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第二十三章その4 先生の野望

「松井さん、松井結月さん」


 翌日、放課後の試奏会の真っ最中のことだった。音楽室に顔を出した手島先生が、まだ1年生で正式に入部届すら出していない松子の妹に声をかけたのだ。


「はい?」


 ちょうどフルートに息を吹き込んでいた松井妹が、ぬぼーっとした顔を上げて一本調子の声で返す。兄弟姉妹がいる場合はフルネームで呼ばないと誰のこっちゃわからないので面倒だな。


「すみません、ちょっとこちらまで来てくださいますか?」


「わかりました」


 使っていたフルートを2年生の部員に返し、誘われるがまま音楽室の外に連れ出される結月ちゃん。吹き手のいなくなったフルートにはすぐに別の子が手を伸ばし、試奏会は何事も無かったように続けられたのだった。


 そこからしばらく、部員たちは見学に来た1年生に楽器の鳴らし方を熱心に教える。そして例によって例のごとく開店休業の低音パート一同は、賑やかな音楽室の様子をぼげーっと眺めていた。


 だがそれは突然のことだった。


 プゥーっと耳に慣れない奇妙な音が突如、音楽室の外から聞こえてきたのだ。


 ちょっと気の抜けたような、それでいて心地良い優しい音色。音域はクラリネットやアルトサックスに似ているが、それらよりもっと柔らかい印象を受ける。


「今の音、何? 楽器?」


 急に聞こえてきた不思議な音に、音楽室がざわつく。少なくともこの部屋の誰かが鳴らした音ではないようだ。


「……もしかして」


 まさかと俺は立ち上がり、駆け足で音楽室を飛び出した。


「ウチもウチも!」


「あ、ずるい!」


 後ろには松子と宮本さんも続く。こういう時、暇なパートは便利だな。


 音楽室を出てしばらく廊下を突き進むと、吹奏楽部の部室がある。今はパーカッションパートがティンパニーやマリンバの試奏会を開いているはずだが、その音は聞こえず、引き戸が半分開かれていた。


 妙な胸騒ぎに駆られ、俺たち低音3人組は部室を覗き込む。


「そうそう、今の感じですよ」


 そこにいたのは実に会心の出来といった笑みの手島先生。そこに向かい合う形で、椅子に腰かけた結月ちゃんが一本の黒い縦笛をかまえていたのだった。


 形は一見するとクラリネットにも似ている。だがその口元は非常に細長いもので頼りなく、ちょっとでも衝撃を加えれば簡単にぺきっと折れてしまいそうだ。そして黒い本体を取り囲む金属製の構造についても、クラリネットより一層複雑で細かいパーツがまるで血管のようにびっしりと張り巡らされていた。


「先生、それってオーボエですか?」


 興味に負けて、俺はつい声をかける。


 オーボエとは乾燥させた葦を削って作ったダブルリードを咥えて音を鳴らす木管楽器だ。一見するとクラリネットのようだが、マウスピースに1枚のリードを固定して咥えるクラリネットやサックスとは口元が異なる。


「ええ、サウンドに広がりが出るので、いつか編成に入れてみたかったのですよ。買っておいてよかったです」


 先生はこちらを振り向くなり答える。その顔は興奮に紅潮しているように見えた。


「買っておいてって……先生、専門オーボエでしたっけ?」


「いいえ、クラリネットです。オーボエは置いてない学校も多いので、いつか使える日のためにって準備だけしておいたのですよ」


 マジかよ、そんな気楽に買えるものでもなかろうに……。


 オーボエは大量生産が難しく、1本1本職人の手作りなので安くても40万円は下らない。学校もそこまで高価な楽器は用意しきれないだろう。


「松井さん、結月さんには是非ともオーボエを担当してもらいたいと思います」


「え、い、妹にですか?」


 興奮を抑え込んで目を輝かせる先生に、松子は驚きの顔を向けた。途端、先生はスイッチが入ったようにまくしたてる。


「はい、結月さんほどのセンスの持ち主でしたら、オーボエも難なく吹きこなしてしまうでしょう。これは他校には無いカサキタならではの強みになります。それに奏者が少ないのに目立つ機会は多い、これほど美味しい楽器はそうありませんよ」


 オーボエはその突き抜けるような独特な音色から、主旋律を任されることが非常に多い。ここ一番の見せ場ではソロを担い、しっとりとした響きで曲を彩る楽器界の演技派俳優だ。達人の奏でるオーボエは、朝起きてから夜寝るまでずっと聞いていても耳を飽きさせないだろう。


 しかしダブルリードを吹きこなすまでの難しさ、気を抜けばすぐに壊れてしまう繊細さ、そして楽器代そのものはもちろんこまめにリードを買い換えなくてはならないランニングコストの悪さから、学生にとっては気軽に手を出しにくいハードルの高い楽器でもある。


 中高では吹奏楽部にオーボエ奏者がいないということも、何ら珍しくはない。俺が前にいた西賀茂中でも、オーボエパートは長らく空席だった。


「結月はそれでいい?」


 先生の熱意に圧倒され、確認するように妹に尋ねる松子。


「うん、オーボエはオケでもソロ吹き放題だから」


 結月ちゃんは即座に頷き返した。百面相の姉とは違い、のぺっと表情の変化に乏しく口調からも感情を読み取りにくい子だが、この時の結月ちゃんは心なしか心底楽しんでいるように思えた。




「それでは初めてですが、『コヴィントン広場』合わせてみましょうか」


 試奏会を早めに終わらせ、吹奏楽部員も見学の1年生も全員が部室まで移動する。


 部室の壁際や部屋の外から1年生が見守る中、2、3年生は合奏の隊形に並び、それぞれの楽器をかまえて指揮台に立つ手島先生に視線を向けていた。


「では1小節目から行きましょう。ワン、ツー」


 4分の4拍子で振られるタクトに合わせ、スネアドラムとチャイムの共演を皮切りに、一斉に他の楽器が加わって音楽が始まる。


 序盤からトランペットやフルートら高音を中心とした華やかな旋律が高らかに鳴らされ、その存在感をこれでもかとアピールする。一方のユーフォら中低音は裏で伴奏のリズムを刻み、時折裏メロのユニゾンに加わりながら曲を盛り立てていた。


 元々明朗で軽快なメロディーラインだが、下で他の楽器が主旋律を支えてくれるおかげで、より一層その魅力が引き立てられるものだ。この曲を演奏すると無駄な楽器などひとつも無い、それぞれのパートに明確な役割があることを今さらながら思い知らされる。


「トランペット、もうちょっと抑えてください。そしてここのリタルダンドは、皆さんもっと溜めてください」


 いつもとは違って大勢の視線に見つめられながらも、先生の指導は普段と変わらなかった。丁寧で、的確な指摘がバシバシと飛ばされる。見学の1年生も合奏がどんなものか興味あるようで、練習の様子をじっと部室の内外から真剣に目を向けていた。


「ペット、ここの部分だけ一人ずつお願いします」


 そうそう合奏といえばこれ、「ひとりずつ吹いて」だよな。部員全員がしんと静まる中、ひとりだけ演奏させられるという地獄の時間。


 みんなの演奏を止めているという罪悪感、ここでミスして大恥晒したらどうしようというプレッシャーで、奏者のメンタルをゴリゴリ削ってくる伝統の拷問だ。


 先生の指示に従い、徳森さんがひとり高らかにトランペットを響かせる。さすが強心臓の持ち主、まだ練習が浅いこの曲でも自信満々に吹きこなしていた。


 俺はその堂々とした姿にぼうっと目を向ける。その時、壁際に立った1年生のひとりが、殊更熱心に部長の演奏を見つめていることに気付いたのだった。


 後ろ髪をポニーテールにまとめ、きりっとした目つきの利発でありながら活動的な雰囲気を放つ女子……そうだ、あの子が古川さんだった。


 第三志望ながら唯一アンケートにユーフォを書いてくれた貴重な1年生だ。もしかしたら彼女が俺のパートを継いでくれるかと思うと、これより嬉しいことは無い。


 だが彼女の第一志望はあくまでトランペットのようで、徳森さんと金色に輝く楽器に熱い視線を送っている。まるで憧れの歌手がライブ会場でバラードを歌っているのに聞き入るファンのようだ。


 やっぱユーフォじゃこうはならんわな。トランペットの響きに隠れ、俺はひとり苦笑いを浮かべていた。




「吹いてて楽しい曲だったね」


 合奏が終わり1年生もいなくなった部室で、部員たちがそれぞれの楽器の手入れに励む。この1年で部員たちは大いに腕を上げたのだろう、初めての合奏とは思えないほど音がそろい、それぞれのパートをしっかりと吹き切っていた。


 ひとりで吹いても楽しいが、他と音を合わせる楽しみは合奏ならではだ。音に乗っかるのも支えるのも、それぞれ個人練習では味わえない面白さがある。


「そういえば……筒井君、1年は何人くらい入りそう?」


 ホルンのベルの内側をクリーニングクロスで丹念に拭いていた江口さんが、ティンパニーにカバーをかぶせていたたくちゃんに不意に尋ねる。


「もう13人は確定で、まだ数人は増えそう。決めていけるところから楽器も埋まり始めてるっぽい」


 2年生同士、フランクに話すたくちゃん。


「13人か、2年より多いんだな……」


 部員がどれだけ入るかは俺にとっても今一番気になるトピックだ。ふたりの会話を聞いて、楽器を磨きながらぼそっと漏らす。てことは今は2、3年生が19人だから……。


「……ん、ちょっと待てよ!?」


 そこで肝心なことに気付いた俺は、楽器の手入れの最中にも関わらずばっと立ち上がった。そんな奇行はもう見慣れてしまったのか、松子は「どったのー?」とコントラバスの手入れの手を止めずに声だけを投げかけた。


「部員、30人超えたぞ!」


「うん、それがどうか……あ!」


 松子も宮本さんもたくちゃんも、周りにいた全員が動かしていた手をぴたりと止めた。


 昨年、俺たちがコンクールで挑んだのは小編成の部。30人を下回るバンドのみ出場が認められ、自由曲1曲だけで評価されるレギュレーションだ。だが部員が30人以上になった場合、全員がコンクールのステージに立つのなら小編成の部に出ることはできない。


 そうなると俺たちが出るのはAの部。課題曲と自由曲を1曲ずつ、12分以内で演奏するという最大50人の大編成に挑むことになる。小編成とは違い全国大会も開かれる、吹奏楽コンクールの花形部門だ。


「私たち、課題曲吹けるんですかぁ!?」


 宇多さんが声を裏返す。


「うん、たぶん……今年の課題曲、どれがいいか考えとかないとな」


 ぼそりと俺が呟き返したその直後。


「いやったああああ!」


「よっしゃああああ!」


 まるで示し合わせていたかのように、部室にいた全員が歓声をあげて椅子から立ち上がる。全校生徒400人足らずと決して大きい学校ではないこのカサキタで、我ら吹奏楽部が一段高いステージへと上ることができた瞬間だった。

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