第二十四章その3 はじめての音合わせ
「すげえなんてもんじゃねえぞ、あたしの演奏一度聞いただけでそっくりそのままコピーしちまったんだ! あたしが何年もかけてようやくできたことを、ほんの1ヶ月足らずで身につけちまった!」
興奮してまくしたてる水上さんの声は、部室の外まで漏れ出ていた。それを聞く手島先生が「でしょ?」と相槌を打ち返すと、水上さんはさらにヒートアップして続ける。
そんな妙齢の女性ふたりの会話を、俺たち低音パートは扉に側頭部を押し当て、呼吸すらも止めて聞き耳を立てていた。
内容はもちろん、松子の妹の結月ちゃんのことだ。持ち前の音楽センスが後押ししたとはいえ、結月ちゃんのオーボエは初心者の範疇を軽く逸脱していた。そのオーバースペックぶりを間近で見せつけられた水上さんの中で、何らかのスイッチが入ってしまったらしい。
「オーボエ奏者から見ても、お前の妹の才能は群を抜いているってわけだな」
からかうように小さく言うと、松子は「いやぁ、鼻が高い高ーい」と頭をこすりながらにやついた。わざと大げさに振る舞っているのかもしれないが、少なくとも今日に限っては本心から言っているように思えた。
「松井さん、すごいなぁ。僕も早くチューバ吹けるようになって、みんなの演奏を支えたいです」
「ハッタヤ、頼もしー!」
弦バス1年の佐竹さんが、ハッタヤこと小島君の大きな背中をペしんと叩く。やっぱ彼女、何かスポーツやっていたんだろうな、手首のスナップが激しくてめちゃくちゃ良い音したぞ。
「それじゃあせっかくやる気も出てきたとこだし、『コヴィントン広場』の練習に移ろうか」
穏やかに提案する宮本さんに、後輩たちは「はい!」と声をそろえ来た道を戻った。
低音パートの練習場こと1年学年室に戻ってきた俺たちは、早速楽譜を広げると5月の吹奏楽祭に向けて各自曲の練習を始める。この曲はユーフォもチューバも、低音楽器は大部分が伴奏だ。だからこの部屋にいる面々の練習だけ聞いても、傍からは何の曲かさっぱりわからないだろう。
「メトに合わせて休符もちゃんと数えてね。休符は休んでいいって意味じゃないよー」
「はい、宮本先輩!」
個人練習と言いながらも、基本は3年生が1年生に付きっきりで教える時間が大半だ。やはりまだまだ楽器初心者、吹けば必ず疑問にぶつかるもので、音楽記号の意味や演奏のコツまであらゆる質問が飛んでくる。特に学校の授業でしか音楽に触れてこなかった佐竹さんにとっては楽譜を読んで音にするという経験自体がほとんど初めてのようなもので、松子に付き添われながらじっくり時間をかけて弦バスの正しいリズムを身体に覚えさせていた。
一方、過去にピアノを習っていた古川さんは遠目で楽譜を眺めつつも拍を数えて指を動かし、それと同じタイミングでユーフォに息を吹き込んでいた。まだ音符をパッと見てすぐに運指を押さえるほどまで覚えきれていないので一音ごとに「1、3」だの「2、3」だのと押さえるべきピストンの番号がシャーペンで書き込まれているものの、演奏そのものはかなりスムーズだ。
「じゃあだいぶ覚えてきたところだし、一回ここにいるみんなで合わせてみよっか!」
宮本さんが楽器を置き、どこから持ってきたのか白い指揮棒を持ち上げる。
「いいね、やろやろー!」
「できるかなぁ……」
テンションを上げる俺と松子ら3年生組とは対照的に、小島君と佐竹さんが顔を引きつらせる。そんな低音パートのようすを、古川さんは遠目で見つめていた。
そこから俺たちは椅子と譜面台を持って集まり、宮本さんの指揮で低音パートによる音合わせを始めたのだった。
ユーフォ2人、チューバ1人、弦バス2人の合計5人それぞれが楽器を奏でる。このメンバ-では主旋律も一切出てこないが、それでも違う音を聞きながらの演奏はひとりで黙々と吹き続けるのとはわけが違う。
不慣れな1年はまだ狙った音を鳴らすのに精いっぱいで、他の音を聞いて合わせるというところまではなかなか気が回らないようだ。
だがそれくらいのミスなんてまるで気にいないようすで、宮本さんは楽譜通りのリズムよりだいぶゆっくりめでタクトを振りながら曲を続けたのだった。
その良い意味でゆるゆるな雰囲気に、身構えていた1年生も肩透かしを食らってしまったようだ。吹ける吹けないは置いといて、低音パート全体でどのような展開がなされるのかを楽譜をなぞりながら確認していた。
「そうそう、いい感じ!」
曲の前半3分の1あたり、テンポが一気に緩やかになって曲調が一変する直前で、宮本さんは音合わせを終了させた。とりあえず今日はここまでといったところだろう。
「音合わせるのって難しいけど、楽しいですね」
なんとか最後まで食らいついていたハッタヤ君は、緊張が解けたようで表情を崩す。
「私、全然手が追い付いてなかったです……」
「まだ始めたばっかりなんだし、焦らずのんびりやっていこうよー」
悔しそうな表情の佐竹さんを、松子は横から優しく慰める。音楽の天才とはいえ家に妹がいるからか、後輩に対する松子の態度は基本的に穏やかで、たとえパートが違っても親身になって接しているようすはずっと前から目にしていた。
「それにしても古川さんすごいよ、ノーミスでよく吹けたね!」
この演奏終わりのタイミングを見計らい、俺は隣に座るポニーテールの1年生に振り向いた。
「はあ、どうも」
そう言って小さく頷き返す。反応は今ひとつだが、古川さんのユーフォはしっかりと指が回っており、ちゃんと楽譜通りの音も出せている。この時期の1年生としては及第点をはるかに超え、100点満点に近いスコアだ。
むしろ小さな身体をいっぱいに使ってタクトを振る宮本さんが殺人級に可愛すぎるせいで、気を取られていた俺の方がアホみたいなミスしていた気がするよ。
「音合わせるのって、いい気分だろ?」
これで彼女もユーフォの良さを分かってくれただろう。そんな淡い期待を抱いて俺は尋ねたものの、返ってきたのはこれまでにないほど複雑な表情だった。
「ええ、ですがなんというか……これで本当に音楽になるのかなって不安です」
まだ釈然としない様子の古川さんに、俺はつい「不安?」と尋ね返してしまった。俺だけではない、松子も宮本さんも声には出さなかったものの、ぐいっと顔を近づけて古川さんの反応に興味を示した。
「低音が主旋律を支えるっての、理屈ではわかります……ですが不安なんです。自分、いつまでもトランペットに未練があって……このままユーフォ演奏し続けても、楽しめるのかどうかって」
ぼそぼそと申し訳なさそうに話す古川さんに、俺はうーんと頭を抱えてしまった。
古川さんは生真面目に見えて、実は案外目立ちたがり屋な性分なのだろう。きっと吹奏楽部に入った後はトランペットで華やかなメロディーを奏でる、そんな自身の姿を思い描いていたに違いない。
だが編成の都合でユーフォに回され、しかもこの曲にはユーフォのメロディーラインもほぼ無いとくれば、フラストレーションも募る一方であろうことは容易に想像できる。
チューバに一目惚れしたハッタヤのように、最初からみんなをサポートしたいという熱意があるわけでもない。古川さんの精神は、すでにユーフォを吹くだけでは晴れないレベルにまで落ち込んでいた。
「ちょっくら失礼」
もうこうなるとあれしかない。百聞は一見に如かず、鯛も鮃も食べて初めて美味さがわかるもの。
俺は楽器を置き、学年室を飛び出す。そして様々な楽器の音が響く廊下を駆け足で突き進むと、突き当たりの音楽室の扉を、蹴破るようにして開けたのだった。
「うん、どしたの砂岡ー?」
バタンと勢いよく開けたおかげで、中で練習をしていた部員全員がこちらに顔を向ける。ここ音楽室では、徳森さんらトランペットパートの4人が練習していた。
また他パートと行う練習の打ち合わせでもしていたのだろう、アルトサックスパート3年の工藤さんも楽譜だけを持って立っていた。
「実はちょっと頼みごとがありまして……」
俺は両手を合わせて平身低頭しながら、徳森さんにいくつかの要件を伝えた。
こちらからの頼みを全部聞いた徳森さんは、しばしうーんと考え込む。だがやがて、にやっと不敵な笑みを浮かべると「マクドのダブルチーズバーガーセットで手を打つよ」と承諾したのだった。
「ほんじゃあたし、ロッキーロード」
すかさず工藤さんも乗っかると、後はなし崩し的にその場にいた2年生、挙句の果てには1年生までもが「先輩、私はスガキヤのラーメンで」「それじゃあ……コーヒー牛乳」とどさくさに紛れて注文する。
チクショウ、こいつら全員、将来悪徳商売人になりそうだな。でも背に腹は代えられねぇ。
「わかった、いつか食わしてやるから」
「やりぃ!」
巡ってきたタダ飯チャンスに、沸き立つトランペット&アルトサックスパート。本当に現金な連中だな。
「砂岡っち、嘘吐いたら針千本どころか、針1万本呑んでもらうからねー!」
「1万ダメージだぞ、1万ダメージ!」
「はいはい、わかったよ!」
廊下まで出た俺は、音楽室の扉をバタンと閉じる。勢いで約束してしまったけれど、まあこれで古川さんの不安を解消することができるかもしれないと思うと安いものだ。
だがそこから5歩ほど歩いたあたりで、俺はピタリと足を止めた。
やべえ、しばらくはジャンプもファミ通も買えないじゃん……もっと他に安く済ます方法、あったのでは!?
後悔の念とはその時はまったく気付かずとも、どうしようもなくなってから強く押し寄せてくるもの。15歳まであと1カ月という若さにして、俺はなぜ人間が思いのほか安請け合いしてしまうかを身をもって思い知ったのだった。




