35.最終話:香港国際空港
黎明、静寂に包まれていたはずの構内が、慌ただしく動き出しはじめた。ドバイ経由アンマン行きの飛行機は午前8時前には空の上。ジャスミンと同じようにニカブやヒジャブを身にまとっている女性たちの列が目の前に見えているが、ジャスミンは一歩どころか1ミリも動こうとはしない。ただ突き抜けるほど高い天井をじっと見つめながら、口をつぐんだままだ。
こうして朝日に照らされるまで、今の今までずっと同じ姿勢を保っていた。昨晩の最終バスで空港に到着してから、二人で座れるスペースを確保し、そこに腰掛けた。結局一睡もしないまま朝を迎えた。その間、お互いに何も言えなかった。何を言っても陳腐になりそうで、何を言っても後悔しそうで。俺たちのここまでの逃避行が、俺たちのすべてを物語ってくれるはずだと信じて、何も言わなかった。
周りがみんなベンチやカートの上で横になって仮眠している間、俺とジャスミンは肩を寄せ合って手をつないだまま、ずっと前を向いていた。何を言っても後悔しそうな上、顔を見たら恋しくなってしまうからだ。そして、それはお互いが誰かに用意された未来に向かって前を見ないといけないことも暗示していた。
俺は本当にやれることをやりきっただろうか。ジャスミンは本当に満足してくれただろうか。明日から日本で、ジャスミンの居ない日々を送るわけだけど、心の準備なんて本当は全く出来ていない。ただ瞬間を一緒に過ごしてきた。それだけ。でもその瞬間ごとに意味があったとすれば、その意味は一体何だったのだろう。
国や宗教、言葉や習慣、色々な異文化に触れる中で、それらの壁は小さくも俺らの間に出てきては乗り越えていけた。でも時間だけはどうしても乗り越えられなかった。ここひと月の逃避行は、本当に奇跡の時間だった。乗り越えられそうにない壁をよじ登ろうとするところまではこられた。でもやっぱり、乗り越えられるものではなかった。敗者は敗者らしく身を引かなくてはならない。でもそれを拒否し続けてきた俺らにとって、その敗者としての自覚こそが一番乗り越えられない壁になりそうだ。
依然として前を向く俺ら。目の前の行列はどんどん進んでいき、もうすぐそれが途切れそうだ。受付完了時間ギリギリまでじっと二人で座っていたが、そろそろゲームオーバーだそうだ。
最後だと思うと、ようやく離れ離れになるんだという実感が湧いてきた。ジャスミンの顔が見たい。声が聞きたい。肌に触れたい。息を受け止めたい。次々に願望が押し寄せてくる。肩を寄せ合って手をつないでいるのにも関わらず、もう既に肌に触れている感覚そのものが消滅してしまっている。願望だけがふわふわと漂い、脳内で処理しきれずに浮いているのだ。
意を決して、話しかけてみた。最初は声が出なかった。出そうとしても、本能的に喉が閉じてしまうのだ。つばを何度も飲み込み、準備を整え、発声しようとするが、今度は何を言って良いのかわからない。陳腐だけど、それでも良いや、と思えるまでに時間がかかった。朝日の角度が変わってちょうど足元を明るく照らしてくれたとき、やっとまともに声が出せるようになっていた。
「大恋爱吧,我们(大恋愛だったね、俺ら)」
色んなものを乗り越えて、順調に交際していたようで実は全然順調じゃなかった恋。他の人からすればどうってこと無い普通の恋愛かもしれないが、少なくとも俺にとっては楽な恋愛ではなかった。当たり前が当たり前じゃなくて、納得しきれないことを納得できるように自分に言い聞かせてきた恋だった。漠然と続くと信じていたけど、続かせることが出来ない恋だった。俺の中では、この恋は大恋愛だった。
「只是在大连爱过你而已(ただ大連で愛しただけだけどね)」
そう言いながら、ジャスミンのエメラルドグリーンの瞳から一筋の涙が頬を伝った。ここまで我慢していたのだろう、その筋の勢いは徐々に増していく。照れくさいのかヘヘヘ、と笑ってみせるが、口角を無理やり上げているだけで顔は真っ赤に染まっていく。
もらい泣きしそうになったが、深呼吸して自分を落ち着かせた。最後まで軟弱な姿を見せるわけには行かない。俺が最後までジャスミンを守らなければならない。そう思って無理やり笑顔を作り、ジャスミンを立たせた。
「最后啊,Jasmin。走吧(最後だよ、ジャスミン。行こう)」
ちょうど搭乗手続きの受付の最後のアナウンスがあった。ジャスミンは袖口で涙を拭って、目をパチパチさせて涙を乾かせようとし、頬を叩いて表情を作った。
「谢谢你一直在乎我。我很幸福了(いつも私のことを気にかけてくれてありがとう。幸せだったよ)」
彼女なりに格好をつけたつもりなのだろう、最後の最後に、涙の奥に秘めていた本当の笑顔を俺に見せてくれた。色んな表情を見せてくれた彼女に、俺こそ感謝しなければならない。
搭乗手続きを済ませたジャスミンは荷物検査場に向かい、俺もついて行った。ジャスミンが居なくなる。その実感がどんどん湧いてくる。今引き止めれば。腕をつかめば。もう少しだけ一緒に居てくれるだろうか。まだまだ一緒に逃避行を続けてくれるだろうか。ジャスミン、ジャスミン、もう一度だけ――。
その時、ジャスミンがこちらを振り返った。その表情に目を奪われた。
「我要去嫁人了(お嫁にいってきます)」
そう言って荷物検査に向かうジャスミンは一度も振り返らず、光の奥へ消えていった。最後に見せてくれた凛々しい表情のジャスミンに、それ以上は何も言えなかった。朝日に映えるエメラルドグリーンが、眩しくてたくましくて、やっぱり寂しかった。
憑き物が取れたように、肩の力がすっと抜けた。肩に残っていたはずの彼女の重みがすっと消え、握っていたはずの手のひらには、いつかのようにじんわりと手汗が筋を作っていた。俺はしばらく先程まで座っていたベンチに戻り、最後の温もりを探ろうとしたが、もう無駄だった。砂漠の幻のオアシスだったのか、それとも白昼夢だったのか、そんなものに似ているような気もするが、ポケットの中にある偽iPhoneに詰め込まれた思い出が、そうではないことを証明している。その代わり、この詰め込まれた思い出が、この大恋愛を終わらせる最後の砦でもあった。
俺はポケットからそれを取り出すと、ベンチのそばにあるゴミ箱にそれを入れ込んだ。できるだけ奥まで入れ込んで、もう出てこられないようにした。その様子を怪しがる清掃員のおばあさんに愛想笑いすると、自然と鼻からため息が抜けていった。
白・赤・緑・黒の尾翼が滑走路を離れ、真っ青な大空を今にも覆いそうな入道雲に、躊躇なく進んでいった。




