14.新入生
そんな幸せなひとときは、新入生の到着と新学期の始まりであっけなく終わりを告げた。俺は荷物置き場とかしている本来の自分の部屋で生活をし始め、ルームメイトになるタイ人と如何に接していくべきかゆっくり考えながら、ミンジュンを思い出していた。
ミンジュンは俺がこっちに来てから結局ずっと一緒にいてくれたし、勉強する気持ちにさせてくれた。気象台に誘ってくれて、ジャスミンやイリーナと出会わせてくれて、偽iPhoneも一緒に買ってくれて、朝練やその他の相談でもアドバイスをくれた。
じゃあ、今度は俺が新しく来るルームメイトに同じことをしてあげなければならない。例年通りなら俺よりも中国語レベルの低い学生が入ってくるはずで、生活の仕方を0から一緒に教えなければならない。となると、ジャスミンとの時間は必然的に減ってしまう。留学終了と同時に終わってしまうジャスミンとの関係。それを考えると、全く時間の計算が合わず、ため息ばかりが机の上に溜まっていく。
そんな中、ついに部屋に新人が到着した。部屋で新学期のためのクラス替え試験の準備をしていたとき、木の扉をノックする音でハッとした。
「Hi,Im Chai.你是丸山进吗?」
チャイと名乗るその男は、流暢な中国語で俺が丸山進かどうか聞いてきた。それまで考えていた“新人”に対する接し方など、どうでも良い机上の空論だと一瞬で気付かされた。
「是的,Chai是你的本名吗?(そうです。チャイって、君の本名?)」
「不是,我的泰国名字是很长的,所以大家叫我的时候,都是这么叫我的。Chai就是我的名字的最后一个发音。很简单吧(いや、私のタイの名前はとても長いから、みんな私を呼ぶときにそう呼んでいるんだ。チャイは私の名前の最後の発音。とっても簡単でしょ)」
明るく笑顔でそう話すチャイに、少し安心した。言葉も流暢だし、きっとすぐ友だちができて、留学生活を満喫することだろう。残り半年の留学生活は、何不自由なく楽しんで終われるだろうし、ジャスミンとの時間も作れるだろう。そう思っていた矢先、開けっ放しのドアから黒髪のジャスミンが顔をのぞかせた。
「阿进,现在可以吗?(進、今いい?)」
「可以啊,怎么了?(いいよ、どうしたの?)」
ジャスミンは顔の横で招き猫のようにおいでおいで、と合図し、俺はそれに吸い込まれるようについて行った。ジャスミンは自分の部屋まで案内し、扉の前でくるっと振り向いて俺の両手をがっしり握った。
「我的室友来了,但她可能不会说中文,我们沟通不了,你帮我们翻译好不好?(ルームメイトが来たんだけど。多分彼女は中国語が出来ないらしくて、コミュニケーションが難しいの。通訳してくれない?)」
なるほどそういうことか。お安い御用だとジャスミンを安心させると、周りに誰もいないのを確認してからキスされた。手も握られているしキスもされるしで有頂天になった俺は、颯爽と扉を開けて新入生とご対面した。
「はじめまして。丸山進です」
「え、日本人ですか? 私、館山加奈って言います。あの、私ホントに何もわからず来ちゃって。どうしたら良いのかわかんなくって!」
半年前の俺も、こんなふうに見えてたんだろうな。ジャスミンの前だし、ここはしっかりお兄ちゃんらしく振る舞わないと。
「大丈夫大丈夫、俺もこっち来てから勉強し始めたから、はじめはそんな感じだったよ。とにかく話す機会を増やして、習ったことどんどん使っていけばそのうち身につくからさ。がんばろうね」
「はい! とても優しいんですね。優しい方に巡り会えて嬉しいです、頼りにさせていただきます。よろしくお願いいたします!」
なんだか久しぶりに日本語を使うと口がうまく脳と噛み合っていない感じがする。なんか不思議な感じ。本当はあまり留学中に日本語を使いたくなかったけど、今回は特別。ジャスミンの安堵の表情を見られるんだから、それ以上のものはない。
それから俺は二人の通訳として間に入った。これはこれで結構良い勉強になる。他人が伝えたいニュアンスを他人に伝わるように翻訳していく。また脳内に新たなゾーンが出来たような感覚だ。二人は自己紹介やこっちでの生活についてなど、どんどん話を膨らませていく。ガールズトークの世界にずるずると渦を巻いて流されていくような気持ちになる。やはり女性は服装の話題が好きらしく、前に俺が気象台でジャスミンと話したように、館山さんもそこに興味を持ち、こんな柄がどうだとか、色味の合わせ方だとかを延々話していく。俺を介しているはずなのに全く俺の存在が無いように話す二人の間にはもう既に二人の世界が出来ていて、その隙間に入り込めなかった。
途中でジャスミンはアラームが鳴っているスマホを取り出し、午後の礼拝が有るからと部屋を飛び出していった。最近、礼拝の時間やメッカの方向がわかるアプリが出たらしく、ジャスミンはそれに従って動いている。そういうときだけ出てくるイスラム教徒らしさに、普段のジャスミンの様子とは違うギャップを感じて、なんだかもやもやしている。
初対面の女の子と彼女の部屋で二人きりになってしまい、じゃあお邪魔してもアレだしと思って帰ろうとしたが、館山さんに呼び止められた。
「あの、ありがとうございました。大変助かりました!」
「ああ、いえいえ。またなんかあったら言ってね」
「あ、じゃあ日本人グループの方から連絡先追加させてもらいますね」
「あ、ごめん、俺それ入ってないんだよね。日本人とあんまりかたまりたくなくってさ」
日本人グループとは中国のSNS上のメッセージグループで、この学校の日本人はだいたいそこに入っていて情報交換しているらしい。そういうのに入るとどうしても日本にいる感覚になっちゃうし、結局語学力も上がらないから、俺はあえて入らないようにしていた。館山さんはそれに入っているらしく、俺もそれに入っていると勘違いしたのだろうと思われる。
「そうなんですね。じゃあ、直接連絡先聞いても良いですか?」
まぁ、こうして出会ったんだし、ジャスミンのルームメイトだし、館山さんが嬉しそうにしてくれるから、館山さんも例外の特別枠として連絡しても良いことにした。連絡先を交換し、ジャスミンの部屋を出て自分の部屋に戻ると、チャイが同じタイから来たのだろうと思われる、東南アジア系の友人を数人、部屋につれてきていた。
「刚才的美女是你的女朋友吗?(さっきの美女ってあなたの彼女なの?)」
「是啊,好漂亮吧?(そうだよ、綺麗でしょ?)」
「真漂亮啊,哈哈(本当に綺麗だよね、ハハ)」
地べたでお菓子を囲んで盛り上がっている中、突然俺が入室したからなのか、はじめはチャイが主導的に俺のことを紹介して(と言うか多分ジャスミンのことを多めに紹介して)盛り上がっていた。その後はどんどんタイ語の比率が高くなり、また違った感じの言語も飛び交うカオスな空間に変わり始めた。結局彼らも日本人グループのようにネット上で東南アジアグループとしてかたまっている東南アジア人たちで、タイの他にはラオス、ベトナム、シンガポール、そしてなぜかモンゴルや北朝鮮からの留学生もいた。
もちろん日本にいたら関わってこなかった人たちばかりだから、前の半年間も相当楽しかったが、これからの半年間も楽しいものになりそうだ。
と、このときは楽観視していたのだが、このとき既に、徐々にバランスが崩れ始めていたことを、俺はまだ1ミリも気付いていなかった。