17.小聚会
チャイはタイではお金持ちの部類で、大連に留学してきたのも親の会社のあとを継ぐために中国語があったら良いんじゃないかと思って勢いで来ただけだったらしい。それにしても中国語は上手で、まるで中国人と話しているかのように感じるほどだ。そのため、東南アジア系の留学生は毎日のようにチャイを囲んで談笑し、時には調理したものを持ち寄ってうちの部屋で小さなパーティを開いたりしている。
「阿进,下次你也做个日本菜行不?(進、今度あなたも日本料理作ってくれない?)」
「可以啊」
とは言いつつ、特に料理が得意でもない俺。別にできないことはない。おにぎりとか、そういうのならすぐにでも作れる。でもきっと求められているレベルはそこではない。チャイはこの前パッタイやトムヤムクンを作っていたし、他のメンバーだってベトナム風のオムレツみたいなやつとか、チヂミとか作ってきていたから、俺だって負けられない。
ということで早速ジャスミンに相談してみる。日本料理といえば何を連想するのだろう。何を作ったら喜ばれるのだろう。ついでにジャスミンも呼んでヨルダン料理なんて作ってもらえたら盛り上がるだろうな。
そう思ってジャスミンと館山さんの部屋の扉をノックした。出てきたのはラフな格好のジャスミン。俺の顔を確認すると口角を上げて招き入れてくれた。
館山さんはお出かけ中らしく、久しぶりにジャスミンの部屋で二人きり。扉を締めて鍵をかけた瞬間、唇にキスされた。腫れぼったくはないのに妙に弾力があって包み込まれそうになるその唇に骨抜きにされる。
「你是我的了(あなたは私のものよ)」
唇を一瞬だけ離してそう言うと、ニヤッと笑ってもう一度唇を合わせてきた。すべすべの両手のひらが俺の首筋から頬に到達し、頭の中が真っ白になる。ゾーンに入って周りが何も見えなくなり、感覚が鋭敏になる。ジャスミンの荒い鼻息を感じ、居ても立ってもいられなくなった俺は、すぐ側のベッドに押し倒した。
がっしり抱き合い、いざ、というときに、ジャスミンは仰向けになったまま両手を伸ばし、俺の身体を遠ざけた。お互いに何も言わず、ただ荒い吐息だけが二人の間数センチを行き来する。エメラルドグリーンの目に見つめられ、ハッと我に返る。さっきまでの時間が嘘みたいに、窓から差し込んでいる陽の光や机、ベッドの横に積み重なっている本がくっきりと見えはじめた。
「抱歉,到此为止(ごめん、ここまでね)」
そういって前髪をかきあげ、寂しそうに微笑むジャスミン。あまりの衝撃に言葉が出てこない。
「为什么看起来那么寂寞的样子?(なんでそんなに寂しそうなの?)」
「因为很寂寞。不是很寂寞,而是特别特别寂寞(とても寂しいから。いいえ、とってもとっても寂しいからよ)」
「怎么了? 能不能告诉我?(どうした? 教えてくれない?)」
「不能,你有点太温柔了(できない、あなたは少し優しすぎる)」
優しすぎるから言えないってどういうことだろう。せっかく付き合っているのにジャスミンのことを何一つ知ることが出来ない。これって本当に付き合っている状態なのだろうか。確かにもうあと2ヶ月で留学生活が終わるし、それまでの関係だから寂しいっていうのならわかるけど。自分の中でどう気持ちを整理すれば良いのかわからない。さっきの真っ白な頭とはまた違った色の真っ白さが数多の中をぐるぐるトグロを巻いている。
「对了,你来这里干嘛呢?(ところで、なにか用事であるの?)」
「是的是的,今天我的室友又是在我们房间里和往常一样东南亚的朋友们一起做饭吃饭,Jasmin也一起来吗?(そうだそうだ、今日うちでルームメイトがまたいつものように東南アジアのメンバーで料理を持ち寄ってみんなで食べるんだけど、ジャスミンも来ない?)」
「啊……对不起,我不能参加那些活动(あ……ごめん、私そういうの参加できないから)」
「为什么?(どうして?)」
「我们穆斯林不能吃猪肉,加工的也不能,猪油、调料等都不可以吃,所以我只能吃清真菜或自己做的菜。别人做的菜,那个人也应该不是完全把握里面有什么。所以不能放心(私達ムスリムは豚肉が食べられない。加工のものや油、調味料も無理。だからハラール料理か自分で作ったものじゃないと食べられない。他人が作ったものは何が入っているか作った本人もすべてを把握しているわけじゃないと思う。だから安心できない。)」
そういえば気象台で食べたときも食堂でも、総合楼のお店や街中でも、清真と書かれたものから選ぶことが多かったし、実際にそれを一緒に食べてきた。でも、アルコールも確か駄目だったはずじゃないのか? それは例外だとか言い出したら、ルールが曖昧になってしまうような気がするが。
「那为什么你能喝啤酒?(じゃあなんでビールは飲んでもいいの?)」
「其实不能喝。但是有时候偷偷地喝是会允许的,可能是我的家乡的习惯吧(実は飲んじゃ駄目。でもたまにこっそり飲むのは許される。多分私の故郷の習慣でしょう)」
ややこしいが、本人がそういうんだからそれを信じるしか無い。別にみんなで食べるのを嫌がっているわけではなさそうだし、ムスリムっていうのはそういうものなのだろうと納得するしか無い。
「太遗憾了,我想吃你做的饭呢(とても残念、俺はあなたが作ったご飯が食べたいな)」
「下次啦(また今度ね)」
そういって小さい子を慰めるように頭をなでてきて、そのまま軽くキスされた。その瞬間、扉が動く音がして、二人で一緒にビクッとなった。どうやら館山さんが帰ってきたみたいで、二人で鍵をしててよかったねと小言をつぶやき、ジャスミンの代わりに俺が鍵を開けると、館山さんが俺らと同じようにビクッとした。すれ違いざまに挨拶を交わし、結局、ジャスミンを誘えないまま自室に戻った。
戻った途端に気付いたが、ジャスミンを誘うことばかりで自分が本当に聞きたかった“何を作るべきか”を聞くのを完全に忘れていた。まぁ仕方ないか、とチャイの余った材料をもらって野菜炒めを作ることに。
そして当日。チャイはジャスミンも参加すると思って楽しみにしていたのに来なくて残念だとオーバーリアクションで膝から崩れ落ちた。それを見て笑うベトナム女子と北朝鮮男子。俺が作ったただの野菜炒めも、日本から持ってきていたお好みソースを使って炒めたので、なんとか日本風アレンジができた。“こんなに甘い野菜炒めは初めてだ!”なんてチャイが言うものだから不思議に思ったが、どうやら日本のお好みソースは甘いと感じるらしい。なるほど、たしかにそんな気もしなくもない。そして、北朝鮮男子からは“味が表面的じゃないから深い”という評論めいた感想までもらえた。なるほど、普段日本で口にしていたものが、外国に来るととたんに異文化になるのか、と再認識し、これぞ異文化コミュニケーションだなぁと実感した。
留学生らしいことはもうある程度全部経験できたんじゃなかろうか。勉強して、友だちができて、異文化コミュニケーションして。語学力もある程度は身についた。もう十分すぎるほど満足できる。じゃあ、恋愛の方はどうか。ジャスミンと出会って、付き合えたけど、それ以上はない。そもそも期間限定の恋愛関係だからというのもあるけど、これじゃあ恋愛ごっこでしかない。本当にこのままで良いのか。そろそろ全部話してもらわないと気がすまない。ジャスミンが主導権を握ってきたけど、もうそろそろ俺が主導権を握っていかないと間に合わない。どうせもうすぐで別れないといけないなら、このモヤモヤを晴らしてから別れたい。喧嘩にならない程度に、こっちから攻めていかないと。
ソース汚れを落とすための洗い物をする手に、より一層力が入った。