25.结业
窓の外の雨はより一層強くなった。イリーナとしばらくカフェの中で雨宿りをするが、一向にやむ気配がない。イリーナは窓の外を気にしながら難しそうな学術書に目を通している。まるでなにかの広告ポスターのように様になっているイリーナを、一眼レフでこっそり撮りたいと思った。こういうときのための偽iPhoneのカメラ機能なのだが、被写体に申し訳ないほどの性能しか無いため諦めた。
結局カフェを出たのは夕方過ぎ。まだ雨は降っているものの霧雨に変わったので、そこで席を立ってイリーナに別れを告げ、バス停まで走った。大外に着いたのは夕飯時。ちょうど良いので総合楼で夕飯を済ませ、寮に戻った。
部屋に入ると、いつもの東南アジアメンバーが集結し、料理を作って持ち寄っていた。この光景も後少ししか見られないのかと思うとやけに感慨深い。チャイは満面の笑みで少し早いが「卒業おめでとう」と言ってくれ、一緒に食べようと誘ってくれた。他のみんなもこっちを食べろとか、これを食べてみてとか、次々に食べさせようとしてくる。この部屋での最後の晩餐を堪能し、片付け終わった後、ジャスミンと館山さんの部屋に向かった。決戦だ。
部屋をノックすると、いつものようにジャスミンが迎えてくれた。「gohan-tabaetta?」と片言で嬉しそうに聞いてきたのでびっくり。館山さんに教えてもらったのだという。そんなに仲良しなのが、逆に恐ろしくて、そしてせめて仲が悪かったら告白を断りやすいのにな、と思った。きっとこの後の決戦が終わりそれぞれ解散した後、館山さんはジャスミンに報告するだろう。そして、それを聞いてジャスミンはどうするのか。どう思うのか。どちらにしても結果が怖かった。
部屋に入ったは良いものの、メインは館山さんとの話し合い。俺はジャスミンにフォローを入れつつ、館山さんを外に誘い出した。嬉しそうに着いてきた館山さんをこれから傷つけるんだと思うと、胸が痛い。
窓につく雨のしずくが、水垢に沿っていびつに流れ落ちていくのが見える階段の踊り場。館山さんと向き合い、深呼吸した。
「やっと答えを聞かせていただけるんですね」
「うん……」
雷が鳴って、一瞬光る館山さんの瞳。今にもキスしてきそうなほど、とろりとしている。激しい雷雨と甘いその目がなんともいえない違和感を生み出している。
「あれからきちんと考えた。結論から話すね。申し訳ないけど、館山さんとは付き合えない」
信じられない、といったような表情の館山さん。さっきまでの甘い眼差しは完全に消え、薄暗闇の中で光を失っている。
「なんで? 私、いつまでも進さんの恋人でいられます。期限はないです。ずっと、一生、一緒にいられます。何も障害はありません。迷惑はかけませんし、そばにいてくださればそれだけで良いんです」
そばに寄って身体を密着させて、上目遣いで泣きそうな声で訴えかけてくる。それは反則だよ。男が“これをされたら弱い”というのをふんだんに使ってくる。曖昧にならないように、意を決した。
「本当にごめんなさい。恋人がほしいんじゃなくて、気付いたらジャスミンのことを考えることがやめられなくなっただけなんだ。しかもそれは、ジャスミン以外の人に置き換えることは出来ないんだ。館山さんが嫌いなわけじゃない。でも、館山さんじゃないといけない理由が見つからないんだ」
「でも、もうすぐ別れるんですよね!?」
「少しでも延ばそうとしているところだよ」
「でも、その後は絶対に別れますよね!?」
「そうだよ」
「だったら」
「だからこそ、最後まで思いっきり一緒にいたいんだ。俺は一生忘れたくないし、ジャスミンには一生俺のことを覚えておいてもらいたいから」
少し大袈裟な言い方だったかも知れないが、これはこれで本心だったので間違いではない。今現在、俺はできるだけ長くジャスミンと一緒に居たいと思っているし、ジャスミンは良い形で終りを迎えたいと思っている。二人でこの関係性をしっかり一緒に考えて、悩んで、苦しんで、形にしようとしている最中なのだ。そこに他者が付け入るすきはない。イリーナでさえ間を取り持つのではなく傍観者として見守ってくれているのだ。
「だから私とは、別れたあとで良いんです! 今はジャスミンと仲良くしていて良いんです。その先のことを話しているんです!」
屈しない館山さんに、苦笑いするしか無い。
「俺は今もこれからもジャスミンのことを思い続ける。よく女性の恋は上書き保存、男性の恋は名前を付けて保存、っていうよね。俺もきっとそうなると思うよ。俺自身が死ぬまで、ジャスミンとの記憶は残り続けるし、残し続けたいと思ってる。もし俺が館山さんと一緒に居ても、きっと俺は館山さんのことを一番大事に出来ないと思う。だから、ごめんなさい」
ちょっと語気がきつくなってしまったかも知れない。
「なんでそこまでして苦しい方に行きたがるんですか?」
「それは、今の館山さんがよく分かってるんじゃないかな?」
好きだという感情に真っ直ぐなのは俺も館山さんも同じ。館山さんは息を切らし、立ち尽くしていた。雷雨はいつの間にか、しとしと降る湿った雨に変わっていた。
七月五日、卒業式当日。炭酸ジュースが飲みたくなる今日このごろ。クラスメイトと最後の写真撮影を終え、何人かの帰国組をジャスミンや他のクラスメイトと一緒に見送って、残ったクラスメイト全員で昼食を共にした。
本当は、今日この瞬間に別れるはずだった俺とジャスミン。というか、隣に座るジャスミンはそのつもりなのか、どうも元気がない。別れを切り出される前に、俺から口を開いた。
「Jasmine,我们明天一起买回国的票吧(ジャスミン、明日一緒に帰国用のチケットを買おう)」
「好的」
「买月底的票啊(月末のチケットを買おう)」
「啊? 剩下一个月干嘛呢? 住哪里? 我们后天要退房呢(え? あとひと月どうするの? どこに住むの? 明後日寮をチェックアウトしなきゃいけないのよ?)」
何いってんだこいつ、とでも思われているだろう。でも俺は本気だ。
「去旅游啊。我们的关系,延期一个月吧。一个月的话,没影响吧? 我们的签证是到八月一号。所以到这个月底,我们可以留在中国。没理由早点回国啊,不要浪费时间(旅行に行こう。俺らの関係を、一ヶ月延ばそう。一ヶ月なら、問題ないでしょう? 俺らのビザは八月一日まで。だから今月末までなら、中国にいられる。早く帰国することなんて無いよ、時間がもったいない)」
「真的吗? 你确定吗?(本当に? 断定できる?)」
「确定(断定できる)」
「我们已经约好了,今天就是我们俩的最后一天(私達は約束したはず。今日は私達の最後の一日よ)」
「对,所以我放弃这个约定。我们重新开始,一个月的延期期间。好吗?(そうだね。だから、俺はその約束を破る。一緒にはじめよう、一ヶ月の延期期間。良いかな?)」
結婚でもなく、駆け落ちによる不法滞在でもなく、ビザの申請も必要ない。俺が出した答えは、ビザに残された最後の一ヶ月を旅行に費やすということ。つまり、ちょっとした逃避行。ジャスミンは少し考えたあと、顔を上げてこういった。
「好」
ジャスミンのエメラルドグリーンの真っ直ぐな眼差しが、輝いて見えた。
留学生活、残り0日。帰国まで、残り26日。




