9.暖气
クリスマス会の日から、周りの雰囲気が変わった。周りというか、主にイリーナとジャスミンの周りがガラリと変わった。4人でどこにいても何をしていても声をかけられる二人。そのたびに俺とミンジュンはまたか、と苦笑い。すっかり人気ものになってしまった二人に、完全に置いていかれた。でも期末試験の時期でもあるので、逆に勉強に集中できそうだ。
午前中の授業が終わると、さっさと食堂で昼食を取り、そのまま寮に帰って机に向かった。別にどんな点数だろうが進級や資格には何の関係もないのだが、ここでどんな点数を取るかで次の半年のクラスをどこにするのかある程度決められる基準になるので、中級班か高級班に上がれるようにモチベーションをそこに持っていった。
最近は本当に外が寒くて、外出する気にもなれない。いつもしていた散歩しながらの発音練習も、ここ最近サボり気味だ。しかしいつまでも床暖房の効いた部屋のなかにいると、それはそれで頭がボーッとしてきて勉強どころではない。そのため、今日は久しぶりに外での本読みをすることにした。
寮から出るとすぐに襲ってくる、刺すような凍った空気。一瞬で眠気が吹っ飛ぶ。今日はむずらしく雪が降っていないが、空はどんより曇り空。重たくて分厚い雲が、身体を自動的に寮の中へと押し戻した。やっぱり無理だわ。これ。
「阿进,怎么了?(進、どうしたの?)」
振り返るとそこには目元だけが出ているニカブ姿の女性。ニカブの上に重たそうなコートを2枚も重ね着している。
「Jasmin?」
「哈哈哈,对的。你根本不知道我是谁吧(ハハハ、そうだよ。誰だかわからなかったでしょ)」
目元だけしか見えていないから完全にわからなかったが、自分の名前を知っていてこういう服装をするっていうのは完全にジャスミンだなと推理していたが、大正解だったようだ。
「房间里的暖气太热了,但是外面太冷了,我不知道在哪里比较好(部屋の中は暑すぎるし、外は寒すぎて、どこにいれば良いのかわからなくて)」
「那你来我们的房间? 其实我的房间暖气坏了,只有几个小小的电热器。可能对你的情况很合适(じゃあ私達の部屋に来る? 実は部屋の暖房が壊れていて、小さい電気ストーブがいくつかあるだけだから、多分状況にあっていると思うよ)」
女子の部屋に行けるだなんて。願ってもないチャンスが突然到来した。しかも最近あまり一緒にいられなかったジャスミンの部屋だ。行かないわけがない。
ジャスミンはイリーナと一緒に住んでいる。あのクリスマス会以来声をかけられるのが多くて本当に疲れていたそうで、今日も食堂で声をかけられてしつこく付きまとまれたそうだ。たしかに期末試験が終わると今学期も終わりで、留学生によっては帰国しなきゃいけない場合があり、帰国までにジャスミンやイリーナと仲良くなっていたいということもあるのだろう。ジャスミンやイリーナからすれば、嬉しい悲鳴なのだろう。
今日はイリーナはお出かけ中か。部屋の中に入ると、程よい暖かさで満たされていた。女の子の部屋だからというのもあるが、ふんわり良い匂いがする。なんだか緊張してきた。
「坐吧,你可以用我的桌子。我在这里看书(座って。私の机を使ってくれていいから。私はここで勉強するから)」
ベッドに教科書を放って壁にもたれるジャスミンの姿を二度見した。あのニカブを脱いで、Tシャツと短パン姿になっている。隠していた綺麗な長い黒髪をガシガシと掻きながら、メガネを掛けていた。
「你什么时候换了衣服?(いつ着替えたの?)」
「不是换了,是脱了而已(着替えてないよ、脱いだだけ)」
そう言ってニコッとするジャスミン。なるほど、ニカブの下に元々着ていただけか。
「我想问一下,你们伊斯兰教的女生为什么要穿那些衣服?(質問なんだけど、なんでイスラム教徒の女性はそういうのを着なきゃいけないの?)」
「因为女生是宝石(女性は宝石だからだよ)」
女性が宝石だから? 一体どういう意味だろう。
「在伊斯兰教的世界上,我们女生的身体是特别的存在。特别的时候以外,应该保护的存在。所以要穿(イスラム教の世界では、女性の身体は特別なもので、特別なとき以外、守らなければならないものだから、着なきゃいけない)」
「那特别的时候是什么时候?(じゃあ特別なときっていつ?)」
「不告诉你(教えない)」
「那现在我在的情况下,不要穿吗?(じゃあ、今俺がいるけど、着なくていいの?)」
ジャスミンは教科書で顔を隠して、それ以上の回答は応じてくれなかった。
多少モヤモヤしつつ、せっかくなので机を借りて勉強をしようとした。でも、やっぱり緊張して手につかなかった。それでも、せっかくだから勉強しているふりをしなくちゃと思って、簡単な文章を書いては消して、を繰り返した。
気付いたときには結構な時間が経っていたと思う。ジャスミンの方をちらっと見ると、さっきと体勢が全く変わっていない。集中しているんだな、と確信して、俺もしっかりしないと、と気合を入れ直した。
窓からの陽の差し方が変わってきた。人間やればできるもんで、あんなに集中できていなかったのが嘘みたいに、気づけば練習問題がどんどん進んでいた。環境のおかげか下心のおかげか、どちらにせよジャスミンのおかげであることに間違いない。
そう思ってまたチラッとジャスミンの方を見ると、やはり全く体勢が変わっていない。もしかして……と思い、こっそり近づいていくと、ロングの黒髪に隠れていたからわからなかったが、やはりうたた寝していた。暖房設備があるとはいえ薄着のまま寝てしまって体調を崩したらいけないので、起きないようにそっとそばにある布団をかけてあげようとした。その時。
「Oh! Sorry,打扰你们了(お邪魔しました)」
そう言って帰ってきたイリーナは、扉をそっと閉めた。
あ、やばい、勘違いされた。
男女がベッドの上で近づいているところに遭遇してしまったイリーナ。これは完全にそういうシーンだと想像されているだろう。
ジャスミンはというと、これはもう完全にうたた寝というより本格的なやつだ。日頃の疲れか寝息を立てて、起きる気配はない。そっとメガネを外し、布団をかけてあげると、なにか良い夢でも見ているのか、ジャスミンの口角が上がった。
「起床了?(起きた?)」
恐る恐る聞いてみる俺。ジャスミンの口角は上がったまま。
「起きてない……よね?」
大丈夫大丈夫、セーフセーフ。
そう言い聞かせながら、ずり落ちていくジャスミンの身体を支えようと手を伸ばした。初めて触れる柔らかい触感。もっと弾力があるものだと思っていたけど、実際には差し出した手がそのまま沈んでいってしまいそうで、急に恐ろしくなる。
ジャスミンの身体をそっと横にして、肩元まで布団を引っ張り、ジャスミンの身体を他の誰にも見せないようにした。女性の身体は特別で、守るべきものだから。俺が守らないと。いや、別に俺じゃなくても良いんだけど。いや、やっぱり俺じゃないと、俺が嫌なだけど。
ジャスミンがそう言っていたように、宝石のような綺麗な寝顔に、俺は一体どこを見たら良いのかわからず、ジャスミンが顔を隠すために使った本で、今度は自分の顔を隠した。もうジャスミンのことを直視できなくなっていた。
暖房の壊れた真冬の部屋の中で、じっとりと冷や汗をかいていた。