第二十四章その4 低音の醍醐味
翌日、各自パートごとに分かれて個人練習を進めていた最中のことだった。
「呼ばれてきたよー」
「ロッキーロードのためにー」
低音パートの練習場である1年学年室の引き戸がコンコンとノックされたかと思うと、徳森さんに工藤さんにと別パートの部員が楽器を手にしたままぞろぞろと部屋に入り込んできたのだ。
トランペットだけでない。サックスにフルート、クラリネットと主にメロディーラインを担当するパートも勢ぞろいしている。その総数は2、3年生を中心に、15人近くにのぼっていた。
「みんな、来てくれてありがとー!」
吹いていたチューバを床に置いた宮本さんが、工藤さんに駆け寄って小さく手を打ち合わせる。この光景、マジ和むわ。
「うん、砂岡っちが奢ってくれるって言うからみんな来てくれたんだよ」
だがアルトサックス奏者の口から放たれた不穏な一言に、俺は間髪入れず「おいおい待て待て、想定より倍くらい増えてるぞ!?」と割り込んだ。
「あの、先輩……?」
突然の訪問客に、古川さんはユーフォを持ったまま、そわそわと落ち着かない様子で俺に目を向ける。まだろくに話したことも無い別パートの先輩たちが現れ、緊張と不安とで戸惑っているようだ。
「そうそう、今日は1年のみんなもいっしょになって、ここにいるメンバーで音を合わせてみようって決めていたんだ」
ぽかんとする後輩たちの前に立った俺は、高らかに言い放つ。チューバのハッタヤこと小島君も弦バスの佐竹さんも、同じように絶句して固まっている。
「パートの楽譜だけだとわかりづらいから、みんなにはどんな曲か一緒に吹いて覚えてもらいたいんだ。ミスとか気にしなくていいから、とりあえず前半だけでもやってみようよ」
「緊張します……」
小島君が苦笑いを浮かべる。1年生はまだ手島先生の指揮による全体合奏を経験していない。そんな段階でこれほどの大勢で合わせることになるとは、思ってもいなかっただろう。
「まだ早いような気がしますけど……」
指を間違えないか心配なのだろう、しきりに左手を動かして弦を押さえる佐竹さんに、松子が「だいじょーぶだいじょーぶ」と能天気な声をかける。
やがて部員たちは机を動かし、大き目のスペースを確保して半円を作る。吹奏楽部のほぼ半数が集まったこの集団、タイミングを合わせるのも大変なので昨日と同様宮本さんがタクトを持って指揮者を務めることとなった。
「それじゃ頭から、ちょっとゆっくり目でいくよ。いち、にぃ、さん、し!」
1年生にもわかりやすいようにという配慮だろう、宮本さんはその小さな身体いっぱいにタクトを振って俺たちにリズムを伝える。
そして冒頭一発目、チューバをはじめとした低音パートが音を伸ばし、1小節後にはトランペットらによるファンファーレを彷彿させるような華やかな一節がかぶせられた。そこから一旦落ち着き、俺たち低音が4分音符のタンギングを刻む音だけが室内に残る。
それから2小節の後、クラリネットやトランペットによる軽快なメロディーラインが奏でられ始めた。この曲序盤で最も耳に残りやすいフレーズで、これを聴くと自然と足踏みしてリズムを取ってしまいたくなる。
ここからはめまぐるしく音が上下して、16分音符を繰り返しながら金管木管の高音楽器によりメロディーラインが紡ぎ出される。その流れるような展開の裏で、俺たちは常に伴奏を続けているのだった。
主旋律が印象に残りやすい曲だけに、伴奏までしっかりと聞けている人はそう多くないだろう。そもそも主旋律より目立たないよう少し控え目で演奏しなくてはならないので、聞く側からすれば本当に演奏しているのかどうかすら疑わしいレベルだ。
だがこれが吹く側の席に立つと一変、伴奏という役割が如何に重要か思い知らされる。主旋律を吹く奏者は指揮者を見るのは当然だが、同時に伴奏を聞きながら最適なタイミングを合わせているのだ。これは案外、伴奏する側にも「あ、今ペットが俺の音を聴いているな」などと察せられるもので、まるで周りが自分の演奏に合わせてくれているように感じることも少なくない。
特に伴奏の多い低音はそれが顕著だ。メロディーの裏で奏でられる様々な音は、曲そのものの厚みを増すだけでなく、弾き手にとっても大切な合図として機能する。
特に途中のリタルダンドで全体のテンポが徐々にゆっくりと落ちて皆が和音を伸ばす場面では低音パートだけが違ったリズムを奏でるので、まるで全体の指揮を自分が代わりに勤めているような気分を楽しめる。
自分の手のひらの上でみんなを転がすという快感。楽団の影の支配者にでもなったこの妙な気持ちの良さこそ、低音の醍醐味なのだ。
たしかに傍から聴いてもそんな目立つものではないと感じるだろう。だが聞き手にとっても奏者にとっても、あるか無いかでは全然違う、それが伴奏に徹する低音というものだ。
「こんな感じなんですね、すっごい吹きやすいです!」
やがて何度か繰り返したところで、トランペットの1年生が目を輝かせて言った。彼女も低音の伴奏を聞きながらの演奏は初めてのようで、この練習を新鮮な気分で臨むことができたらしい。
「でしょ? やっぱパート練も大事だけど、他の楽器がどんなことしているのか知ると違うからね!」
徳森さんがご機嫌な様子で後輩に話しかける最中、俺はちらりと隣に目を向ける。
そこにいた古川さんは、いつもの今ひとつ練習に身が入らない雰囲気とはまるでかけ離れていた。今日の彼女は興奮したように頬を紅潮させ、譜面台の上に開かれた楽譜に顔を近づけて一音一音食い入るように見つめていたのだ。
良かった。俺は音に出さず、ほっと安堵の息を吐いた。
俺がなぜユーフォをやめられないのか、その理由をついに古川さんにも気付いてもらうことができたようだ。
「じゃあ砂岡、ダブルチーズバーガーセットにアップルパイ、もちろん全部Lサイズでお願いねー」
「おい、いつの間にオプション増えてんだよ!?」
音合わせ後、徳森さんら10数名はそう言い残して部屋を立ち去っていった。知らん間に奢る対象が倍増している……俺の財布、マジですっからかんになるよ。
「先輩」
ずーんと項垂れる俺に、背中から古川さんの声がかけられる。振り返ると、ちょっと気恥ずかしそうな、それでいて爽やかな表情の後輩がユーフォをかまえて立っていたのだった。
「私、とんだ勘違いしてました……低音って、こんなに楽しかったんですね」
そうしみじみと話しながら、彼女は3本ピストンのユーフォニアムをぎゅっと身体に抱き寄せた。まるでかけがえのない、心の底から信頼し合っている相棒か友達のように。




