34.香港
最終目的地、香港。入国審査を終えて流れてくる荷物を受け取り、到着ロビーにあふれかえる多くの人をかき分けて、まず最初に手持ちの人民元をすべて香港ドルに両替した。もう大陸には戻らないという証。二人で一緒に空港の両替所でそれぞれの財布から人民元を抜き出して、戻ってきた香港ドルを二人で共同財布として管理することにした。
お互いに普通を装って、なんともない昨日までと同じように振る舞おうとしているのが、お互いに分かっていた。なんてことはない、ただの香港旅行なのに、一歩一歩の重みが昨日とはまるで違っていた。
タクシーは日本と同じ左側通行。運転手は中国語があまり上手ではなく、広東語か英語かどちらかで説明してほしいと頼まれ、ジャスミンが英語で行き先を指示することに。特別行政区だから中国国内ではあるけど、全く別の国に来てしまったような気分になる。ちょうど1年前の、中国語が話せなかった頃、ジャスミンに電子辞書片手に一生懸命言葉を伝えようとしていた頃を思い起こさせられた。
あの頃はジャスミンも俺も慣れない土地に慣れていくのに精一杯で、必死で言葉を覚えて、真面目に勉強して、とにかく未来しか見ていなかった。お互いに伝えることに必死で、相手がどう受け取るのかをよく考えもしないまま発した言葉たち。誤解や勘違いもあったけど、それも楽しみの一つだった。
今はもうその必要がないくらい話せるようになったが、あの頃みたいに未来思考ではいられなくなった。異文化をどう理解し、それとどう接し、お互いの妥協点を見つけていくか。後半の半年間はずっとそこを追い求めていた。言葉の一つ一つに重みが増し、楽しいことも増えたが、同じくらい悩みや苦しみが増えていった。
あと5日。あと1週間もしないうちに、その苦しみからは解放される。過去に強制的にこだわれなくなる。そうなったとき、俺は本当に素直に別れられるのだろうか。今まさに刻一刻と過ぎている現在と言う名の過去と、決別できるのだろうか。時間が経てば心の準備もできるだろうと思ったが、そんなのちっともできない。それどころか、不安はますます募っていくばかりだ。
タクシーは弥敦道に面する重慶大厦の前に止まった。薄暗い入り口を入ると、アジア系の怪しげな店が並んでいた。その奥にあるエレベーターで上へ上がり、ボロボロの廊下を進んだところにゴツい黒人がおり、鍵を開けてくれた先がジャスミンとの最後の宿泊場所だった。
いつものように荷物をおいて、外へ散歩に出かける。ひとつ前が田舎、ふたつ前が海辺、都会のど真ん中というのは重慶以来となる。しかもこの込み具合は北京や上海のようなレベルであり、久々に人に酔いそうになった。
日没後、ジャスミンとともにホテル近くの夜市へ。香港は蝦蛄がとにかくお大きいことが有名なので、とりあえずそれは外せない。あと酸辣湯と蛇湯も頼んだ。屋台メニューではあるが、これがどれも一級品。眠らない街中、天井のない広場のど真ん中で食べる爽快感は、やはり日本に帰国する前に存分に楽しんでおくべきだ。
二日目、小さな山岳列車に乗って、香港を一望できる山の上へ。そこでほぼ半日過ごし、立ち並ぶビル群の夜景を山の上から見て降りた。その日は麓で燒鴨飯(焼鴨丼)を食べ、お土産屋のテントを物色しながら散歩して帰った。残り4日。
三日目はホテル近くを昼間から散策。地元民に愛される普通の市場や公園、移動式のソフトクリームや甘辛ダレをかけて食べるモツ煮(牛雜)を食べ歩きしたりしながら香港の地元民になりすますような散歩をした。普通の旅行であり、普通の生活の体験。俺とジャスミンの間に今最も必要なのは、この普通な時間なのだ。特別な時間だと思いすぎたら、気を使いすぎて本当の意味で楽しめなくなる。最後の最後は、普通の幸せなデートで終わりたい。それはお互いに言葉にしなくてもわかりきっていた。残り3日。
四日目は銅鑼湾付近を散策。映画スターのブルース・リー像の前でジャスミンと一緒にカンフーごっこをしたり、ジャッキーチェンの修行シーンの真似をどちらが長くできるか競ったり、とにかく最後まで笑って過ごせるようにした。この日になって初めて、やっと自分が本格的に最後の時を過ごしているという実感が湧いてきたように思う。
夜は日が暮れる前にミルクティーと蛋撻を二人分買っておいて、銅鑼湾の腰を掛けられる場所の席を取りつつ夜景の開始を待った。香港の100万ドルの夜景と呼ばれるこの場所は、ある時間になると音やイルミネーション、レーザー光線による夜景ショーが始まる。香港の夜景をゆっくり見られるのは今日が最後になるので、この時をジャスミンと心待ちにしていた。
ショーが始まると、ジャスミンは俺の肩に頭を寄せてきて、俺もジャスミンの肩に手を回した。みんな夜景ショーに釘付けになっているから、人前でそんなことをしても恥ずかしくなかった。というより、恥ずかしさよりも先にもっとジャスミンと触れ合っていたいと思った。
「好漂亮诶,好像从宝石箱放过来的(とっても綺麗ね。宝石箱から放たれたみたい)」
「所以你也从这个夜景里出来的吗?(じゃああなたはこの夜景から飛び出してきた人ってこと?)」
「什么意思?(どういう意味?)」
「因为你才是我的宝石(だってあなたこそ俺にとっての宝石だから)」
「哈哈,听起来我们俩是谈恋爱的(ハハ、カップルっぽいね)」
「那我们是不是假装谈恋爱的?(じゃあ俺らは恋愛ごっこしてるってこと?)」
「才怪」
そういったジャスミンの表情は、暗くてもよく分かるほどまっすぐで、確信しきっているような表情だった。目は笑って、口角も上がっている。俺らは恋愛ごっこなんかじゃない。最後まで全力で恋愛してきたんだ。お互いにその自信に満ち溢れていた。
次の日は午前中にジャスミンが“家族”のために買わなければならないお土産を一緒に物色し、それが終わると一緒にチェックアウトして、大荷物を持ってとりあえず荷物預かり場所へ一旦預け、残り少ない旅行時間を最後まで散歩に費やした。二人で手をつなぎ、なんてことはないただの普通の道を進んでいく。一緒に踏みしめる一歩一歩が、香港に到着したときよりもさらに、明らかに、重たくなっていた。
夜中の最終バスで空港へ向かう。二階建てバスの一番前の席に座り、夜の香港の街を横目に、ここまでの二人を振り返った。今までに撮った写真を全部一緒に見返して、あのときはどうだったと言いながらいると、あっという間に時間は過ぎていった。標識に空港のマークが見えはじめた頃、俺はジャスミンに最後のお願いをした。
「Jasmin,你别忘记我啊(ジャスミン、俺のこと忘れないでね)」
「阿进,你要忘记我啊(進、私のことは忘れてね)」
ジャスミンは間髪入れずにそう答えた。きっと、これを俺から言われることは分かっていたのだろう。
「为什么」
「因为更寂寞(もっと寂しくなるから)」
「那你也把我……(じゃあ俺のことも……)」
「我努力忘掉你。我真的很努力忘记你(忘れるように努力する。頑張って忘れるからね)」
そうしているうちに、ちょうど空港に到着した。最果ての地で、もうあとはお別れの時間を待つだけ。荷物を持って出ようとした時、ジャスミンに思い切りキスされた。
「我爱你(愛してる)」
思わず口にしてしまった禁断の言葉。これから他人のお嫁さんになる人に、いうべきじゃなかったかもしれない。でも、勝手に出てきてしまった。本能から叫んでしまった。
「我爱过你(愛してた)」
ジャスミンはそう言い返して、もう一度思い切りキスしてから一緒にバスを降りた。
ジャスミンとのお別れまで、あと十時間。




