2.气象台
留学生活一週目、俺の生活は順調そのものだった。まず同居人の韓国人とのコミュニケーションは電子辞書片手になんとかなるようになった。彼の名前は朴民俊、釜山出身で、俺と同じ一年の交換留学生だった。しかし彼はもう半年過ぎていて、あと半年で釜山に戻るそうだ。なるほど、ここの寮は二人部屋で半年ずつ人員をずらして、留学生同士で生活の仕方などを伝え合うというやり方なのだろう。彼もまた、俺にいろいろなことを教えてくれた。シャワールームの時間に気をつけないとポルトガル人のゲイに捕まるかもしれないことや、(これはもう初日に知っていたが)乾燥していて勝手に乾くからドライヤーは不要なこと、そして、寮の裏に留学生行きつけの場所があるということなどだ。そして今日はその“行きつけの場所”に連れて行ってくれるということで、ポルトガル人のゲイが遊びに行っている間にシャワーを済ませて出かける準備をした。
大連に来てから生活リズムがガラリと変わった。朝早く起きてミンジュンと自習、食堂でお決まりのおかずばかり選んでおばちゃんに顔を覚えてもらい、朝食をとったあとそのまま教室に向かった。授業は午前中にみっちり行い、午後からは完全に自由時間だった。
完全に自由時間だが、とにかく俺はここで生活していかなければならないため、他の人が皆そうしているように、教科書を両手で顔の前で持って、発音練習しながら敷地内をぐるぐる歩き回った。昔どこかで体を動かしながら勉強すると効率が上がると聞いたが、たしかにそうかもしれない。語学は発音が命なわけだが、徐々に発音するのに苦手意識がなくなっていった。
中国語の発音は日本語にない発音がいくつか有る。しかも北方に位置する大連はアール化(語尾の変化がある)の文化で、喉の奥で発音するような事が多い。しかも日本みたいに語尾を濁すような話し方をすると、まず聞き取ってもらえない。中国人が日本で大声で話す気持ちを少しずつ理解し始めた。
「阿进,差不多了,我们出发吧(進、そろそろ出発しようか)」
「恩,好的(おう、OK)」
この差不多は“およそ”とか“そろそろ”とか“もうすぐ”とか、とても使いやすいニュアンスを表現できる言葉なのですぐに覚えた。なんでもかんでも差不多を使っておけば、その場が丸く収まるような、そんなニュアンス。“差不多”の他に“出发(出発)”も毎日部屋から一緒に出るので意味は理解できた。このふたつの単語でそろそろ出発という意味がわかれば、現時点では上出来なのだそうだ。
長細い坂を更に登っていくと、少し開けた駐車場のような場所にすぐたどり着いた。ここが大連外国語学院の学生が行きつけにしている場所、気象台だ。
なぜここが気象台と呼ばれているのかというと、もう少し奥に進むと大連市気象局の建物があり、またその近くは気象街と呼ばれる通りが有るから。学校側には果物屋とその隣に小さな売店があり、奥にはズラッと烧烤店が並んでいる。烧烤店とは串で肉を焼いている料理を出す店のことで、それをつまみに酒を飲むのがここでの楽しみなのだとミンジュンは話してくれた。……のだろうと思う。ジェスチャーも加えて話してくれるとなんとなく理解した気になれるので、本当に助かる。
アスファルトの上に雑多に並べられた、プラスチックの椅子と会議室に並んでそうな長机によく似た机。俺とミンジュンはその中でも真ん中の方の机に陣取ることにした。吹きさらしの席は風が吹くと夏でも少し肌寒い。
ミンジュンは俺のひとつ上の歳で、男らしいお兄さんという感じ。俺は弟分として、ミンジュンのあとをこそこそついていくだけだが、意外とけっこうみんなフレンドリーに接してくれる。お互い中国語を学びに来たということは共通なので、どんなに下手くそでも中国語で意思疎通を図ろうと意識して中国語を話しているし、別にそれを恥ずかしいことだとは思わない。俺も単語をただ並べているだけだが、理解しようとしてくれるおかげでなんとかコミュニケーションが取れる。しかも今日はちょうど授業の中で市場での買い物を想定した単語や文法を習っており、それを知っているミンジュンは俺に注文させようとしてきた。
「ふーゆえん! ふーゆえん!」
俺は覚えたての単語を必死に叫ぶが、誰もこちらを振り返ろうとしない。俺が言いたかったのは、店員を表す服务员という単語。日本語のはひふへほになれている俺はどうしてもHの発音をしてしまうが、正しくはFの発音。焦る俺を慰めるジェスチャーをして、ミンジュンは店員を呼んだ。
「服务员! 诶,美女! 这里这里!(店員さん! ヘイ、お姉さん! こっちこっち!)」
慣れた感じで店員さんを呼ぶミンジュン。店員さんというか、エプロンを着ただけの普通のおばさんだが、こちらの机にぴょいっとメニューを投げてきた。驚くことに、メニューは三種類。歴代の留学生たちがしたためたのか、漢字とアルファベットの印刷表記の他に、ボールペンでひらがな・ハングル・タイ文字が書かれている。
「因为、大家、都、来、这里(なぜならみんなここに来るからね)」
ミンジュンはゆっくりはっきりとそう言って、メニューを選び始めた。するとそこに、また別の留学生グループが現れた。彼らは中級か高級の班だろう、ほとんど中国人と変わらないスピードで中国語で話している。
「民哥,你也来了啊!」
「伊利! 过来过来,我们一起吃饭吧!」
なにやらすごいスピードで話をしているが、さっぱりわからない。一つだけわかったのは、目の前にいる金髪美女がイリーという名前だということ。この名前が本名か中国での名前なのかはわからないが、とにかくイリーという名前を連呼しているミンジュンを見て、多分そうなのだと思った。
そしてこのイリーは、初めて入寮したあの日に見た濡れたまま闊歩していた金髪美女だというのも、すぐ隣りに座ったことで確信した。いきなり美女と話すチャンスが巡ってきたことで、ドギマギしてしまう。
もうひとり、イリーの友達の中東系の女性が一緒に座った。サリーを巻いていて髪の毛は一本も見えないが、その分目鼻立ちがはっきりしているのがよく見える。こんな娘高校時代に同じクラスだったら男子全員ライバルなんだろうなと思うほどの美女。金髪美女にモデルみたいな中東系の美女にガタイの良い韓国の兄貴。そんな中で普通すぎるほど普通な俺は、ただのチンチクリンで、全くもって場違いな存在だ。
辺りは次第に夜に向かって空の灰色が色濃くなっていく。鉄紺の空によく映えるハロゲンのオレンジ色。眩しすぎるほど明るい気象台には、知らない間に多くの留学生や現地人で賑わっていた。
「美女,一箱啤酒,要冰的。还要羊肉串儿」
「几串儿」
「十串儿应该够吧,还要韭菜四串儿,还要……」
ミンジュンと店員の会話がテンポよく繰り広げられる。途中でイリーが何やらミンジュンとメニューについて話していたが、俺と目の前の中東系の美女は黙って周りの景色を見て時間を潰したり、うつむくことしかできずにいた。
「你也是韩国人吗?(あなたも韓国人ですか?)」
金髪美女が急に俺に向かって聞いてくる。俺はとっさに覚えたての中国語で返した。
「不是,我是日本人(いいえ、私は日本人です)」
まだまだ発音に自信はないが、多分通じているだろう。イリーはふぅんと頷いて、またミンジュンと話し始めた。
「你,初级班?(あなた、初級クラス?)」
今度は中東美女が俺に話しかけてきた。イリーとミンジュンが二人で盛り上がっている中、気まずい者同士の会話がぎこちなく始まった。
「是,你呢?(そうです、あなたは?)」
「我也是」
「喔,你叫什么名字?(お、あなたのお名前は?)」
「我叫茉莉花(私の名前はジャスミンです)」
「我叫进。他对我说“阿进”(私は進です。彼は私に進ちゃんと言う)」
「阿进,OK。知道了(進、わかった)」
いかにも初級の教科書に載ってそうな会話だが、当事者の俺からすれば冷や汗モノだ。外国語でちゃんと通じあえているという不思議な感覚。しかも相手は国籍も知らない美女。留学してんなぁって、実感する。
「am,My name is mo-li-hua in china,But,My real name is Jasmin,So,Jasmin and 茉莉花,一样的意思。所以,我叫茉莉花(ジャスミンと、茉莉花は同じ意味、だから、私は茉莉花といいます)」
「oh,Good name!」
自分の英語力のなさに愕然とする。なんとなく聞き取れるけど、十分に返せた気がしない。ジャスミンは愛想笑いをしてくれているようだが、どうも申し訳ない。英語力も中国語力もない今、コミュニケーションを取るにはこれしかない。俺はビール瓶を掴んで、ラッパ飲みを披露……しようとした。
しかし実際にはビンのフタを開けていなかったため、何も喉に届いてこなかった。その突発的な行動に、ジャスミンやイリーは笑ってくれた。今度のは愛想笑いじゃなくて本当の笑い。ミンジュンがやれやれという顔で俺からビール瓶を取り、座っていたプラスチック椅子の端で蓋を飛ばして開けた。それにイリーとジャスミンは称賛している。さすがだ兄貴、フォローしてくれて感謝するぜ、と心のなかでつぶやいた。本当は中国語できちんと伝えたかったけど。
冷えたビールを4つのグラスに継ぎ終わり、4人でグラスを合わせた。
乾杯ってなんていうんだろ?
また覚えておかないといけない単語が増えたかも。