31.三亜①
成都から二時間半ほどのフライトで、三亜に到着。飛行機から降りた瞬間に香る潮風、そして熱風のような分厚い空気。内陸部から南の島に来てしまったこのギャップは、改めて中国の広さと多様性を感じさせるものだった。
これまで大連から北京、天津、重慶、成都、九寨溝とほとんど間髪入れずに各地を回ってきた。恋人との楽しい旅行だが、体の疲れは気持ちでカバーしきれなくなっていた。ここ、海南島・三亜は東洋のハワイ・中国のハワイと呼ばれているリゾート地。一旦ここはのんびりと過ごし、あとに続く桂林と、最終到達点である香港までの体力を温存するとしよう。
といいつつ、実際にはチケット価格とホテルの取り合いの関係で、一週間を超える長期滞在せざるを得なくなっていただけ。ただし、その間、またあの幻の同棲期間のように、一緒に旅行ではなく生活ができるのだから、儲けものだ。今度の宿泊施設はホテルと言うより別荘の格安賃貸のようなもの。洗濯機やキッチンが付いており、まさに南国で一緒に余生を過ごしている気分に浸れるということだ。自由に海に入れて、散歩しても良いし別にのんびり部屋の中で過ごしても良い。一旦旅行中であることを忘れるにはもってこいのタイミングと場所だ。
白塗りの壁に、水色のベッド。木製の窓枠に、浜風が純白のカーテンを揺らす。部屋から通りに出ると、ギラギラの太陽光が肌を襲う。路地裏にも観光客でごった返し、ハエの羽音とタクシーの行列の中、マンゴーの香りが充満している。
真っ白い砂浜とまでは言えないが、それなりにきれいなビーチで、一日中のんびり暮らす日々。ついこの間まで強引なスケジュールで各地を転々としていたのが嘘みたいに、何もすることがない。何もすることがないからというわけではないが、俺もジャスミンも、三日目からは日差しを避けて部屋にこもるようになった。
ベッドの上で過ごすのもなかなか悪くはない。昼過ぎに起きて、潮騒とクラクションをBGMに本を読むのは最高の贅沢なのだとジャスミンは言う。夕方、涼しくなった頃に果物片手に散歩にでかけ、ビーチでバーベキュー屋の準備が整うのを虎視眈々と見守り、準備完了とともに一番乗り。砂浜に直接おいてあるだけの木製の椅子に座り、夕日を見ながら焼いた魚介類と冷たいビールでその日唯一の食事をする。海南啤酒のクリアグリーンの空き瓶に、燃えるようなオレンジ色の夕日がよく映える。次の日も、その次の日も、同じような毎日。昼夜逆転生活の中で、俺とジャスミンは穏やかに過ごしていた。
しかしそんな毎日も、だんだん飽きてくる。次のチケットの日取りを早めることも出来たが、次のホテルの日取りが合わないとどうしようもない。だんだんフラストレーションが溜まっていくと、人間は目先の欲求に逃げたくなるものだ。
昼過ぎ、寝起きの俺は、一足先に起きて、俺に背中を向けて本を読んでいるジャスミンを確認すると、いつものようにボリュームのあるロングの黒髪を撫でた。しばらくそうしていると、抑えきれない気持ちが湧いてきて、抱き心地の良い身体が欲しくなってきた。
しばらく後ろから抱きついていたが、それだけではもう収まらなかった。体ごと振り向いたジャスミンにかぶりつくようにキスし、そのまま服を脱がせようとしたその瞬間、ジャスミンに突き飛ばされるくらい肩を押された。
「不不不不,不行不行(いやいやいや、それは無理)」
右手で口元を抑えて、顎を天井に向けるようにして笑うジャスミン。左手はさっきまで俺が持っていたボタンを握りしめている。
「为什么」
なんで拒否するんだ。
なんでそんな笑い方をするんだ。
なんで。
「为什么? 我现在在斋月吧。而且我们穆斯林不能有婚前性行为,更你不是未婚夫,不可能(なんでって。ラマダン中だし。しかもムスリムは婚前交渉は無理だし、ましてや婚約者でもないのだから、無理でしょ)」
どこか人を馬鹿にしたような感じ。これも宗教からくる不自由さ。ここまで縛り付けてくる宗教って、一体何のためにあるんだ。だんだんイライラしてきた。
「这不就是为了忘掉这种事情的旅行吧?(そういうのを忘れるための旅行じゃないのか?)」
「这不就是为了接受这种事情的旅行吧?(そういうのを受け入れるための旅行じゃなかったの?)」
人を馬鹿にするような仕草と態度。そんな態度するほどのことか?
イスラム教徒がそんなに偉いのか。
「你说因为现在在中国,所以可以喝啤酒。为什么你总是和宗教在一起!(今まで中国にいるんだからビールを飲んでも良いんだなんだって言ってきたりしているのに。どうしていつも宗教に縛られるんだ!)」
宗教を持ち出したことに怒ったのか、語気を荒げるジャスミン。
「这就是跨文化交流。就是要了解对方的情况。什么是适合你的,什么是适合我的,这两者之间是有区别的。不是说哪个对哪个不对,都是对的。(それが異文化交流。他者を理解するっていうことなの。あなたにとっての正しさと、私にとっての正しさは違うの。どっちが正しいとかじゃなくて、どっちも正しいの)」
「我能理解,但只是不能接受而已(理解はしているさ。でも、受け入れられないんだ)」
「不能接受的意思就是不能真正的理解,是这个意思吧(受け入れるのが難しいって言うことは、本当の意味で理解していないって言ってるようなものよ)」
「不是!(そんなことない!)」
お互いに冷静さを失い、言いたいことを言い合うしかなくなった。
「那么,你自己做过关于伊斯兰教的研究吗? 你之前对穆斯林有什么了解吗? 你不是在不知不觉中接待我吗? 我以前也想过,你从来没有向我展示过任何试图融入我的文化的姿态。我总要向你解释一下。我得纠正一下。每次我都会想,我很乐意和你谈恋爱,但我觉得我不可能嫁给你。当然,即使没有未婚夫,我也会有这种感觉。我们之间的关系马上就要结束了,对我来说,真是让人安心!(じゃああなたはこれまで自分でイスラム教のことについて調べた? ムスリムのことについて予備知識を持ってた? 何も知らずに、何も考えずに私に接してこなかった? 前から思っていたけど、あなたは私の文化に溶け込もうとした仕草を私に見せたことはない。いつも私が説明しないといけない。訂正しないといけない。そのたびに思うの。やっぱりこの人とは付き合うのは楽しいけど、結婚はできないなって。もちろん、婚約者が居なくてもそう思っていたでしょうね。もうすぐこの関係が終われるとおもうと、安心するわ!)」
そう言って部屋を飛び出すジャスミンの足音は重く床に響いた。あんな歩き方するような人じゃなかったのに。あんなに乱暴なあるき方をするような女だったのか。こっちこそもうすぐ自動的に別れられるんだから清々する。そう本気で思ってしまった。
その日はそのままベッドで横になってふて寝しようとした。でも興奮状態でとても寝付けない。さっきまでの欲求を満たそうとパソコンを開いて動画を探したりもするけど、 なんとなくそんな気分にもなれない。純白のカーテンが風に揺られるたびに、一体ここで俺は何をしているんだろうという気分になる。
またハエが飛んできた。顔の周りを縦横無尽に飛び回るハエ。掴んで握りつぶして壁に押しつけてすりつぶしてやりたいと思ったが、結局捕まえきれず、力いっぱいにひたすら髪の毛を掻きむしった。




