5.合同授業
留学生活もあっという間にふた月が過ぎた。相変わらずまだまだ日常生活を送るには電子辞書が必要で、流暢な中国語は話せない。それでも徐々に覚えた単語数は増え、意思疎通はだんだん上手くなってきたような気がしている。
ミンジュンとの朝練(早朝自習)、空き時間に外で散歩しながら教科書の文章を声に出して読むこと、ミンジュンのiPhoneのSiriに話しかけて発音練習すること、そしていつもの授業。しかし何より効果的だったのは、いつものメンバーとの楽しい会話だった。
やはり言語は実践あるのみ。その日に覚えた単語や文章を使って話すことを習慣化すると、どんどん頭に残ってくる。それに母国語である日本語を全く使わないせいか、その分中国語の蓄積がスムーズな気がする。
今日の授業は同じ初級班の隣のクラスの先生が用事でお休みということで、珍しく合同授業らしい。黒板の他には煉瓦色で木製の机と椅子しか無いような質素な教室に入ると、ジャスミンが自習していた。
「阿进,我们今天一起上课啊(進、私達今日一緒に授業ですよ)」
「是啊,一起啊(そうだよ、一緒だよ)」
小さな教室はすぐにいっぱいになった。見知らぬ留学生がどっと増えて、あちこちでにぎやかな様子。
今日のジャスミンは、頭だけはスカーフのようなもので巻いていて、それ以外は長袖のTシャツにジーンズと比較的ラフな格好。軽そうな羽織物を椅子にかけてその上にもたれているが、色にブルー系の統一感があるので引き締まっておしゃれに見える。
こういうときにそのファッションを褒めるような言葉がすっと浮かんでこない自分が少し嫌だったりもする。素直に褒められず周りを意識してしまうのは良くないくせだと自分でも思う。でもそれは今日は仕方がないのかもしれない。なぜなら、合同授業で珍しく他の日本人も同じ教室内にいるからだ。これまで関わってこなかった他の日本人留学生も一緒に授業を受けるようで、日本語で盛り上がっていた。
でもそれをうらやましいとは思わなかった。せっかく外国に来ていて外国語を勉強しているのに、なぜ日本人と日本語で話すのか。もったいないと思ってしまう。
無意識に日本人の方を向いていた俺に、ジャスミンは肩を叩いてきた。
「他们都是日本人吗? 你不要一起聊聊天?(彼らもみんな日本人ですか? あなたは一緒に話さなくていいの?)」
「不要不要,因为我在中国,所以我想用中文聊天(いいのいいの、私は今中国にいるから、中国語で話がしたい)」
「哇,好学生呀(わぁ、良い学生だね)」
そう言って微笑むジャスミンは、どこか嬉しそうでもあり、寂しげな様子。その後黙々と自習に励む彼女に負けじと、俺もボールペンを練習問題の解答欄に滑らせる。
「……我好羡慕你(私はあなたがうらやましい)」
お互い顔は机に向いている中、突然ジャスミンがぼそっとつぶやいた。
「为什么?(なぜ?)」
「因为你们日本人有很多人,所以如果有不明白的事情,可以用母语问一问,但是,约旦人是只有我一个人。不能逃避。有压力(あなた達日本人は多いから、わからないことがあれば母国語でちょっと聞くことができる。でも、ヨルダン人は私一人。逃げられない。プレッシャーがある)」
確かにそうかもしれない、と思った。
日常生活を送ることにおいて特に気に留めていなかったが、自分と同じ故郷出身者がいることは無意識のうちに安心感になっていたのかもしれない。日頃民族を意識することがない俺だが、ジャスミンにとっては同じ故郷や同じ民族など“同じものがある”ことが重要で、安心感につながっているのかもしれない。だから、俺はジャスミンに安心感を与えたいと思った。
「虽然约旦人是只有你一个,但是,你不是一个人。因为有我。如果你想用母语,你教给我你的母语吧。(ヨルダン人はあなた一人だけど、あなたはひとりじゃない。俺がいるからね。もしあなたが母国語を使いたいなら、あなたは私にあなたの母国語を教えて)」
あはは、と笑ったジャスミン。
「شُكْرًا(シュクラン)」
ヨルダンの言葉だろうか。何を言ったのかはわからなかったが、口元がさっきよりも上がっているような気がして、ちょっと嬉しくなった。
授業が始まると、先程までの騒がしさが一旦収まり、発音練習から単語の解説、そしてその単語を使って文章を作って発表といういつもの授業風景が戻ってきた。俺もジャスミンも予習済みなのでほぼ確認するだけのような状態。少し退屈になってきて、あくびしているジャスミンの教科書に今日の構文で落書きを始めた。
『我困得很(眠くてたまらない)』
するとジャスミンもニヤっと笑って返事を俺の教科書に書き始めた。
『无聊得要命(つまらなくて死にそう)』
負けじと俺も文章を考えてまたお返し。
『饿死了(お腹が空いて死にそう)』
そう言って頬を口内に吸い込み、白目にしてジャスミンに顔を向けると、とうとうジャスミンは吹き出した。
「茉莉花! 丸山进!」
それを見つけたおばちゃん先生はまるで小学生を相手にするかのように俺らを叱った。この感じ、なんだか懐かしいなと思いつつ二人で一緒に謝ると、ジャスミンも俺もニヤッと笑って机に突っ伏した。
ふと、ジャスミンがいる方から肩をツンツンされた。横目でそれを確認するとやっぱりジャスミンで、俺の教科書の方を指差している。その方向を見て、またクスリと笑いたくなった。
『老师生气了! 害怕得不得了!(先生怒った! 怖くてしょうがない!)』
懲りないやつだなぁと思いつつ、俺も懲りないやつなので、ジャスミンの教科書にこう返した。
『你如果做不好,就不得了了。(君はきちんとしないと,大変なことになるよ)』
いつだったか、ミンジュンと見た中国の映画かドラマで見たまんまの構文。それを知ってか知らずか、ジャスミンは口を隠して目で訴えてきた。
『你真的是个好学生呀~(あなたは本当に良い学生だね〜)』
そう言ってジャスミンはこの授業で初めて先生の方に顔を向けた。
実はこんなふうにバカやっているからこそ、比較的順調に単語も文法も覚えられているのではないかなと思う。自分で考えて文章を作れば作るほど上達スピードは早くなる。そんな気がするから、やはり実践あるのみなのだろう。
授業が終わり、バケツに入った水がひっくり返されたように教室から留学生たちが飛び出していく。俺もジャスミンも「饿死了(お腹が空いて死にそう)」「累死了(疲れて死にそう)」とつぶやきながら食堂に直行。今日もいつもどおりイリーナとミンジュンと合流して、一緒に食べた。
「你们国庆节的时候打算做什么?(みんな国慶節のときどうするの?)」
イリーナが唐突にそう聞いてきた。
そういえば、もうすぐ中国では国慶節の大型連休に突入する。特に予定は決めていなかったので、なにも無いと答えた。
「所以你在家里看书? 哇,还是你是个好学生呀(ということは、家で勉強するの? わぁ、やっぱり良い学生だね)」
今日何度目だろうか、ジャスミンはそう言ってクスクスと笑った。確かに一年しか無いのに中国の連休や祭日をあまり意識していなかったことは失態だ。イリーナは前からジャスミンと上海に遊びに行く予定を立てていたらしく、二人でその話で盛り上がっていた。ミンジュンは母国の韓国人の友だちが大連に遊びに来るらしく、その相手に忙しいのだとか。
じゃあ俺はやはり勉強して少しでもレベルを上げるか、どこか散歩でもしておくか。大連に来てもうふた月だが、まだまだ知らない場所も知らない店も多い。色々散策するのはありかもしれない。その日はそこで解散し、俺は寮に戻って大連で行くべき場所を色々検索してみることにした。
寮の入り口に着いたとき、この前購入した偽iPhoneにショートメッセージが届いた。ジャスミンからだった。
「这次不是故意,下次我们一起去吧!GO MEN(今回はわざとじゃないから、次は一緒に行こうね! ごめん)」
わざわざ気遣ってくれたのか、こっそりメッセージをくれた優しさが嬉しかった。ちょっとしたことだけど、たしかに一人だけ予定もなくて少し寂しい気がしていたのは確かだから。孤独に人一倍敏感なジャスミンのさりげない優しさに、なんだか少しほっこりした。




