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第二十五章その3 中3、それは受験の年

「ただいまー」


 夕方、吹奏楽祭から帰宅した俺は、母さんの「おかえりー」の声を聞きながらリュックを外し、皮張りのソファにぽいっと放り投げる。そしてどさっと、腰を下ろしてソファに身体を沈み込ませたのだった。


 後輩の前では余裕ぶっこいていたとはいえ、やっぱ本番は疲れるものだ。


「すぐご飯にするから、さっさと着替えてきなさい」


「はーい」


 口先ではそう答えつつも、俺はリモコンを手に取ってテレビの電源を入れる。ちょうど映し出された夕方のワイドショーでは、今年開催されるアテネ五輪に向けての特集が組まれていた。何でもこのアテネ大会からは、女子レスリングが競技として正式に加わるのだとか。


「ところであんた、あれはどうするの?」


 不意に話しかけてきた母さんに、俺は「あれって?」とテレビを見ながら答えた。


「ほらあれよ、塾のこと」


「ああ、あれね」


 そしてようやく、ずぶずぶとソファに埋もれていた身体を起こして立ち上がったのだった。


 吹奏楽部の活動もだが、ここ最近、俺は塾選びについても頭を悩ませていた。


 吹奏楽の強豪にして関西有数の進学校である東寺町高校を第一志望に掲げてはいるものの、どうせ受験まではまだ9カ月もあるんだし、それにコンクールもあるのに部活疎かにできないし……などと考えると、まだ塾に入らなくてもいいのでは? などと軽く考えてしまう。


 だがそんな甘ったれた考えなど、いとも簡単に打ち砕かれてしまう。実は先日、近くの学習塾が主催する判定模試を受けてみたのだ。


 その結果は散々なものだった。東寺町高校などもってのほか、滑り止めと考えていた私立ですら合格の見込めるB判定には遠く及ばず、それどころか大半の科目で偏差値50を割る始末だ。


 一応は学年でも上位1割に食い込めている俺にとっては、大敗に等しいショックだった。そもそも出されている問題が陰湿すぎる。わざとミスリードするようなひっかけがあったり、公立学校の教科書ではまず載っていないような人名まで登場しているのだ。


 普通に学校の勉強をこなすだけでは足りない。以前、三者面談で先生が「東寺町を目指すなら、塾に通ってそれ用の対策をしなさい」と言っていたが、その意味が身をもって理解できたよ。


 だからこそ塾に入って受験対策に努めなくてはならないのだが、それは同時に部活の練習時間が削られることも意味する。特にこの夏はみんな、関西大会を目指してかつてないほど本気になっている。せっかくモチベーションが上がっているのに、副部長の俺がそんな中途半端な立ち位置で良いものだろうか。


 ああもう、もしもカサキタに手島先生が来ないでまともに練習もしないままでいたら、こんな悩みも生まれ得なかったかもしれないのに……。




 翌日の日曜日、吹奏楽祭が終わったばかりだというのに、カサキタの校舎では楽器の音が鳴り響いていた。


 明日月曜からは5月末に行われる中間テスト対策のため、部活がすべて休みになる。今日はその狭間の、貴重な練習時間だった。


 昨日の『コヴィントン広場』の反省を活かし、徹底して基礎練から鍛えなおす部員たち。遠くから聞こえるそれらの音を聞きながら、俺と徳森さん、そして手島先生の3人は、楽器と楽譜であふれ返る音楽準備室で小さな円を作って話し込んでいた。


「コンクールの曲……どうしようか?」


 徳森さんがカールした髪に覆われた頭をぽりぽりと掻いた。


 人数が30を超えた今年、カサキタは夏のコンクールにはAの部で出場する。そのため俺たちは課題曲、自由曲の2曲を選ぶ必要があった。


「自由曲はある程度絞っています。あとは他の学校に連絡を入れて、楽譜を貸していただけるか相談しているところです」


 手島先生は候補曲を書き出したルーズリーフに目を落としながら微笑んで答えた。


 楽譜というのは意外と高い。特に海外の出版社が販売する吹奏楽オリジナル曲の場合、一曲だけで3、4万円するものも多々ある。そのため近くの学校や吹奏楽団との楽譜シェアは、予算の乏しいスクールバンドにおいては頻繫に見られることだ。そしてこういう時に、顧問の顔の広さがものを言うのだとか。


「せっかくカサキタも初めて挑む課題曲なんだしさぁ、どれ吹くかはみんなで決めたくない?」


 俺に目配せする徳森さん。たしかにそうだなと俺は頷き返し、すぐさま「先生」と切り出した。


「自由曲は先生にお任せしますので、課題曲は部員たちで決めてもよろしいでしょうか?」


 途端、手島先生は口に手を当てて考え込んだ。コンクールという大切な場面、本来ならバンドの編成や得意不得意に合わせて曲目を選ぶべきところだが、1曲だけとはいえまだ経験の浅い中学生に任せて良いものかと悩んでいるのだろう。


 俺が先生に向かってこんな無茶なお願いをしている理由は、今年の課題曲にある。というのもAの部での出場が確定して以降、部員たちの間ではどの課題曲を演奏したいかの言い争いがあちこちで勃発していたのだ。


 特に人気なのは『吹奏楽のための「風之舞」』と『エアーズ』。今年初めに課題曲の参考演奏CDを部室で聴いて、いずれも大絶賛だった2曲だ。


 あの時はまさか自分たちが課題曲を吹くことになるとは思ってもいなかったために、今年は課題曲の当たり年だね、程度で流してしまっていた。だが現在、こっちがいい、いやあっちがいいと実質この2曲で部がまっぷたつに分かれている。


 そんな部員たちのことを考えると、どちらか一方だけを採用することはできなかった。下手に振る舞って半数の想いを蔑ろにしてしまえば、カサキタ吹奏楽部としても大きな禍根を残すかもしれない。


 だがやがて、先生はいつもの微笑みを俺たちに向ける。そして「ええ、私もそれが皆さんにとって一番良いことだと思います」と俺の提案を受け入れてくれたのだった。


「ありがとうございます!」


 俺と徳森部長はそろって頭を下げる。コンクールに向けて大きな前進だった。


「自由曲は課題曲ごとに合わせていくつか考えています。ですからおふたりは課題曲、どれをやりたいのか皆さんと話し合ってみてください」

さあ、みんなはどっちが好きかなー?


『吹奏楽のための「風之舞」』

https://www.youtube.com/watch?v=pmO9oeiRYI8


『エアーズ』

https://www.youtube.com/watch?v=3_jt7W1ylFI

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