32.三亚②
ジャスミンは帰ってこない。
どうせ明日の飛行機で一緒に次の場所へ移動するのだから、放っておいてもいずれ帰ってくるだろう。でもそれじゃあいけない。いけないのは分かっているけど。
この期に及んで初めてまともな喧嘩をしたせいで、それを収める方法がわからない。というかむしろここまで喧嘩しなかったのは、ジャスミンの我慢があったおかげだったんだ。ジャスミンは俺がジャスミンを守っているようなことを言っているけど、実は違った。ジャスミンが大人で、色々我慢してきてくれたおかげで付き合えていただけなんだ。そもそも俺が告白したのに、この関係性を本気で維持しようとしてきただろうか。本気でジャスミンを故郷の婚約者から引き剥がそうとしただろうか。そういうことをせず、しようともせずにいた俺に、ジャスミンは我慢の限界が来ていたのかもしれない。
これだけのお金と時間を使って逃避行をすることができたなら、本気で駆け落ちできたのかもしれない。熱い気持ちを伝えるべきだったのかもしれない。宗教のせいでもなければ文化のせいでもない。俺自身のせいで今の状況ができていたのかもしれない。でも、いくらもしもの話をしたところで現実はもう動かせない。それに今更気づくなんて、俺はどうしようもない奴だった。
急いで部屋を飛び出し、炎天下の中ジャスミンを探すことにした。
相変わらず人であふれかえる三亜湾のビーチ。マンゴーの量り売りの前を通り過ぎ、きのこのような日傘の下を探し、椰子の木の間を駆け抜け、バナナボートが無造作に並べられている隙間にも目を通す。ジャスミンはどこにもいない。
カーブを描く海岸線の先の方に見えるそびえ立つビル群を見て、街のほうかもしれないと思い、タクシーを拾って中心部で降りた。何も手がかりがない中、特徴的な商業施設や観光スポットを探すが、そこにもいない。気がついたらもう太陽は空のてっぺんから徐々に下がってきていた。
ビル群の方からずっと続いている海岸線を、ひたすら歩いて帰る。どこかで会えるだろう。そう信じてひたすら歩き続ける。喉の乾きは限界に達し、強い日差しが照りつけてきて頭はもうクラクラ。なんでひたすらこんなところを歩いてるんだろうと後悔がこみ上げてくる。鼻の頭はヒリヒリするし、全身汗だく。海面から反射する日光でまともに前が見えないところを、なんとか椰子の木が遮ってくれている。木造のボート小屋と無造作に並べられたバナナボートが見えてきて、やっと元の場所に帰ってきたんだと安心しかけたとき、浜辺で一人、椰子の実から液体を吸っている、体育座りのヒジャブ姿が見えた。
「终于找到了(やっと見つけた)」
声に気づいて振り返ったのは紛れもなくジャスミン。完全に無防備で慌てた拍子に右手を波打ち際について、手のひらに小粒の砂や石がくっついた。
「可以喝饮料吗?(飲んでもいいのか?)」
「闭嘴,我现在在中国,没关系(うるさい、今は中国にいるの。関係ないでしょ)」
そんなジャスミンを見て、やっと見つかった安堵も重なり、思わずふっと笑いがこみ上げてきた。
ああ、いつものジャスミンだ。そう思った。
「要喝吗?(飲む?)」
「要(飲む)」
久しぶりに感じる喉の潤い。ココナッツミルクとは違ってサラサラで、ほんのり甘みを感じるココナッツウォーター。ひび割れた荒野のような身体に、直に染み込んでいく。
「刚才的事我很抱歉。 我想,当我在世界上最严格的世界之一的宗教的世界里的时候,很容易误会我自己是最努力的人,反过来看起来什么都不要考虑别的事情的,或者什么都自由的人的时候,我想我不知不觉中轻视了这些人。太糟糕了。 我很抱歉。(さっきはごめん。自分自身、世界でも厳しい方の宗教の世界の中にいると、どうしても自分が一番頑張ってそれを守っていると思いたがってしまって、つい何も考えていないような、何にも縛られていないような人のことを見下してしまったんだと思う。最低だね。ごめんなさい)」
彼女には彼女なりに宗教に対して真摯に向き合って、それをプライドにしていた。そしてその世界を誰よりも理解しようとし、そうしないといけなかったからこそ、俺みたいな何も考えていない人が、何も知らない人が許せなかったのかもしれない。
「我也很抱歉。我以为你还是会教给我的,所以我认为没有必要亲自查一下,我太撒娇你了。而且,正如你所说,这次旅行的意义是为彼此的下一步做准备,我也同意。我也以后不能逃避,真正对待现实最好(こっちもごめん。俺もどうせジャスミンが教えてくれるから自分から調べるまでもないと思ってしまって、甘えてた。それに、ジャスミンの言う通り、この旅行は、お互いに次のステップに行くまでの心の準備をする期間っていう意味合いもあると思う。俺もこれからは逃げずに現実と立ち向かうよ)」
「不对,这个问题只有我一个人的问题。你对我真的很好。你一直在保护我。你把我当成了我自己。所以,我真的很感谢你。我从来没有想过有一天,能这样用中文和日本人斗智斗勇。 因为有你,我才有机会和你聊到现在。再次感谢你。(ううん。それは私だけの問題だから。あなたは私に本当に良くしてくれている。いつも私を守ってくれている。私を私自身としてみてくれている。だから本当に感謝してる。こんなふうにまさか日本人と中国語で喧嘩できる日が来るとは思わなかった。ここまで話せるようになったのも、あなたの存在があってこそだよ。いつもありがとう)」
沈みゆく夕日の下で、もう既に準備ができているバーベキュー屋。ジャスミンが逃げて、俺が追いかけた半日間の追いかけっこはここで終わり。お腹すいたね、とニカッと笑うジャスミンと、心の底からまだまだ一緒にいたいと思ってしまった。
この期に及んで初めてまともに喧嘩することが出来た。今まで何してたんだって思うくらい、どんどんステップアップしていくジャスミンとの関係性。未来を語れない関係なのに、どんどん未来が見えてくる。それを宝石箱に乱暴に押し込めるのは、心に大きな負担を伴った。
帰国まで残り、あと7日。




