4.勝利広場
建設中のビルの隙間から顔を覗かせる夕日が落ちかけた頃、腹の虫がぐうっと鳴った。そろそろ夕飯にしようかということになり、イリーナとミンジュンがどこが良いだろうかと話し始めた。
「你们想吃什么呢?(あなた達は何が食べたい?)」
俺とジャスミンはお互いにお互いを見合い、同時にイリーナに向かって首をかしげる。そもそもここらへんに何屋さんがあるのか全く知らないため、選択肢がないのだ。それを見てイリーナも首を傾げ、「Sorry」と笑う。ミンジュンはポケットから最新のiPhone5をさっと出し、周囲の飲食店を検索しだした。
最新機種の登場に、イリーナとジャスミンが食いつく。イリーナは自分のiPhone4と並べて比べてあーだこーだと話し、ジャスミンは自分の手に持っている旧式の携帯電話と見比べながら羨ましそうにしている。
そういえば俺にはまだ中国での電話番号がなかった。 寮には有線のインターネット設備があったから日本の友人との連絡はとれるし、外で連絡を取る必要性も今まではなかったからだ。でももし今後イリーナやジャスミンと連絡が取れるようになったとしたら。邪な思いが頭をよぎる。俺もほしいな、中国のスマホ。
「对了,阿进还没有中国手机吧,不买吗?(そういえば、進はまだ中国の携帯を持っていないよね。買わないの?)」
心優しいミンジュンが一人取り残されている俺に話しかけてきた。
「我想买(私は買いたいです)」
「那我们一起去电子街吧,胜利广场里面有卖手机的,然后我们在里面找找能吃饭的地方,行不?」
早口でまくしたてるミンジュンが何を言ったのかはよくわからなかったが、とにかくどこかへ連れて行かれるということはわかった。イリーナはこれから行くところが勝利広場というところで、いろいろな商品が売っている場所なのだとゆっくり教えてくれた。ジャスミンも来たことがなかったということで、興味津々な様子。なんでも、迷路みたいに入り組んでいるらしく、イリーナは「Labyrinth、Labyrinth」と独自のリズムで楽しそうにしていた。
道路沿いの入口から地下に向かって階段を降りていくと、そこはまさに迷宮だった。個人商店が通路の端に並び、その道が右に左に、上に下にどんどんうねっている。ここは一人で来てしまったら間違いなく一度は迷子になるだろう。ドン・キホーテが何層も地下に埋められているような、そんな空間。中国に来てひと月ほどの俺やジャスミンにはレベルが高すぎるような気がする。
個人商店が並ぶ勝利広場の地下ダンジョンの中でも、スマホ屋さんが並ぶコーナーはひときわ密集していて、無秩序にガラスケースが並んでいる。店員はカップ麺を食べながらネットゲームに勤しみ、誰かが通りかかれば声をかけて最新機種を売りつけようとしている。そんな店員たちを意に反さず、ミンジュンとイリーナはずんずん進んでいく。俺とジャスミンは時々顔を見合わせながら、“やばいところに来てしまったね”と目配せをして楽しんだ。
そうしてたどり着いた1台のガラスケース。子守をしている地黒のおばちゃんがミンジュンとイリーナに気づき、黄色い歯をニカッと見せて笑った。どうやら知り合いのようだ。ミンジュンは俺をそのおばちゃんに紹介し、子供をあやすのをやめてガラスケースの中に手を伸ばした。子供は勝手にどこかに走っていったが、それを誰も気にもとめていない。
フェラーリの形をしたガラケー。よく見てみたら名前はファラーリ。りんごの形をしたガラケー。よく見てみたら名前はiPhoneZ3。その隣には金色の機体に赤いストーンで女子高生が好きそうなデコレーションを施してあるAndroidスマホ。よく見てみたら名前はGelexySS。どれもこれも怪しげな商品ばかりだ。
そんな怪しげな商品のケースの下の引き出しから、おもむろに取り出したのはiPhone5の箱。ミンジュンが俺のために選んでくれたのは、自分と同じ最新機種。さすが兄貴分のミンジュンだ。
と思ったら。
それはなんと見た目も形もそっくりな偽物。中身はiOSではなくAndroidだった。
それを見て笑ったのはジャスミン。イリーナはミンジュンのスマホが本当はAndroidなのではないか、偽物なのではないかと疑って、隅々まで調べようとしている。そんな様子を見ていると、なんだか嬉しくなって、これを購入することにした。確かに堂々と偽物を買えるなんて、日本ではなかなかできない体験。どうせ中国にいるときしか使わないし、特に困ることもないだろう。
無事に購入完了し、4人で今度は勝利広場の中にある飲食店を目指した。ワンタン屋、ハンバーガーショップ、ミルクティ屋、韓国料理屋。いろいろな店からそれぞれの店の独自の匂いが漂ってくる。その匂いが混ざりに混ざって息もできないほどだが、そんなのお構いなしに、またずんずん進んでいくイリーナとミンジュン。ジャスミンと俺はついていくのと呼吸をするのに精一杯で、迷宮に押しつぶされそうになっていた。
先頭の二人が席を確保してくれたのは米線屋。米線はその名の通り米でできた麺で、中の具材を選んで注文する。どれが美味しいのかよくわからなかったので、とりあえずミンジュンと同じものを頼んでみた。出てきたそれは、ラー油がたっぷりかけられていて、肉のそぼろのようなものと刻みネギが浮かんでいた。ミンジュンはそこに大量の酢をかけ、咳き込みながら頬張っていった。しかしそれが美味しいのか、満足そうなミンジュン。それを見て真似してお酢をたっぷりかけてみる。黄緑色のプラスチックの箸でよく滑る米線のかたまりをつかみ、一気に口の中に入れて、すぐに吐き出した。この世の中にこんなに酸っぱいものがあるのかと、泣きそうになりながら咳き込むと、3人は腹を抱えて笑った。これもまた手荒い洗礼か、と苦笑いするしかなかった。
全員が食べ終わったところでイリーナがさっき買った偽iPhoneの初期設定をしてくれた。最後に「私の電話番号はこれね」といって教えてくれた。まさか金髪美女の電話番号をいとも簡単にゲットできるとは。さっきの手荒い洗礼を受けたご褒美なのだろうか。神様はいるのかもしれないと本気で思った。
つられてジャスミンも、ミンジュンも電話番号を教えてくれた。SMSももちろんできるし、これでいつでも連絡できるようになった。ミンジュンに隠れて美女二人とデートできるな、と一瞬考えてしまったのは一生秘密にしておこうと思った。
「你已经买好了自己的手机,用那个好好学习吧(もう自分のスマホを持ったのだから、これでよくよく勉強しな)」
ミンジュンはそういって自分の本物のiPhone5を取り出した。起動したのはSiri。また何か調べ物かと思ったら、授業でよく聞くような中国語の文章をスラスラと話しだした。
「你看,因为我的发音没问题,所以Siri能明白我想说的意思。你试试(見て、俺の発音が問題ないから、Siriは俺が話したいことを理解してるんだ。試してみて)」
俺はミンジュンのiPhoneに顔を近づけ、簡単な文章を口にしてみた。
「我吃饱了」
Siriに書かれた文章はというと。
“我气爆了”
あれ? 正しくない。chiの発音をしたつもりが、qiの発音になっている。
つまりこれは発音練習であり、会話の練習にもなるということか。
「哈哈哈,你气爆了呀(ははは、お前めちゃめちゃ怒ってるの)」
そう言って大笑いするミンジュン。さっきまで俺と一緒にこの練習方法に感心していたイリーナとジャスミンも爆笑して、また俺がひとり苦笑いするはめに。みんなが楽しんでくれたならそれはそれで良いけど、でもなんだか悔しい気持ちもある。こうなったら絶対に発音を良くして見返さないと。
ひと通り落ち着いた後、俺らはまたイリーナとミンジュンを先頭に勝利広場と言うなの地下迷宮を攻略していった。半年でそこまで慣れるものかと不思議に思うほどするすると間を縫っていき、気づいたら最初の入口に到達していた。
勝利広場に入る前に見たあの夕日は、いつの間にかもう落ちていた。かわりに街を照らしているカラフルな電飾が、まるで未来への希望を暗示しているかのように闇夜を切り裂いていた。