チューバの宮本さんだった。彼女は小さな身体を少しでも目立たせるべく、椅子からお尻を少し浮かせてまっすぐに手を伸ばしていた。


「こういうのってさ、自由曲との兼ね合いもあるよね? みんな課題曲単体だと決めにくいだろうから、自由曲はどんなの吹くのかなって。自由曲がどんな曲かわかれば、こっちの曲の方がピッタリだよって、さっきとは違った結果にならないかな?」


 なんと大きな助け舟。宮本さんの一声に活路を見出した俺は、すぐに「先生!」と壁際の椅子に腰かけて見守っていた手島先生に声をかけたのだった。


「課題曲に合わせて選ぶつもりでしたが……」


「それでは先生は今のカサキタにとって、どんな自由曲がいいと思っていらっしゃいますか?」


「……わかりました」


 先生はゆっくりと立ち上がる。そして机の上に置かれていた手提げバッグから1枚のCDを取り出すと、そのケースとジャケットを部員たちに見せつけたのだった。


「今の皆さんに一番ふさわしいと思うのは、この曲です。『伝説のアイルランド』」


「アイルランド?」


「国の名前だよね? たしか……ブラジルの横あたり?」


「全然違う」


 たちまち部員たちがざわつくものの、先生はいつもの微笑みを向けてケースを掲げるばかりだった。


 俺にとってもこの曲はほとんど知らない。タイトルだけならどこかで聞いた気もするけれど、曲として聴いたことはたぶん無いなぁ。


 やがて先生は白魚のような指でCDをケースから取り出すと、先ほど課題曲を流していたCDラジカセにディスクをセットする。そして再生ボタンが押されると、あんなにざわついていた部員たちも一斉にしんと静まり返ってしまったのだった。


 しばらくして聞こえてきたのは、バンドすべての楽器による大音量のハーモニー。そこにトランペットを中心とした勇壮な旋律が乗っかり、これから始まる壮大な冒険を予感させる。


 しかしさっきから裏の方で聞こえてくるこの妙な金属音は……鎖だ! 重い鎖を小節の頭ごとに、持ち上げては落として音を鳴らしているんだ!


 この妙な不気味ささえも孕んだ力強い出だしは割とすぐに過ぎ去る。そこからは一転、まるで土着の民族音楽を思わせる、トムトムの重みのある打音が鳴り響き、不安を拭い去れぬままに曲が展開される。


 その力強い打楽器を押し退けるように、スピーカーから鳴り響いたのは、耳を優しく撫でる、草笛にも似た不思議な音色だった。


「これ……オーボエ?」


 松子がはっと目を大きく開いて漏らした。打楽器をはじめ僅かな楽器しか鳴らされないこの場面、オーボエは終始忙しそうにアイルランド民謡を思わせる主旋律を奏で続けていた。


 うちでオーボエパートはただひとり、松子の妹で1年生の結月ちゃんだけだ。そのことに一早く気付いた部員たちが、結月ちゃんにばっと顔を向ける。


「へえ、これ吹くんだー」


 だが当の本人は周囲のことなどまるで気にも留めていない様子で、CDラジカセから聞こえてくるオーボエの音を拾って両手の指を動かしていた。


 さすがは音楽の天才、俺たちが心配する必要はまるで無かったようで、周囲の部員たちはほっと安堵の息を音もたてず吐き出していた。


 しかし序盤にこんなオーボエソロのある曲を選ぶとは、先生も冒険したものだ。


 本来コンクールでは厳正なる審査を行うべきなのだが、長い曲をずっと真剣に聞いているのは審査員にとってもなかなかに骨の折れることだろう。


 だからこそ吹奏楽界隈では、序盤と終盤に特に力を入れる方が審査員からの印象が良くなるよという迷信とも裏技ともとれる言い伝えが、まことしやかに囁かれている。もちろん中盤も決して手は抜けないのだが、第一印象と最後の余韻は評価の上で大きく引きずられるものだ。これは審査員だけでなく、他校の生徒やお客さんにとっても同様のことで、俺自身も強豪校の演奏を思い出す際はどうしても最初の出だしや序盤の主旋律で目立つ場面がぱっと思い浮かぶ。


 そんなバンド全体のカラーを左右する大切な序盤に、1年生のオーボエをぶち込むなんて。それはつまり、手島先生はこの曲を結月ちゃんという天才のために選んでいることを暗に意味していた。


 やがてオーボエの主旋律を追いかけるように他の楽器が加わり、ホルンやアルトサックスなどが入れ替わり立ち代わりでメロディーのバトンを受け取り、曲は移り変わる四季のごとく様々な表情を見せて進む。


 そして最後は割れんばかりの大音量で、最高潮に盛り上がったまま7分弱の演奏が終えられたのだった。


 10秒ほどの間、呼吸をすることも憚られるほど部室は沈黙に包まれていた。あまりに壮大、そして一度聴いただけでは覚えきれないほど難解。明確なメロディーラインを持った課題曲とは正反対の、本気で上位を狙っているんだぞという意思の伝わる選曲だった。


「先生、ありがとうございます」


 だがいつまでも曲に圧倒されていては話が進まない。俺はまだ耳の中でオーボエの音色を反芻しながらも先生に一礼すると「みんな!」と部員たちに呼びかけたのだった。


「この曲を自由曲にするなら、課題曲はどっちがいいだろう? それをよく考えた上で、もう1回投票をお願いします!」

参考音源


『伝説のアイルランド』

https://www.youtube.com/watch?v=IiDG6xRTw9U

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